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閑話 召喚の日~ゲームのおわり

「あーっ、むかつく!」

 小さく叫んで、玲子はジョッキの底面をテーブルに叩きつけた。


 大きな音を立てビールの飛沫が飛び散る。

 飛沫を受けた眼鏡をぬぐいながら、水谷が眉を顰めた。


 ごめん、と玲子が小さく謝る。


「だいじょぶですかぁ?」

 個室の扉を開けて従業員が顔を出す。


「うん、大丈夫。ごめんね」

 北條が頭を下げると、はぁい、と従業員は言ってそのまま去っていく。


 空いたジョッキは持って行かないのね、と玲子は思った。テーブルの端に並んだジョッキは、先ほどから数を増やす一方である。

 繁華街の地下にある安居酒屋であった。一応、個室ではあったが、値段相応の安普請である。

 テーブルには食べかけの焼き鳥やサラダが、ほとんど手つかずに残っている。今日は皆が食い気より飲み気である。


 デザイナーの北條がハイボールを舐めながら、唇の端で笑みを浮かべて言った。

「玲子ちゃん、荒れてるねー」


 北條の言葉を無視して玲子はジョッキをあおる。


「でも、僕だって頭にきてますよ。なんでファンサガが終わらないといけないんですか」


 プログラマーの水谷がぷりぷりと肥満体を揺らしながら憤った。今日も今日とて美少女ゲームのノベルティと思われるTシャツを着ている。


 今日、玲子たちのチームが運営していたゲーム「ファントム・サーガ」は、四年にわたる長くて短い運営を終えた。運営していた玲子たちにとっては、会社命令による不本意な終了であった。


 取り箸でサラダをつつきながら、それでいて絶対に口に運ぼうとはせず、北條は言った。

「嫌いなんでしょ」


「なにがです?」


 水谷の問いに北條が答える。

「社長が。ファンサガを」


「違うわね」

 と、玲子はすぐにそれを否定した。

「あいつは、天城さんに嫉妬してんのよ」


 ファントム・サーガはスマートフォン向けのオンラインアクションゲームで、ゲームクリエイター天城龍一の作った最後のゲームであった。


 玲子にとって、天城は前職の上司であり、ゲーム企画のイロハを教えてくれた恩人である。会社を辞めて新会社のファーストドラゴンを設立した天城に、玲子は呼ばれてもいないのについていったほどだ。


 天城が死んだのは、二年前である。交通事故であった。

 ファントム・サーガを引き継いだのは玲子で、会社を引き継いだのは宮下だった。

 いずれも天城の遺書による指名である。自分の死期がわかっていたかのような用意の良さに、玲子は涙ながらに苦笑したものである。


 宮下は元コンサルで、経営手腕に長けていた。ゲームは作れないが金は作れる。そう言って憚らない男だった。

 それは別に良いのである。目指すものが、天城と同じであったなら。


 ファーストドラゴンは作り手が作りたいものを作る会社だった。

 それが市場に受け入れられて金になったのは、もちろん天城の名と才によるものが大きい。それであっても、天城がいなくなったとしても、それを引き継いでいくのがファーストドラゴンの道だと思っていた。


 少なくとも、玲子は。

 宮下は違った。



「新規開発やめちゃったら?」

 と宮下は言った。

「課金アイテムだけちゃちゃっと追加してってさ。あとは季節イベントとか定期的にやってればよくない?」


「よかないわよ。そんなの運営の放棄だわ。少なくとも、既存プレイヤーに対してエンドコンテンツを拡充するのは必須よ」


「その既存プレイヤーってどんだけいるのよ。たかだかDAU五千いかないくらいでしょ? 課金率、何%よ? デイリーで売上十万がいいとこ? 開発費が割に合ってないんだよね」


