エピソード22
―黒い兆し―
最初は、本当に小さな出来事だった。
朝、いつもより早く畑に出た老人が、自分の家の壁に黒い煤のような印が浮かんでいるのを見つけた。
それは奇妙な目のような模様で、どこか生きているようにすら感じられたという。
「誰かの悪戯かと思ったが、どうにも拭えないんだよ。まるで、こっちを見てるみたいでな……」
村の人々の間に、微かなざわめきが広がった。
それから数日。夜中の静寂を破るように、村の警鐘が鳴らされた。
飛び起きた村人たちは、武器を持って外に飛び出したが、異常は何もなかった。
だが、鐘楼の下には、黒衣の信者が立っていた。
「……これは主の呼び声だ。森が目覚めようとしている。その兆しを、皆が見るべきだ」
その言葉に、誰も何も言えなかった。不気味な笑みだけを残し、信者は静かに去っていった。
さらに次の日。
井戸の水が、変色していた。
濁りの中に、黒い粉が漂っていた。誰かが何かを流したとしか思えない。
「これは“聖灰”です。清き者の中にのみ、神の声が流れ込む」
黒衣の女が、そう言って笑った。
だが、聞き慣れぬ言葉とその異様な笑みに、村人たちは誰一人として笑い返せなかった。
「飲んだ者に害はない……ただ、選ばれなかった者の腹が痛むだけです」
言い返せなかった村人たちは、水を使うことを止めた。
けれど、それはもう、生活の破綻の始まりだった。
そして、事件は続いた。
遊んでいた子どもたちの手の甲に、黒い印が描かれていた。
「お兄さんが特別な祝福をくれたの」
そう笑った少女の瞳は、まるで星のようにきらきらと輝いていた。
――あの印が、なにかおぞましいものに見えなければ、という前提であれば。
親たちは激怒した。
けれど、黒衣の男は答える。
「これは目覚めの印。いずれ、導かれる者には必要となるだろう」
その夜、村長の家に石が投げ込まれた。
窓に貼られていた浄化を願う祈りの札が焼け焦げていたという。
村人の顔から、笑顔が消えていった。
表立った暴力ではない。誰も血を流してはいない。
けれど、村の心が静かに蝕まれていく音が、確かにあった。
ギルドマスターはそれまで、事態を静観していた。誰も流血していない。それが唯一の理由だった。
だが、静かに蝕まれる村の空気が、もう引き返せない地点に差しかかっていることに……彼は気づいていた。
ギルドマスターは、椅子に沈むように座っていた。
その視線が、静かに村の広場を見渡す。
まるで、何かが壊れ始めた音を聞き取ったかのように――
そして、彼は静かに、立ち上がった。
それは、村の均衡を守ってきた者が、ついに剣ではなく、意志を抜いた瞬間だった。




