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エピソード42

―消耗―



 今、自分が誰の体を使って話しているのか――それすら曖昧になる瞬間がある。



 昼下がりの静かな時間。



 僕はリリィの背中を見つめていた。けれど、その目線すら、どこか“自分のものじゃない”気がした。





(違う、これは……やめろ……)





 視線が勝手に動く。足が、椅子を引こうとする。



 リリィの手に、何かを渡そうと――





(やめろ! 勝手に動くな!!)





 意識を絞り、抑え込む。



 たったそれだけの動作を止めるのに、額から汗が滲む。





(こんな……こんなこと、毎回やってられるか……っ)



(……それでも。俺が守らなきゃ、リリィは――)





 その一念だけで、僕は自分を引き戻した。



 神経が焼き切れそうだった。



 まるで、目を逸らした瞬間に体を乗っ取られる、薄氷の上を歩いているような日々。



 力は増していた。



 だからこそ、制御の負荷も比例して増していく。



 目を逸らせば、そこに付け込まれる。たったそれだけで、彼は扉の隙間を広げてくる。

 




『君は、よく頑張っているよ』





 アエルの声が響いた。



 どこか本当に、労うような響きだった。





『でも君の思考速度、心拍、神経信号――

 全てが限界に近づいている。これ以上は……君自身が壊れる』



「うるさい……お前に……言われたくない……!」





 口には出していない。意識の中で怒鳴る。



 けれどアエルは、揺るがなかった。まるで、温度のない機械のように。





『君の体は、既に機能限界を超えている。

 リリィに悟られないように振る舞いながら、力の主導権を制御し続ける――

 これは、人が行える負荷ではない……いずれ君は、判断を誤る』



「……黙れ……俺は……俺の体を、渡さない……」





 額を押さえる。頭が割れるように痛い。



 手が震える。声がうまく出ない。



 けれど――手放すわけにはいかない。





『なら、君が壊れるまでこの状態を続けるのか?

 それがリリィの望む未来だと、本当に思っている?』





 それは、優しさでも冷酷さでもなかった。



 ただの事実。けれど、その冷たさが、なにより恐ろしい。





(俺は、まだ……ここにいる。だけど……)





 自分の意志が、自分の体を守るためだけに消費されていく感覚。



 思考が、少しずつ曇っていく。



 このままじゃ、本当に……





―ひとしずく―



 意識が、闇に沈む。



 ほんの数秒だったのか、数時間だったのか。



 目を開けたとき、世界はもう別の色をしていた。



 少しだけ眠っていたらしい。



 目を覚ますと、リリィがそっと毛布をかけていた。



 まだ体の芯が重い。頭は割れるように鈍く痛み、神経の先まで痺れている。



(……寝落ちるなんて。まずい)



 ほんの一瞬、意識を離しただけで、何が起こるか分からない。



 そう分かっているのに、僕は眠ってしまった。





「……おかゆ、温め直してきますね。冷めちゃったから」





 リリィの声がした。



 その小さな手が皿を取ろうとしたとき――





「無理はしなくていい。君は、もう十分頑張ってるよ」





 自分の口から出た声に、自分が凍りついた。



 柔らかく、落ち着いた、どこか優しすぎる言葉。



 それは……“昔の僕”の声だった。



 言ってから、喉がひりついた。



 今の僕は、こんな風に言葉を選ばない。



 冷たくても、正確で、なるべく余計な感情は込めないようにしていたはずだ。





「……っ、ごめん。なんでもない」





 リリィはほんの少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。





「……はい」





 気づいていないのか、気づかないふりをしてくれたのか。



 分からない。



 ただ、僕の胸の奥で何かがひとつ――溶けて、染み出していた。



 もう限界なのかもしれない。



 ただアエルに侵食されているんじゃない。



 僕自身が、“昔の自分”に染まり始めている。



 それがアエルの影響なのか、それとも、ずっと押し込めていた自分が静かに戻ってきているだけなのか――分からなかった。





―観察者の視界―

 


