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 ハイウェイ・チェイス

 ネオ・トーキョーのハイウェイを、一台の超高級車スレイプニルが疾走する。

 一見すると銀色に見えるほど淡いブルーの車体には、特殊な光干渉ピグメントが配合されている。夜の極彩色のネオンを乱反射させながら、透き通るような水色の輝きを放って闇を切り裂いていく。その優美で洗練されたボディラインと、怪物的な馬力。それらを兼ね備えたこのハイパーカーは、世界有数の大企業がひしめくネオ・トーキョーといえど、片手で数えられるほどしか存在しない希少な代物だ。


 後部座席でリリカ・ヴォルコヴァは目を丸くして、最高級レザーのシートに深くもたれかかっていた。


「おいおいおい、マジかよサナエちゃん……! スレイプニルだぞ!? 最高時速400キロ超えのバケモノエンジン積んでて、おまけに内装から防弾仕様まで全部フルオーダーメイドっていう、あの伝説の車じゃん! これ一台でアタシの生涯年収超えてんじゃねぇの!?」


 リリカは興奮を隠せない様子で、運転席の早苗に話しかけた。


「アンタの愛車って言ったら、もっとこう……走り屋御用達の『御影ミカゲ』系だと思ってたぜ」


 『御影』は日本の歴史ある自動車メーカーだ。空気抵抗を計算し尽くした流線型のボディと、特徴的な『切れ長のスリット・ライト』がトレードマークの職人気質なメーカーであり、中流の企業社員たちが多額のローンを組んででも手に入れたがる『憧れの車』の代表格である。


「……御影『残影ザンエイ』ならガレージにある」


 早苗は前を見据えたまま淡々と答えた。

 地面に這うような低い車高と、極限まで無駄を省いた滑らかなシルエット。フロントガラスからルーフにかけて継ぎ目のない『水滴ティアドロップ型』のキャノピーを採用している。テールランプは一本の細く鋭い赤いライン(一文字テール)になっており、夜の街を猛スピードで走り去るその後ろ姿は、まさに『残影』の名を体現している。クールで洗練されたそのデザインは、確かに早苗が乗る愛車としてぴったりな一台だ。


「だが、あれは二人乗りのスポーツクーペだ。今回のように『荷物』が二人も増える事案には適していない。非効率だ」

「いやいや! スレイプニルは残影以上のハイパーカーなんだが!?」


 リリカは呆れたようにツッコミを入れた。

 『残影』といえば、リリカのような傭兵やアウトローたちにとっても、いつかは乗り回したいと夢見る車の筆頭だ。しかし目の前の少女は、それ以上の超高級車を平然と『ただの任務帰還用の足』として呼び出し、乗り回せるのだ。


「効率とか以前に、こんな高級車をさらっと出せる度胸が怖ぇよ……あんたには驚かされっぱなしだよホント」


 早苗はハンドルに触れていなかった。彼女の瞳は青く発光し、ニューロ・リグ『ヘル』を通じて車両のOSに直結している。ステアリング、アクセル、ブレーキ、すべてが彼女の思考一つで制御され、超高速で車列を縫っていく。


「……無駄口を叩くな。来るぞ」

「ああん?」


 リリカがバックミラーを覗き込む。そこには、信じられない光景が映っていた。後方から迫る、赤髪の巨女――尊。彼女は車など乗っていない。自らの足で、アスファルトを蹴り砕きながら、時速400キロを超えるスレイプニルに追走しているのだ。