 玲子も、もちろんそれらの数字は把握していた。

「たしかに現状は、あなたの言うとおりね」


「社長って呼んでくれないかな?」


 宮下の言葉を、玲子は無視して続ける。

「だから、今後の運営計画について昨日メールしたでしょ。もちろん読んでるわよね?」


「希望的観測」


「は?」


「根拠レスっつってんの」


 運営計画書には、大型アップデート、他コンテンツとのコラボ、メディアミックスについて記載していた。コラボとメディアミックスについては玲子が天城と培ってきた人脈を駆使した。既にGOサインが出れば動ける状態にしてある。


「関係各社とは握ってあるわ」


「なんで勝手にそういうことするの? まあいいけど。そういうことじゃなくてさ」

 宮下は大げさにため息をついた。

「これで本当に人が増えるの?」


「増える」


「根拠は?」


「他タイトルの過去事例を参照した数値が資料にあるでしょ?」


「見たよ。それが根拠?」


「そうよ」


「その数字って一年目のフレッシュなタイトルの数字だよね? ファンサガはさ、四年目じゃん。本当にそれでいけると思う?」


「そのための大型アップデートよ。これまでと目先の違った新しい遊びを用意することで、新規ユーザーにも……」


 玲子の言葉を遮って、宮下は言った。

「要するに、それがやりたいんだよね、君は」


 玲子は一瞬、言葉に詰まった。


「新しい遊び。新しい体験。君たちはいつもそう言うけどさ。本当にユーザーはそういうの求めてるの? 君たちがやりたいだけなんじゃない?」


 玲子は、にっこりと笑って言った。

「ええ、その通りよ」


「は?」


「ユーザーは、私たちの作る、新しいコンテンツを求めてる。私たちの作るものが、ユーザーの求めてるものだわ」


 宮下は一瞬、呆気にとられ、そして苦笑いした。

「断言するねえ」


「するわね」


「エピデンスがないよね」


「そんなものはないわ。けど、わかる人ならば企画書見るだけでわかるのよ。わからないのは……」


 どん、と玲子は宮下の座るデスクに手のひらを打ち付けた。

「あんたにゲームを見る目がないからよ」


「黙れよ」

 宮下の口調が一変する。語気が怒りをはらんだ。

「お前ら作り手の遊びのために金出してるわけじゃねえんだよ。会社ってやつは!」


「モノひとつ作れないでよく言うわ!」


 宮下が黙り込む。頭から煙を吹きそうな形相である。


 玲子は続けた。

「少なくとも天城さんなら金を出した」


「だからウチは稼げてないんだよ!」


「稼いでるでしょうが!」


「君が思うほどには稼げてない」


「売上は十分立ってるはずよ。稼げてないのはあんたが無能だからでしょ」


「違う!」

 眉を吊り上げて宮下が言った。

「天城さんの頃からウチは資金のバランスを考えず、新規開発に突っ込みすぎてるんだよ! それは危険だって僕はずっと天城さんに言い続けてきた!」


 そのことは、玲子も知っていた。


「もちろん、知っての通りこれまでは大丈夫だった。かなり危ういバランスの上でだけどね。それでどうにかなっていたのは……」


 宮下は言葉を切った。

 次に彼が何を言うか、玲子にはわかる。


「天城さんがいたからだ。そして、彼はもういない」


「だからファンサガも終わらせるっていうの?」


「そうだ。うちは今後、脱天城を打ち出していく。これ以上ユーザーが離脱してしまう前に終わらせないと。やっぱりファーストドラゴンには天城さんがいないとダメなんだって、ユーザーに思われてしまう。今が辞め時なんだ」