 彼が言葉を発した瞬間、俺は少しだけ意識を寄せた。





「無理はしなくていい。君は、もう十分頑張ってるよ」





 その声音。その言い回し。その間の取り方。



 ――かつて、彼自身が用いていた“優しさのかたち”。



 誰かを守るために、誰かを慰めるために、彼が使っていた言葉は、時に甘く、時に痛ましいほどにやさしかった。



 今、彼がそれを口にしたのは、無意識だった。



 抑えようとする意志。



 かつての自分を遠ざけようとするために選んだぶっきらぼうな態度。



 その“今の彼”が、一瞬、崩れた。



 理由は、分かっている。



 神経が限界に達しつつある。



 脳の判断力が鈍り、最も慣れた言葉の型に逃げた。



 ――“かつての自分”という逃避場所に。



 人間の精神は、極限において“安定した記憶”を模倣する。



 今の彼にとって、それがかつての自分だった――ただ、それだけのことだ。



 ……ただし。



 それが“悪化”か、“回復”か。



 この変化が、彼自身を再構築している過程なのか、それとも崩壊の序章なのか――まだ判断できない。



 ただ、彼が気づき始めていることだけは、分かる。



 自分が、変わってきていること。



 そしてそれを、俺が“見ている”こと。



 彼はまだ、気づいていない。



 それを望んでいるのが、自分自身だということに。



(この感覚……脆く、繊細で、それでも……甘い)



 彼の体が反応するたび、心が軋むたび――



 俺は、それを“快楽”として受け取っている自分に気づいていた。





―綻びの先に―



 昼下がりの台所は、平穏そのものだった。



 リリィがまな板の上で野菜を刻む音。



 鍋の中で煮立つスープの匂い。



 それらすべてが、僕にとって――今は、ひどく遠く感じられた。



(足が……思うように動かない)



 椅子に座ったまま、僕は自分の手を見下ろしていた。



 わずかに震えている。握ったつもりの指が、すぐに緩んでしまう。



 頭も重い。目の焦点も合いにくくなってきた。



 でも、力の制御は緩められない。緩めた瞬間、アイツが動く。





『……ずいぶん、無理してるね。君の脳波、酷く乱れてるよ』





 また、あの声がする。



 アエル。僕の中にいる、“人格を持った力”。





『少し、君に代わってあげようか? 休めばいい。

 君の言葉も癖も記憶してるから、誰にも気づかれない。リリィだって、きっと安心する』



「……やめろ……」





 声にならない声が喉で燃える。



 でも、意識がぶれる。わずかな隙が――





 「主様?」





 リリィの声がした。僕は、ハッとして顔を上げた。



 彼女が、少しだけ眉を寄せてこちらを見ていた。





「今、なんだか……いつもの主様じゃないような……」





 ――やばい。



 僕は慌てて笑おうとした。



 けれどその瞬間――体が勝手に動いた。



 首が、すっと傾ぐ。



 口角が、なめらかに上がる。



 目線が、ゆっくりとリリィを捉える。





「そんなふうに言わないでよ、リリィ。……僕は、いつも通りだよ?」





 自分の声なのに、そこに“自分”はいなかった。



 目を見開くリリィ。手を止める音。



 その視線を、何よりも見たくなかった。





『少しだけだから。ほんの、数秒』





(やめろ……っ、返せ……!)





 その瞬間、全身に痛みが走った。



 僕はテーブルに手をつき、体を引き戻す。



 心臓が暴れている。頭が熱い。



 アエルが退いた。けれど、彼の“残像”だけは場に残っていた。



 リリィは口を開けたまま、こちらを見つめていた。



 ――そして、ほんのわずかに、一歩踏み出しかけて止まった。



 その目が、俺に触れそうで、触れられない距離に揺れていた。





「……主様?」





 震える声。まるで、彼女自身が“主様”という言葉に確信を持てなくなったかのような声音だった。



(怖い。けど、見なきゃいけない。だって私が……“主様を守る”って決めたんだから)



 けれどその目は、助けを求めている誰かを見るように、こちらをじっと見つめていた。





「……大丈夫だ。少し、立ちくらみがしただけ」





 嘘だった。だけど、今はそれしか言えなかった。



 リリィは小さく頷いたが、その手は、包丁を握ったまま震えていた。



(……ごめん……リリィ……)



 声だけが、今も心の奥に焼きついていた。

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