エピソード39
―綻び―
今日の主様は、よく喋る。
ふと、そんなことを思った。
いつもより言葉の数が多く、丁寧で、どこか気遣いに満ちている――まるで、完璧に“優しい主様”を演じているような。
「リリィ、紅茶のおかわりを。君の手で淹れたものが飲みたいんだ」
「は、はい……すぐに」
微笑んで応じながらも、胸の奥にざらついた違和感が残る。
――主様は、こんなふうにお願いをしたことがあっただろうか?
いつもは、自分で淹れてくださった。
言葉少なに、でも私が困らないように気遣ってくれて。無口だけど、心がこもっていて。
けれど、今目の前にいる主様は――
よく笑う。
よく喋る。
そして、どこか空っぽだ。
(……主様っぽい言葉を喋っているだけ、みたい)
私はポットにお湯を注ぎながら、そっと目線を彼に向ける。
主様は、ソファに座ってこちらを見ていた。微笑を浮かべたまま、じっと。
その目は、どこか“見る”ためのものではなく、“記録する”ためのように思えた。
「君は……ずっと僕を見てきたんだよね?」
唐突に、声がかけられた。
「え……?」
「不思議だなって思って。君の目は、他の誰とも違う。
優しいけれど、ただ優しいだけじゃない。ちゃんと見ようとしてる。昔から、ずっと」
言葉の重ね方があまりに巧みで、一瞬、心がほぐれそうになる。
だけど、それが逆に怖かった。まるで、私の“理想の主様像”をなぞって語っているような。
「……ずっと、見てきたつもりでは、います」
「ふふ、それじゃあ聞いてもいいかな?」
ソファに座る主様――彼は、ほんの少しだけ首を傾げた。
それだけで、空気が緊張する。優しいのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
「今の“僕”は、君の知っている“僕”と、同じかな?」
手が止まった。
問いかけは穏やかだった。
でも、まるで――答えを試されているようだった。
「……あの……それは……」
口を開こうとして、言葉が詰まる。言えない。
言ってはいけないような気がした。言えば、何かを壊してしまうと、そう感じてしまった。
そのとき――
『おい、やめろ……やめろッ……!!』
(……視界がまた、歪んで……ダメだ、もう少しだけ……)
頭の奥に、何かが響いた。
まるで、檻の中で暴れる声が、鉄を軋ませるように。
(今までずっと研究してきただろ!……もしものときのために、あの術式が発動すれば……たのむ、うまく機能してくれ……!)
そして、主様が――笑った。
(術式を発動させるにはもっと……神経を焼ききれる寸前まで高速で回転させる必要が……)
「ごめん、ちょっと意地悪だったかな。そんな顔をさせたくて、言ったんじゃないよ」
(動け……! 動いてくれ……!)
笑顔は変わらなかった。けれど、その唇の端が――まるで痛みに耐えるように、わずかに引きつっていた。
それは“主様”の顔では見たことのない、どこか“作り物の表情”だった。
苦しそうに、笑っているように見えた。
(……今の……主様……?)
ルナは、まるで“境”を見抜く者のように、静かに主様を見つめていた。
「君は君のままでいて。僕も、君を大切に思っている。それだけで、充分だよ」
その言葉は甘かった。とても綺麗だった。
その綺麗すぎる言葉が、なぜか胸の奥を冷やした。
思わず、手にした紅茶の湯気が――歪んで、まるで“向こう側”に逃げていくように見えた。
私が信じている“主様”は、今も、あの中にいるのだろうか。
――それとももう、声も届かない場所に。




