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 野良犬

 サイバーパンクお嬢様の敵紹介回


 ネオ・トーキョーの地下深く、かつて防空壕だった空間を改造したその場所は、重低音と紫煙、そして安物の合成アルコールの匂いに満ちていた。

  ここには黄泉路ヨミジにも地獄の釜にも似た名前が付けられている。

 ならず者たちの聖地、会員制バー『比良坂ヒラサカ』。


 分厚いコンクリートの壁に反響するインダストリアル・テクノのビートが、グラスの中の液体を小刻みに震わせている。


 ヴィンセントはカウンターの隅、最も照明が届かない席に深く腰掛けていた。

 その異様な風体は、この薄暗がりの中でも嫌でも目立つ。全身を包む重厚なナノセラミック加工の軍用パンツと、装甲繊維コンバットシャツ。そして何より、彼の顔面を覆う無骨な耐腐食マスクと、そこから放たれる不気味な黄色い光――アポクロマートバイザーが、彼の二つ名である『単眼巨人(サイクロプス)』の由来を無言で語っていた。


 「……おい、あそこにいるデカブツあれだろ!」

 「あっああ、サイクロプスだ……。なあ、先週のミナト・ベイエリアでのドンパチがあっただろ? あれはあいつがやったらしい……。三河モーターズの強化部隊を一人で壊滅させたんだと」

 「マジかよ!? 一人でだって!? 信じられねぇぞ!」

 「しかも、奴は銃弾をすり抜けるように交わすんだとさ」

 「あんな重装備で? ありえねぇだろ!!」

 「重装備なのに、だ。目にも止まらねえ速さで動くらしいぜ……どんだけ身体をいじってんだろうな」

 「はーマジかぁ! 銃弾も当たらねぇなんてよー。マジ最強じゃね!! そんなやつに勝てるわけねえって!」


 背後で交わされるひそひそ話が、ヴィンセントの聴覚センサーにクリアに拾われる。


 最強か。


 誰かがそう囁いた。だが、マスクの下でヴィンセントは自嘲気味に唇を歪めるだけだ。


 最強? 笑わせる。


 三河の部隊を潰した程度で最強になれるなら、この街は超人スーパーマンで溢れかえっているはずだ。 こんなものでは足りない。もっと巨大な、そう、世界そのものを敵に回すような()()が必要なのだ。


「待たせたな」


 不意に、ヴィンセントの視界に影が落ちた。 冷徹な声。ヴィンセントはゆっくりと顔を上げる。

 そこに立っていたのは、仕立ての良いスーツを着こなした男だった。だが、その顔には人間的な温かみなど欠片もない。最も特徴的なのは、蜘蛛のような横並びの四対の義眼。ネオ・トーキョー随一のフィクサー、ファラリス。

 

「……予定より2分遅いぞ、ファラリス」


 ヴィンセントは手元のテキーラを呷った。


「いやはや交通事情が悪くてね。境インダストリアルの検問が強化されているようだよ……さあ場所を変えよう」


 ファラリスはヴィンセントの嫌味を柳に風と受け流し、顎で奥の個室をしゃくった。

 ヴィンセントは無言で立ち上がる。その瞬間、彼の巨体が動く際の駆動音が微かに響き、周囲の傭兵たちが思わず道を空けた。


 通されたのは比良坂の最奥にあるVIPルームだった。 防音壁と強力なジャミング装置によって、外部からの盗聴を完全に遮断した空間。 重い扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように消え失せる。


 ファラリスはソファに深く腰掛け、四対の義眼を順番に絞りながらヴィンセントを見据えた。


 「単刀直入に言おうか。今回の仕事は、君のような手合いのためにある」


 「前置きはいい……要件を言え。俺の時間は高いぞ?」


 ヴィンセントは対面の席に座り、マスク越しに相手を睨みつける。ファラリスは薄い笑みを浮かべ、懐から一枚のデータチップを取り出し、テーブルの上に滑らせた。


 「こいつを誘拐して欲しいんだよね」


 ホログラムが展開される。そこに映し出されたのは、一人の少女の立体映像だった。


 黒のショートボブに毛先をアクアブルーに染めた垂れ目の少女。黒いノースリーブジャケットに白いチューブトップ。白く短いホットパンツとポップな格好だ。能天気そうな表情とは裏腹に首には『境』の家紋が入ったチョーカー。ジャケットの背中には、境インダストリアルのロゴである円の中に引かれた一本線がグラフィティアート風に崩して描かれている。

 


