四章 スイート・ビター・チョコレート(1)
四章 スイート・ビター・チョコレート
1
七月の容赦ない屋外の日差しに、私は目を細めてその向こうで軽乗用車の脇で佇む女性に向かって歩みを進めた。
その女性は出会った時と同じく道路を挿んだ向こう側にある児童施設を微動せず見つめている。
きっと、亡くなった自分の子供が児童施設で働いていた時の光景を思い出しては、彼女の居ない現実の辛さに傷つき続けているのだ。
その救いのない現実に、生きていくことがどうでもよくなって、ついには感情の全てを自分の内側に仕舞い込んだ人形となってしまう。
私はそれを知っている。狗狼と出会うまでの私がそれだったから。だからもう終わりにしてあげないといけない。
「あの、済みません」
彼女は背後からの私の呼び掛けに振り向いて、黒縁の眼鏡の奥にある愁いを帯びた瞳を驚いたように丸くした。
「あら、あなたは」
そこまで言って一礼した私の背後にいる人影に気付いたのか、警戒したように目を細める。
「なぜ、貴方が一緒に居るのかしら。御知り合い?」
答えようとする私を手で制しながら工藤さんが前に出た。
「佳代、もういいんじゃないか。君は陽子の背中を後押しした僕だけでなく、引き留めらなかった自分自身を責め続けている。こうして陽子の居るはずだった場所を見に来ていて、その光景を夢想して、それで自分を傷付けている」
彼女、佳代さんは海側から吹く強い風に、やや色素の薄いセミロングの髪をなびかせながら息を呑んだ。
「多分、陽子は僕たちが止めても、きっとあの場所へ向かったと思うんだ。それがあの子の夢だったから」
工藤さんの言葉に佳代さんは、眼鏡の奥の瞳から怒りを込めて元夫の身体を視線で貫いた。細く白い指が拳を形作る。
「違う。あの子は私達が引き留めていたら、きっと理解してくれて小さい子供達相手の仕事を続けてくれたと思うわ。あの子は子供が好きだったから」
「……それは、君の希望で、陽子の希望じゃないんだ」
「でも、死んじゃったら、元も子もないんじゃないの。あの子の夢も全てが無駄になったのよ!」
佳代さんの叫びに工藤さんは黙り込んだ。
多分、この様な言葉の応酬は今迄に何度も繰り返されてきたんだと思う。そして、二人の言葉はある事実で続かなくなるのだろう。
愛娘の永遠の不在。
神様しか覆す事の出来ない、ひとつの家族を襲った不幸に対して何か出来ることは無いのか。
「……あの」
「はい、何でしょうか?」
会話に割り込んで来た私に、佳代さんの涙に濡れた瞳と工藤さんの愁いと困惑を浮かべた瞳が向けられて、私はつい、半歩退いてしまう。
臆するな、私!