 怒りと笑いを半々に浮かべて、玲子は言った。

「天城越え、ってとこかしら?」


 ははは、と宮下が笑った。


 強い怒気をこめて玲子は叫んだ。

「だからユーザーはこれから増やしていくって言ってるでしょうが!」


「だからそれが信用できないって言ってるだろう!」


「天城さんの最後のゲームなのよ! 終わらせられるわけがない!」


「もう天城さんはいないって何度言えばわかるんだ!」


 そこにあったのは完全な水掛け論であった。

 論争が白熱し、掴み合いになりかけたところに、社長室の扉を開けてスタッフが乗り込んできた。


 スタッフに引き離されながらも宮下は言った。

「いいか! ファンサガは終わらせる! これは決定事項だ!」



 話を聞いた北條が大笑した。

「いいねえ。天城越え。サイコーじゃない」


「うるさいわね。冗談じゃないわよ、まったく」


「玲子ちゃんは死んだ男に操を立てるんだねえ」


「うるさいって言ってるでしょ」


「社長がファンサガを終わらせたがってたのはわかってたことでしょ? 終わらせないための力が俺達には足りなかったんだよ」


「あんたは天城さんと付き合いが短いから、そんなふうに割り切れんのよ」


「まあ俺はぁ、玲子ちゃんたち社員さんと違ってぇ、ただのフリーランスだしぃ」


「よくわからないなぁ」

 と水谷が言った。

「天城越えはともかくとして、ファーストドラゴンが今も天城さんの会社だってイメージを残しておくのも、戦略としては悪くないはずですよね? なんで社長はそうしないんだろう?」


 ああ、と北條はにやついた顔を浮かべる。

「要するに男のプライドってやつだね」


 水谷が首を傾げた。頭の上にハテナが浮かんでいる。


 玲子が言葉を継いだ。

「天城さんより俺のほうが仕事ができる。天城さんが死んでから、あいつはただそれだけを叫んでいる。もちろん直接口にはしないわ。でも、その行動が、指示が、そう言ってる」


「みんな! もういない天城さんじゃなく、俺を見てくれ! 俺に従ってくれ。願わくば尊敬してくれ、ってね」

 言いながら北條は笑う。

「泣かせるねえ。そんだけ社長にとっても、天城さんがでっかい存在だってことだね」


 ちっ、と玲子は舌打ちして立ち上がった。


「どこ行くんですか?」


「トイレ」


「行っといれー」

 と北條が言った。


「ハイボール一杯で酔っぱらってんじゃないわよ!」

 玲子は北條の背中を平手で叩いた。


 鏡に映った玲子の顔は、いつにも増して不健康そのものであった。


 目の下にクマができている。ここ数日は徹夜も辞さず、運営終了に向けた各種業務に当たっていた。

 白のワイシャツはよれて皴になっている。デスクでそのまま眠ったせいである。フロントボブに整えた髪も、少し伸び気味だ。


 化粧だけはしっかり施していたものの、疲れは隠しきれていない。当然だ。もう四十九歳になるのである。


 玲子は指先で右の頬を撫でる。そこには小さく赤い痣がある。生まれついてのものだ。若いころこそ気にもしたが、今や完全に己の一部と認識している。

 酒気にあてられて化粧も多少崩れていたが、直す気にはなれなかった。


「オフィスの化粧は、戦化粧なのよ」

 若手の女性社員に言っている、いつもの言葉を思い出す。


 ディレクターは開発運営チームを率いる将だ。戦に敗れた玲子は、言うなれば敗残の将である。

 ファントム・サーガは、プレイヤーに惜しまれつつ、運営を終えた。ユーザーは、終わることへの不満はあれど、終わり方に対する不満はほとんど見られなかった。綺麗な負け方にできたと自賛していいほどだ。