「うっわ、あのバカ……! 走って追ってきてんのかよ!?」


 リリカが悲鳴を上げる。


「しかも速ぇ! 嘘だろオイ!」

「想定内だ……騒ぐな」


 早苗の思考コマンドが送信される。スレイプニルが急激にハンドルを切り、中央分離帯を突破した。


「ちょっ、サナエちゃん!?」


車は反対車線――対向車が猛スピードで迫ってくる死のレーンへと飛び込んだ。クラクションの嵐と、すれ違うヘッドライトの光。


「マジかよオイィィィッ!!」


 リリカは悲鳴を上げながら、両脇の蛍と八尾を死守するよう抱きしめた。当の二人は、激しいGがかかっても「むにゃ……」「くぅ……」と幸せそうに寝息を立てている。


「二人を死んでも離すなよ」


 早苗の冷徹な指示が飛ぶ。


「わ、わーってるよ! くそっ、寿命が縮む!」


リリカは再び後方を確認した。


「……あれ? いねぇぞ?」


 バックミラーから尊の姿が消えていた。対向車の波に飲まれたか、あるいは諦めたか。


「撒いたか……?」


 リリカが呟いた直後、早苗が鋭く告げた。


「左だ」

「え?」


 リリカが左側の窓を見る。そこには、ハイウェイ沿いに立ち並ぶ高層ビルの壁面を、重力を無視して垂直に走る尊の姿があった。彼女は対向車を避けるため、道路ではなく壁を走路に選んだのだ。


「壁走りだとォッ!?」


 尊がビルの壁を蹴り、大きく跳躍した。放物線を描くその影は、スレイプニルの進路を完全に塞ぐ形で落下してくる。


「ヤバッ、まずいッ!」


 リリカの口から焦燥の声が漏れる。思考するよりも早く、脊髄反射で過剰駆動オーバードライブを起動する。


「『迦楼羅』ッ!!」


 空中に浮かぶ尊の姿が、スローモーションで迫ってくる。その拳は、スレイプニルのルーフを粉砕する構えだ。リリカは蛍たちを抱えたまま、片手で『天之羽矢アマノハバヤ』のトリガーを引き絞ろうとする。


(撃ち落とす……!)


 だが、リリカの思考が停止する。

 スローモーションの世界の中で、対向車線を走っていた一台の大型トレーラーが、不自然な挙動を見せた。

 まるで、見えざる手にハンドルを切られたかのように。

 トレーラーは急激に車線変更を行い、空中の尊へと突っ込んでいった。


「……は?」


 リリカの過剰駆動が停止タイムオーバーした。


 ドゴォォォォンッ!!


 腹の底を揺らすような鈍い衝撃音と共に、泥のように引き伸ばされていたリリカの時間感覚が、急速に現実の速度へと引き戻される

 空中で無防備だった尊に対し、数十トンの鉄塊であるトレーラーが正面衝突したのだ。尊の巨体はボールのように弾き飛ばされ、後続のトラックに巻き込まれるようにしてアスファルトの上を転がっていった。


「……余計なことをしなくていい」


 彼女は尊の着地点を寸分違わず予測し、タイミングを合わせて対向車線のトレーラーをハッキングしていたのだ。


 「サナエちゃん……アンタ……やっぱすげぇヤツだよ! アタシなんか、あんなバケモノが上から降ってきたら、もうダメかもなんて本気で思ったぜ!」

 

 リリカは興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。

 自分たちが乗る超高速車両の走行制御、尊の異常な挙動の予測、そして対向車のシステムへの侵入と乗っ取り。それら全てを同時に、しかもコンマ数秒の世界で瞬時にやってのけたのだ。

 リリカ自身はハッキングに関しては専門外だが、これまで何人もの腕利きサーファーと仕事をしてきた経験はある。だが、こんな神がかったマルチタスクを息をするようにこなせる者など、ストリートの裏社会でも絶対に存在しないと断言できた。


「いやマジで! サナエちゃんがいれば大船に乗った気分ってやつ? もうアタシ、一生ついていくわー!」


 リリカは後部座席から身を乗り出し、これでもかと早苗をヨイショした。


 しかし――いつもなら即座に「騒ぐな」とか「非効率に喚くな」と冷たいツッコミが飛んでくるはずだが、運転席の早苗からは一切の返答がなかった。


「……おーい、サナエちゃーん?」


 リリカは不審に思い、恐る恐る様子を窺った。早苗は前を見据えたまま、じっと黙り込んでいる。その横顔に敵を退けた安堵感はなく、むしろ張り詰めた空気が漂っていた。

 数秒の重い沈黙の後、早苗がようやく静かに口を開く。


「……すまない。少し考えごとをしていただけだ」


 その言葉を聞いて、リリカは微かに目を細めた。

 バックミラー越しに見える早苗の表情は、いつも通りの完璧な氷のポーカーフェイスだ。だが、リリカに対してわざわざ「すまない」と謝罪を口にした。今回の戦闘や逃走劇において、早苗には何一つ過失などないにも関わらず、だ。