 「ターゲットは、イルカ・サカイ……サカイの創始者、シゲル・サカイの孫娘だ」


 ヴィンセントの眉が、マスクの下で跳ね上がった。境インダストリアル。かつてヴィンセント自身が身を置き、そしてドロップアウトした古巣。今や『八雲ヤクモメトロポリス』を絶対的な拠点とし、ネオ・トーキョーの覇権を握ろうとしているアジア最強のメガコーポだ。


 「……正気か? サカイの直系を誘拐しろだって!?」


 ヴィンセントの声色が一段低くなる。


 「そうだ。彼女は現在、極秘裏にネオ・トーキョーへ来ているんだ。表向きは『ネオ・トーキョー芸術振興会』の視察だが……実態は、サカイの支配領域を拡張するための政治的根回しだ」


 ファラリスは指を組み、続ける。


 「クライアントは伏せるが、サカイの独走を面白く思っていない連中だよ。彼女の身柄を確保し、交渉のカードにする……報酬は君が想像する額の三倍は下らない」


 「金の問題じゃないがな」


 ヴィンセントは吐き捨てるように言った。


 「相手はあの『サカイ』だぞ。俺は元社員だ。あそこのセキュリティの異常さは誰よりも知っている……。ヤクモ・メトロポリスから連れてきた『魍魎旅団』や、あの化け物じみた『夜行』部隊が護衛についているはずだ。それに……イルカ本人の噂も聞く。頭がキレるとな」


「だからこそ、君なんだよ」


 ファラリスの四対の目が、怪しく明滅した。


 「元・サカイのエリートであり、今はフリーの傭兵として名を馳せるサイクロプス。サカイ内部のプロトコルを知り尽くし、『迅雷』すら置き去りにする最新鋭の『阿修羅・過剰駆動オーバードライブ』を使いこなす男……君以外に、誰がこの死地を潜り抜けられる?」


 ヴィンセントは沈黙した。


 脳内の戦術プロセッサが、瞬時にリスク計算を行う。

 成功率、0.01%未満。

 これは自殺行為だ。一流の傭兵なら、鼻で笑って席を立つ案件だ。命がいくつあっても足りない。 境インダストリアルに喧嘩を売るということは、この国で生きていけなくなることを意味している。


 だが。


 ヴィンセントの脳裏に、先ほどのバーでの会話が蘇る。


 ()()


 そうだ。安全な仕事をいくら積み重ねても、小銭は稼げても名は残らない。

 最強になるには誰もが不可能だと断言する壁を、突き破る必要がある。死の淵を歩き、世界を統べる巨人の喉元に牙を突き立てる。それこそが、俺が求めていた『大仕事』ではないのか?


 マスクの下で、ヴィンセントの口元が三日月形に裂けた。

 死線を前にした者だけが浮かべる、凶暴で愉悦に満ちた笑みだった。


「……おい、ファラリス」


「なんだい? 断るなら、この話は忘れてくれ。ここを出た瞬間に――」


「勘違いするな」


 ヴィンセントはデータチップを掴み取り、自身のリンクに接続した。 瞳孔の奥で、イルカ・サカイの護衛配置図、移動ルートの解析データが滝のように流れ落ちていく。


「俺は、その自殺行為ケンカを買い取ると言ったんだ……いいぜ、乗ってやる! このヴィンセント様が、サカイの顔面に泥を塗ってやるよ!」


 ファラリスの表情に微かな驚きと、それ以上の満足感が浮かんだ。


「賢明な判断だよ、ヴィンセント。いや……狂気的な判断と言うべきかな?」


「褒め言葉として受け取っておく」


 ヴィンセントは立ち上がり、軍用ブーツのつま先で床を軽く叩いた。 全身のサイバーウェアが、戦闘モードへの予備起動音アイドリングを奏でる。脊髄に埋め込まれた『阿修羅』過剰駆動オーバードライブが、今すぐにでも稼働したくて疼いているのが分かった。


「で? 作戦開始はいつだ」


「今夜さ」


 ファラリスは立ち上がり、窓の外に広がるネオ・トーキョーの毒々しいネオンを見下ろした。


 「イルカは今夜、チヨダ・セクターの迎賓館から移動する。ルート上のセキュリティは、こちらの『サーファー』がなんとかする。だが、物理的な護衛……ドローンやサカイの私兵たちは君が排除するしかない」


 「上等だ。俺の『斬火』が最近血を吸ってなくてな」


 ヴィンセントは腰に差したカタナの柄に手を掛けた。

  これから向かうのは地獄だ。だが、その地獄の底にこそヴィンセントが求める『夢』への切符が落ちている。


 「ファラリス……今夜、トーキョーが燃えるぞ」

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