「これからどうするか」

 と玲子は言った。独り言にしては大きな声が出てしまって、慌てて周囲を見回す。幸いなことに、女性用トイレに玲子の他に人はいない。

 新しいプロジェクトを立ち上げるか。それとも、前から宮下に言われているように企画チームのマネジメントに専念するか。


 あるいは、新天地を求めるか。


 考えて首を振る。四十九歳の転職がどれだけ厳しいことであるかは、転職経験の少ない玲子にも想像がついた。


「天城越え、か」

 それがどれだけ難しいことかも、玲子にはわかっている。

 憧れるのはやめましょう、と大谷翔平は言った。しかし、天城龍一は、いつまでも玲子の憧れなのである。


 北條が、水谷の丸いお腹をさすりながら言った。

「水谷くーん。だから君はまだ童貞なんだよぉ」


「どどどど童貞ちゃうわ!」


「水谷くん、いくつだっけ?」


「……四十六ですけど」


「俺より、ええと」

 と言って北條が指を折る。

「六歳も若ぁい!」


 水谷があきれ顔を浮かべる。それに気づかないのか、気にしていないのか、北條は続ける。


「俺なんてまだまだ現役よぉ。超現役。こないだだってえ、二十二歳の若い子とさぁ。むふふふ」


「キモっ」

 と玲子は言った。


 トイレから戻って早々、この二人は一体なんの会話をしているのだろうか。

 玲子は自席に座り、飲みかけのジョッキをあおった。ぷはーと息をついて続けた。

「若い女の子に群がるオッサンほどキモいもんはないわ」


「えー、女の子じゃないよー。男の子だよー」


「いや、それでもキモい」


「それって性差別じゃない?」


「男だろうが女だろうが、三十の年の差はキモい。つーかあんたは、もはやオッサンですらない。初老よ、初老」


 水谷が言った。

「玲子さん、BLとか好きじゃないっすか?」


「あんたねえ。こんなところで、はっきり言うんじゃないわよ」


「おじさまと若者のカップリングとか、ありそうなイメージですけど?」


「まあ、あるっちゃあるけどさー。私の趣味じゃないし、そもそもアレはファンタジーだからいいんであって、モノホンとかないわー」


 玲子の言葉に、北條は軽くため息をついた。

「あのね。それは普通に性差別だからね」


「ちがうちがう。年齢差のハナシよ」


「ていうか、玲子ちゃんは若い子に興味あったりしないわけ?」


「あるわけないでしょ」


「あっ、そうかぁ」

 と北條は体をくねらせる。

「玲子ちゃんは天城さん一筋なんだよねー」


「そういうんじゃないわよ!」

 思わず叫んでから、口を押さえる。


「憧れではあったけど、そういうんじゃない……」

 ふう、と息をついた。

「まあ、若いころはさ、なかなかイケメンだったし、仕事はもちろんすごいし、そういう感じがなくも、なかったけどさ……」


「あれぇ? 玲子ちゃん、顔が赤いよー?」


「でも、あの人は、ゲーム作ってばっかりで、仕事終わっても、みんなで飲みに行ったり、ダーツとかビリヤードとか、遊んでばっかりで。ワイワイやるのが好きな人だったから……。そんで、いっつも、笑ってて……」


「悪かった」

 北條が言って、玲子の頭を、ぽんぽんと叩いた。


 いつのまにか頬を涙が流れていた。


「あーっ!」

 涙をぬぐいつつ、玲子は叫んだ。

「そういうのもセクハラだからね! 昨今は!」


「めんどくさいねー、令和ってねー」


「ていうか、このメンツ、全員昭和生まれじゃん! やばすぎ!」


 いずれも、業界歴、三十年前後の、超ベテラン勢である。


 橘玲子は、企画職を経て、今はディレクター。ディレクションしたタイトルは、十は下らない。


 水谷修一は、ファンサガのリードプログラマーである。幼少期からというプログラミング技術は一流で、オタクのくせしてコミュニケーション能力も申し分ない。


 リードデザイナーの北條涼介は、フリーランスとして数々の案件に関わっている。コンセプトアート、キャラデザ、UI、3Dモデリング、プリプロダクション、ポストプロダクションなどなど、デザインにかけては何でもできる類稀な人材である。


