第2話 お酒の勢いで契約しちゃった!
酒が入って変なテンションになった玲子たち。
デザイナー北條の持ち出した移籍契約書に、勢いでサインしてしまう!?
鏡に映った玲子の顔は、いつにも増して不健康そのものであった。
目の下にクマができている。ここ数日は徹夜も辞さず、運営終了に向けた各種業務に当たっていた。
白のワイシャツはよれて皴になっている。デスクでそのまま眠ったせいである。フロントボブに整えた髪も、少し伸び気味だ。
化粧だけはしっかり施していたものの、疲れは隠しきれていない。当然だ。もう四十九歳になるのである。
玲子は指先で右の頬を撫でる。そこには小さく赤い痣がある。生まれついてのものだ。若いころこそ気にもしたが、今や完全に己の一部と認識している。
酒気にあてられて化粧も多少崩れていたが、直す気にはなれなかった。
「オフィスの化粧は、戦化粧なのよ」
若手の女性社員に言っている、いつもの言葉を思い出す。
ディレクターは開発運営チームを率いる将だ。戦に敗れた玲子は、言うなれば敗残の将である。
ファントム・サーガは、プレイヤーに惜しまれつつ、運営を終えた。ユーザーは、終わることへの不満はあれど、終わり方に対する不満はほとんど見られなかった。綺麗な負け方にできたと自賛していいほどだ。
「これからどうするか」
と玲子は言った。
独り言にしては大きな声が出てしまって、慌てて周囲を見回す。幸いなことに、女性用トイレに玲子の他に人はいない。
新しいプロジェクトを立ち上げるか。それとも、前から宮下に言われているように企画チームのマネジメントに専念するか。
あるいは、新天地を求めるか。
考えて首を振る。四十九歳の転職がどれだけ厳しいことであるかは、転職経験の少ない玲子にも想像がついた。
「天城越え、か」
それがどれだけ難しいことかも、玲子にはわかっている。
憧れるのはやめましょう、と大谷翔平は言った。しかし、天城龍一は、いつまでも玲子の憧れなのである。
北條が、水谷の丸いお腹をさすりながら言った。
「水谷くーん。だから君はまだ童貞なんだよぉ」
「どどどど童貞ちゃうわ!」
「水谷くん、いくつだっけ?」
「……四十六ですけど」
「俺より、ええと」
と言って北條が指を折る。
「六歳も若ぁい!」
水谷があきれ顔を浮かべる。
それに気づかないのか、気にしていないのか、北條は続ける。
「俺なんてまだまだ現役よぉ。超現役。こないだだってえ、二十二歳の若い子とさぁ。むふふふ」
「キモっ」
と玲子は言った。
トイレから戻って早々、この二人は一体なんの会話をしているのだろうか。
玲子は自席に座り、飲みかけのジョッキをあおった。ぷはーと息をついて続けた。
「若い女の子に群がるオッサンほどキモいもんはないわ」
「えー、女の子じゃないよー。男の子だよー」
「いや、それでもキモい」
「それって性差別じゃない?」
「男だろうが女だろうが、三十の年の差はキモい。つーかあんたは、もはやオッサンですらない。初老よ、初老」
水谷が言った。
「玲子さん、BLとか好きじゃないっすか?」
「あんたねえ。こんなところで、はっきり言うんじゃないわよ」
「おじさまと若者のカップリングとか、ありそうなイメージですけど?」
「まあ、あるっちゃあるけどさー。私の趣味じゃないし、そもそもアレはファンタジーだからいいんであって、モノホンとかないわー」
玲子の言葉に、北條は軽くため息をついた。
「あのね。それは普通に性差別だからね」
「ちがうちがう。年齢差のハナシよ」
「ていうか、玲子ちゃんは若い子に興味あったりしないわけ?」
「あるわけないでしょ」
「あっ、そうかぁ」
と北條は体をくねらせる。
「玲子ちゃんは天城さん一筋なんだよねー」
「そういうんじゃないわよ!」
思わず叫んでから、口を押さえる。
「憧れではあったけど、そういうんじゃない……」
ふう、と息をついた。
「まあ、若いころはさ、なかなかイケメンだったし、仕事はもちろんすごいし、そういう感じがなくも、なかったけどさ……」
「あれぇ? 玲子ちゃん、顔が赤いよー?」
「でも、あの人は、ゲーム作ってばっかりで、仕事終わっても、みんなで飲みに行ったり、ダーツとかビリヤードとか、遊んでばっかりで。ワイワイやるのが好きな人だったから……。そんで、いっつも、笑ってて……」
「悪かった」
北條が言って、玲子の頭を、ぽんぽんと叩いた。
いつのまにか頬を涙が流れていた。
「あーっ!」
涙をぬぐいつつ、玲子は叫んだ。
「そういうのもセクハラだからね! 昨今は!」
「めんどくさいねー、令和ってねー」
