エピソード18
夕暮れ、風が草木を揺らし祈りの煙の残り香をさらってゆく。家々の窓には明かりがともり始めており、世界は夜へと傾いている。
「イオ様は……“冥恩教団”の方、なんですよね?」
祈りの時間が終わり、信徒が家々へ戻るなか、その言葉だけが、まだ空気に残っていた。ラナは疑問を口にした。
「ええ。冥恩教団、黎恩の翼のリーダーを務めています」
イオは微笑を浮かべ、夕日を背にして静かに語る。
「闇の中にあっても恩寵を忘れぬこと。それが冥恩の名に込められた意味です」
「……あの、でも」
ラナが不安げに言いかける。
「同じ教団でも、あの黒衣の人たちは少し違いますよね……?」
「えぇ、そうですね。まず、私たちは黎恩の翼と呼ばれています」
イオは静かに続けた。
「闇の中にも黎明はあると信じ、“穏やかな道”を選ぶ者たちの集いです」
「では……あの黒衣の人たちは……?」
「“深淵派”と呼ばれています。かつては同じ信仰を掲げた仲間たち……しかし今は……」
イオは視線を落とし、地面の影を見つめた。
「ですが、彼らは――闇そのものを恩寵と見なすようになった。祈りの形が、違ってしまったのです」
「でも、本当に同じものを願っているのですか? 私にはなにか、少し違うように思えて……」
ラナは不安そうに話した。
「祈りは、望みに似ています。誰かを救うために生まれたはずの祈りが、時に誰かを押し潰すこともあります」
ラナは黙ってうつむく。イオは、彼女の頭に手を添え微笑み、静かに言った。
「大丈夫。ここでは、私たちが見守っていますから」
―ある日―
この国、ノル=エンにはとある言い伝えがある。
【朝焼けに祈るな】
それは赤すぎる朝焼けの日は、祈ってはいけない。祈ったものはその日からなにかに見られている、と感じるようになる。
そのなにかは、いずれ夢に黒い影として現れる。そういった言い伝えがあるのだ。
「……朝焼けが赤くて、不安だったの」
ラナはそっと井戸に水桶を落としながら、イオに視線を向けた。
「祈らないようにはしてたけど、それでも、影に見られてるようで……」
「恐れを抱くのは、悪いことではありません」
イオは微笑みながら、ラナの手元に視線を落とした。
「それは、あなたが命を大切にしたいと願っている証でしょう?」
「……でも、あの黒い服の人たちは、祈るのをやめないんです」
「……ええ。彼らには、彼らなりの救いの形があるのでしょう。ただ……」
イオは、井戸の水面に映る赤空をじっと見つめた。
「光が届かない場所では、何を掴もうとしているのか、自分でもわからなくなる。だからこそ、私たちはいつ祈るかを選ぶのです」
ラナはその言葉に、小さく頷いた。イオの語りは、厳しさの中にも優しさがあった。
「……イオ様」
「なんでしょう?」
「いつか……本当に、影が現れたら、どうすればいいんですか?」
イオは静かに立ち上がり、ラナの肩に手を添える。
「その時は……共に向き合いましょう。私も、あなたも、一人ではありませんから。
影に怯えぬよう、私は光を掲げ続けます」
―イオの過去のとある日の対話―
風が石の聖堂跡を吹き抜けるたび、崩れかけた祈祷台の影がイオの足元に揺れた。
かつて仲間であった男は、そこに立っていた。まるで祈りそのものが形を持ったかのように、背を向けたまま動かない。
「……また、ここに来ていたのですね」
イオの声に応えるように、黒衣がふわりと揺れた。
「イオ……あの子を、見捨てたな」
あの、両手で空を掴もうとした小さな背を、忘れたのか。
言葉は鋭く、責め立てるようであった。それでもイオは、まっすぐに答える。
「私は、……救える命を選んだつもりです。でも、影に触れて祈ることは……もう戻れなくなる道なんです」
「……あの子は、死んでもなお、救いを求めていた。祈らなければ、俺が見失ってしまいそうでな……それが俺の“始まり”だった」
男はゆっくりと振り向いた。深い眼差し……だが、その奥に宿るのは、怒りか、それとも絶望か。
「お前は、恐れから目を背けた。それが救いだと?」
「……違います。私は、共に生きる未来を信じています。誰かの命を、犠牲にしないために」
「それは甘えだ。覚悟も信仰も、そこにはない」
イオは小さく息を呑んだ。その男の言葉は、かつての仲間の声とは思えなかったからだ。
「では、あなたの祈りは、死を越えてでも救いを求めろというのですか?」
「そうだ。それが神への忠義だ」
男の目は燃えていた。静かに、狂おしいほどの強さを秘めて。
「私は、祈りとは生者のためにあるものだと信じている」
「俺は、祈りとは死者のためにこそあると知った」
「ならば……もう、言葉は届かないのでしょうね」
イオは悲しげに微笑み、頭を垂れる。
「……イオ、お前ならわかってくれると思っていた。
あの子を見捨てるなんて、俺たちらしくなかっただろう?……光だけでは影を制せぬぞ。イオ」
背中越しに響いた言葉が、どこか呪いのようだった。