 水谷がため息をついた。

「歳もとるはずですねえ……」


 三人で、うんうんと頷いた。



 水谷の肩に腕を回して、玲子は言った。

「だからぁ、そんなんらから童貞なんらってぇ」


「どどどど童貞ちゃうわ!」


「玲子ちゃーん、それ、セクハラぁ」


 身を縮こませて眉を顰める水谷に、玲子と北條が、がはは、と笑った。


 四時間ほどが経っただろうか。既に終電はないが、全員、明日は休暇を取っている。平日だからか、店に退席を促されることもなく、三人は飲み続けていた。

 玲子と北條は既にへべれけである。意外なことに、一番飲んでいると思しき水谷は平然としている。


「そういえばさー。玲子ちゃん、これからどうすんの?」


 北條の問いに、玲子はろれつの回らない舌で答える。

「ろうってぇ?」


「だからぁ、このままファーストドラゴンにいるのかって聞いてるの」


 えへらえへらと笑って、玲子は答える。

「いやあ、まあ、いるんじゃないの? かなー? たぶん?」


「へえ。てっきり、辞めちゃうのかと思ってた」


「えっ! 橘さん、やめちゃうんですか!?」


「だからぁ、辞めないよぉ。たぶんれぇー」


「辞める気がないわけじゃないのね」


「いやだなあ。橘さんが辞めるなら、僕も辞めちゃおうかなぁ」


「なんでらよぉ。 水谷は別に関係ないれしょー」


 酔ってもいない顔を赤くしながら水谷は言った。

「橘さんがいないとつまんないですよ」


「んじゃ、さ!」

 北條がにんまりと笑って言った。


「移籍しちゃわない? みんな一緒にさ」

 じゃじゃーんと言いながら、北條は数枚の紙切れを取り出した。


「なんらぁ、それはぁ」

 焦点の定まらない目で玲子はそれを見た。


 それから、びしっと指をさして叫ぶ。

「わかったぁ! 外国人部隊の契約書らぁ!」


「橘さん、それ、エリア88行きだから! 署名しちゃダメなやつだから!」


「わらしだって、戦闘機なんか、乗ったことないろぉー」


「契約書は正解。外国人部隊なんかじゃないけどね」

 北條は笑って続ける。

「知り合いが持ってきた案件なんだけど、なんかダンジョンRPGの運営開発の仕事? みたいな?」


「なんか曖昧な話だなぁ」


「ダンジョンRPGぃ~?」

 玲子は書類をにらみつけた。しばらくしてから破顔する。

「ファンサガとおんなじらぁ」


「よくわかんないけど、俺たちをご指名なのよ。ヘッドハンティングってやつ」


「えっ、本当ですか?」


「うん。ファンサガのコアメンバーが欲しいんだって」


 差し出された契約書を、水谷が受け取る。

「キングダム・オルフェイシア? ベルモント? 社名かな? 聞いたことないですね」


 水谷が契約書をしげしげと眺めていると、いきなり玲子が契約書を引っ掴んだ。右手にはボールペンが握られている。


「どこらぁー? ここかぁー?」


 署名欄に、さらさらと自身の名前を書き込んでしまった。ミミズののたくったような字であった。


「ちょっ、橘さん! こういうのはちゃんと読まないと!」


 慌てふためく水谷を横目に、玲子はふわふわと笑って言った。

「あんたらも一緒に行くんらろぉ? なら、どこだって同じらよぉ。絶対うまくいく。ゲームは人間で作るもんよぉ」


 水谷は苦笑した。そして、玲子からペンを受け取り、自身の名を書く。

 北條もそれに倣った。


 ――途端。


 書類に円形の文様が浮かび上がった。

 そこから、光が走り、周囲を飲み込む。


 あまりの眩しさに、玲子は目を瞑る――。



「お客さぁん、そろそろ閉店でぇす」

 個室の扉を開けた店員は、あれ、と呟いた。


 誰もいなかった。

 テーブルにおびただしい数の空いたジョッキとグラスがあるのは、従前の通りである。

 ただ、人だけがいない。


 店員は一瞬、食い逃げを疑った。だが、バッグや上着の類はそのままにある。

 彼にもう少しの注意力があったなら、そこにあるのが上着だけではないことに気づいたかもしれない。


「タバコかな?」

 呟いて、従業員は去っていく。


 だが、彼らがそこに戻ってくることは、二度となかったのである。

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