 だからこそ、リリカはそれが早苗なりの不器用な『誤魔化し』だとすぐに見抜いた。


 彼女のようなプライドの高いエリートが、ストリート出身の傭兵に対して誤魔化したいことなど決まっている。それは自身の『弱味』だ。

 シャンパンを出した時にお酒が飲めないことを必死に隠そうとしたように、ハッキングとマルチタスクによる激しい脳疲労を他人に見せることすら、この完璧主義の少女にとっては許しがたい弱味なのだろう。


 リリカはニシシと笑い、あえてそれ以上は追求しなかった。

 むしろ、その不器用な強がりに乗ってやることにした。


「そりゃあ、サナエちゃんは考えることがいっぱいだもんなぁ?」


 リリカは最高級レザーのシートに背中を預け、わざとらしく腕を組んでみせた。


「サカイのお偉いさんにいる裏切り者のことに、さっきの規格外のバケモノ刺客。おまけに墜落しちまったお高い『天浮橋アマノウキハシ』の始末書……それと一番大事な、アタシへの特別ボーナスの額もたっぷり考えなきゃいけないもんなぁ?」


 冗談めかした厚かましい要求に、早苗は小さく息を吐いた。


「……こんな状況でも、君は自分のアピールを欠かさないわけだな」


 バックミラー越しに聞こえてきた早苗の声色は、いつもの機械的な冷徹さとは違っていた。呆れの中に、どこか可笑しそうな、毒気を抜かれたような柔らかな色を帯びていた。


「そりゃあ、サナエちゃんは大事な『ビジネス・パートナー』だからな。しっかり請求させてもらうぜ」


 リリカはニヤリと笑い、さらに一歩踏み込んでみせた。


「でも、これがプライベートとなれば話は別だぞ? サナエちゃんのためなら、たとえ火の中水の中。特別にタダで地獄まで付き合ってあげるぜ?」

「……タダの代わりは、ボクの体ってわけか」

「御名答! サナエちゃんのちっちゃい身体に不釣り合いなハリのあるお胸には、余裕でそれだけの価値があるんだよなぁ~」


 リリカが胸のあたりで両手をわしわしと動かしながら、下世話な冗談を飛ばす。

 普段の早苗であれば、「非効率な妄想だ」「セクハラとして人事部に報告するぞ」などと即座に氷の刃で切り捨ててくる場面だ。


 しかし、運転席の早苗から漏れたのは予想外の言葉だった。


「……どうしようか」


 疲労の色が濃く滲んだ、独り言のような小さな声だった。だが、リリカにははっきりと届いていた。


(……マジかよ)


 リリカは内心で舌を巻いた。

 あからさまな冗談を冗談として処理しきれず、あろうことか本気で『護衛の対価』として検討しかけている。

 リリカは直感した。ポーカーフェイスで強がってはいるが、早苗の脳と精神はとうに限界に近いのだ。彼女は今、こちらの想像以上に相当消耗している。


 (……今なら、いけるかもな)


 リリカの頭の片隅で、狡猾な打算が顔を出した。

 このまま甘い言葉でしつこく迫れば、思考力の低下した早苗はあっさりと根負けして頷くだろう。そして一度でも言質を取ってしまえば、取引成立だ。早苗は極めて律儀で義理堅い性格をしている。後で冷静になって後悔したとしても、自ら結んだ契約――リリカと『プライベートな関係』を持つこと――に対して反発はしないはずだ。


 しかし。


「ま、このまま無事に帰還してからゆっくり考えてくれよ」


 リリカはあっさりと引き下がり、窓の外へ視線を向けた。


 彼女は、心身共に弱った人間につけ込んで契約を結ぶことを良しとしないタイプの傭兵だった。そこに論理的な理由はなく、損得勘定で見れば大損でしかない。ただの、血生臭い傭兵稼業を生き抜く上での個人的な美学のようなものだ。

 もっとも、それもかつての師匠からの受け売りに過ぎないのだが。


「今は運転に集中しな、サナエちゃん。アタシの命と、このお姫様たちの命も懸かってんだからさ」


 リリカの言葉に早苗は一呼吸おいてから言った。


「……行くぞ。サカイ・タワーまで、ノンストップだ」


スレイプニルは再び加速し、夜の闇へと消えていった。


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