「あの、私は陽子さんの、その、勝手で申し訳ありませんが児童施設の子供達に宛てた手紙を拝読しました」
「え?」
「陽子さんは、彼女が外国の子供達の現状に関心を持ったのは、幼い頃に母親に買ってもらった写真絵本を読んだからだと手紙に書いていました」
そう語る私を工藤さんは動揺したように目を見開いて見返した。それに対して佳代さんは困惑したように私を見つめる。
「彼女がそれまでそのを取り巻く過酷な環境や状況を関心が無く、その本を読んで関心を持ったように、今度は彼女が海外で見聞きしたことを彼女自身が子供達に教えて彼等にそのことについて考えて貰いたい。そう書かれていました」
私の言葉に佳代さんは視線を落とした。
「そう、子供の事に買った絵本で。でも私はそんな本を買ったことすら覚えてないの。それに、その手紙、私は読んでいないの」
「え?」
工藤さんと私の視線が合い、工藤さんは手を口に当てたまま視線を逸らす。
「御免なさい。その手紙、今持っているのなら読ませてくれないかしら」
首を傾げ乍ら奥田さんが手紙を差し出して来た。
「これが、彼女の手紙です」
「あの、貴方は?」
奥田さんの端正な顔に驚いたように質問をする佳代さんに、奥田さんは営業スマイルを浮かべる。
「しがない私立探偵です。手紙をどうぞ」
「あ、有り難う御座います」
佳代さんの頬に赤みが差す。それを隠す様に彼女は手紙を眼前で開いて読み始める。
私達は手紙を読むにつれて佳代さんの両目から静かに湧きあがったものが手紙の表面を濡らし始めた。
「私、だったんですね」
読み終えたのか、ゆっくりと手紙を畳む佳代さんから細く消え入りそうな呟きが私の耳に届いた。
「私が、あの子に本を買って上げた事が、あの子を死地に向かわせたんですね」
「……」
私は俯く事しか出来ず、奥田さんも黙って視線を反らした。工藤さんは後悔にさいなまれる彼女を痛ましげに見つめている。
佳代さんは元夫である工藤さんに向けて力無い笑みを浮かべた。
「貴方は知っていたから、手紙を私に読ませなかったのね」
「……違う」
工藤さんの否定の言葉を更に打ち消す様に彼女は左右にゆっくりと首を振る。
「いいえ、違わないわ。何てことなのかしら。私は忘れていたとはいえ、自分の事を棚に上げてあなたが殺したとずっと恨み続けていた。貴方こそ私を恨むべきなのに。御免なさい」
「……」
工藤さんは佳代さんに掛けるべき言葉が見つからないのか、己自身を責めて泣き続ける佳代さんをやるせない面持ちで見つめている。
「御免なさい、私はあの子の命無駄にして、御免なさい」
「本当に貴方の娘さんの命は無駄に散ったと、そう思いますか?」
そう訊ねたのは、今まで傍観者に徹していた狗狼だった。
涙に濡れた瞳で見返す佳代さんといきなりの質問に戸惑う工藤さんに、狗狼は慇懃無礼に一礼する。
「失礼。私は依頼を受けて現地へ荷物を運ぶ個人経営の宅配業、いわゆる運び屋と呼ばれている者です。先日、貴方がたから私の娘がお話をお聴きした後、つてを頼って娘さん、陽子さんの所属していた団体【スピーシズ・オブ・ホープ】の担当者である千種女史に連絡を取りました」
私の娘って多分私の事だろう。仮初めの保護者では説明しづらいからかもしれないが、本当にそう思ってくれているなら、少し嬉しいかも知れない。
「彼女は貴方がた二人の事を覚えており、なおかつ心配しておりました。お二人の哀しみを少しでも和らげることが出来るならと、私に」
狗狼は黒ジャケットの胸ポケットから一本のUSBメモリを取り出す。
「この映像を届けて欲しいと依頼しました」
狗狼は奥田さんを振り返った。
「奥田。スマートフォンにUSBを繋いでくれ。中の映像を再生したい」
奥田さんはUSBメモリを受け取って目を丸くした。
「狗狼、これは駄目だ」
「何がだ」
奥田さんはスマートフォンのお尻を狗狼に見えるようにかざす。
「端子の大きさが違う。俺のはライトニングなんだ」
「何だそれ?」
「突き刺せないってことさ。再生は無理だ」
「……」
ちなみに狗狼の携帯はガラケーでUSB端子自体が無い。私はガラケーすら持っていない。
狗狼は工藤さんに視線を向ける。
「私のもアイフォンです」
「アイフォン?」
「そこの人と同じものです」
狗狼が小さく口を動かした。ガッデムとかなんとか呟きが聞こえた。
皆一斉に佳代さんに視線を向ける。
その視線に気圧される様に仰け反りながら、佳代さんは携帯を取り出した。
「私、機械が苦手で、単純なスマートフォンだから、そんな機能あるかどうか?」
工藤さんがそのスマートフォンを覗き込んでから数秒後、患者の死を見てとった医師の様に静かに首を振る。
重い沈黙が落ちる。
狗狼がUSBメモリを持ったまま宙を仰いだ。