「ていうか、このメンツ、全員昭和生まれじゃん! やばすぎ!」
いずれも、業界歴、三十年前後の、超ベテラン勢である。
橘玲子は、企画職を経て、今はディレクター。ディレクションしたタイトルは、十は下らない。
水谷修一は、ファンサガのリードプログラマーである。幼少期からというプログラミング技術は一流で、オタクのくせしてコミュニケーション能力も申し分ない。
リードデザイナーの北條涼介は、フリーランスとして数々の案件に関わっている。コンセプトアート、キャラデザ、UI、3Dモデリング、プリプロダクション、ポストプロダクションなどなど、デザインにかけては何でもできる類稀な人材である。
水谷がため息をついた。
「歳もとるはずですねえ……」
三人で、うんうんと頷いた。
水谷の肩に腕を回して、玲子は言った。
「だからぁ、そんなんらから童貞なんらってぇ」
「どどどど童貞ちゃうわ!」
「玲子ちゃーん、それ、セクハラぁ」
身を縮こませて眉を顰める水谷に、玲子と北條が、がはは、と笑った。
四時間ほどが経っただろうか。既に終電はないが、全員、明日は休暇を取っている。平日だからか、店に退席を促されることもなく、三人は飲み続けていた。
玲子と北條は既にへべれけである。意外なことに、一番飲んでいると思しき水谷は平然としている。
「そういえばさー。玲子ちゃん、これからどうすんの?」
北條の問いに、玲子はろれつの回らない舌で答える。
「ろうってぇ?」
「だからぁ、このままファーストドラゴンにいるのかって聞いてるの」
えへらえへらと笑って、玲子は答える。
「いやあ、まあ、いるんじゃないの? かなー? たぶん?」
「へえ。てっきり、辞めちゃうのかと思ってた」
「えっ! 橘さん、やめちゃうんですか!?」
「だからぁ、辞めないよぉ。たぶんれぇー」
「辞める気がないわけじゃないのね」
「いやだなあ。橘さんが辞めるなら、僕も辞めちゃおうかなぁ」
「なんでらよぉ。 水谷は別に関係ないれしょー」
酔ってもいない顔を赤くしながら水谷は言った。
「橘さんがいないとつまんないですよ」
「んじゃ、さ!」
北條がにんまりと笑って言った。
「移籍しちゃわない? みんな一緒にさ」
じゃじゃーんと言いながら、北條は数枚の紙切れを取り出した。
「なんらぁ、それはぁ」
焦点の定まらない目で玲子はそれを見た。
それから、びしっと指をさして叫ぶ。
「わかったぁ! 外国人部隊の契約書らぁ!」
「橘さん、それ、エリア88行きだから! 署名しちゃダメなやつだから!」
「わらしだって、戦闘機なんか、乗ったことないろぉー」
「契約書は正解。外国人部隊なんかじゃないけどね」
北條は笑って続ける。
「知り合いが持ってきた案件なんだけど、なんかダンジョンRPGの運営開発の仕事? みたいな?」
「なんか曖昧な話だなぁ」
「ダンジョンRPGぃ~?」
玲子は書類をにらみつけた。しばらくしてから破顔する。
「ファンサガとおんなじらぁ」
「よくわかんないけど、俺たちをご指名なのよ。ヘッドハンティングってやつ」
「えっ、本当ですか?」
「うん。ファンサガのコアメンバーが欲しいんだって」
差し出された契約書を、水谷が受け取る。
「キングダム・オルフェイシア? ベルモント? 社名かな? 聞いたことないですね」
水谷が契約書をしげしげと眺めていると、いきなり玲子が契約書を引っ掴んだ。右手にはボールペンが握られている。
「どこらぁー? ここかぁー?」
署名欄に、さらさらと自身の名前を書き込んでしまった。ミミズののたくったような字であった。
「ちょっ、橘さん! こういうのはちゃんと読まないと!」
慌てふためく水谷を横目に、玲子はふわふわと笑って言った。
「あんたらも一緒に行くんらろぉ? なら、どこだって同じらよぉ。絶対うまくいく。ゲームは人間で作るもんよぉ」
水谷は苦笑した。そして、玲子からペンを受け取り、自身の名を書く。
北條もそれに倣った。
――途端。
書類に円形の文様が浮かび上がった。
そこから、光が走り、周囲を飲み込む。
あまりの眩しさに、玲子は目を瞑る――。
「お客さぁん、そろそろ閉店でぇす」
個室の扉を開けた店員は、あれ、と呟いた。
誰もいなかった。
テーブルにおびただしい数の空いたジョッキとグラスがあるのは、従前の通りである。
ただ、人だけがいない。
店員は一瞬、食い逃げを疑った。だが、バッグや上着の類はそのままにある。
彼にもう少しの注意力があったなら、そこにあるのが上着だけではないことに気づいたかもしれない。
「タバコかな?」
呟いて、従業員は去っていく。
だが、彼らがそこに戻ってくることは、二度となかったのである。