三章 図書館の美女と美男探偵(4)
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緒方貞子の著作を読んでいると倉庫のドアをノックする音が聞こえた。
本から目を上げて時計を見ると四時十五分と買い物に行く予定の時間を過ぎている。
再びドアをノックする音。
「おーい、クロ。居ないのか―。出てこないとドアを蹴っ飛ばすぞー」
私は慌てて入り口のドア駆け寄って開けた。
「うおっと」
外側に勢いよくスイングしたドアを避けて後ずさった人物は、ドアの外から響いた声と内容に似ても似つかぬ容貌をしていた。
その人物は銀縁の眼鏡を掛けているけど、その下の細面の顔の目鼻立ちが整っていてびっくりしてしまった。
細いけどまつ毛の長い両眼や、その上の筆で引いたような眉に真っ直ぐに引かれた鼻梁に、今はびっくりしているのか僅かに開けられた唇も色が瑞々しくて光沢があった。細く少し色素が薄く見える髪が、港街のやや強めの風に靡いている。
これで男の人だから凄いよね。
背は狗狼より僅かに高く百七十五センチぐらいかな。狗狼と対照的な白の上下のスーツに水色のシャツ、アクセントをつける為だろうかネクタイは無地のオレンジ色を締めている。
その白スーツのハンサムは私を見下ろして固まっていたけど、何かを思い出したかのように「ああ、そうだった」と呟くと、姿勢を正して軽く一礼した。右手の白いソフト帽とそれに巻かれた青いリボンがとても御洒落だ。
「済みません、君は狗狼を世話してくれている同居人ですね。私は狗狼の古い友人で、探偵を生業としている奥田 桂人と申します。狗狼は何時頃、帰宅の予定でしょうか」
ドアの向こうとは全く異なる慇懃さで私に尋ねるけど、残念ながら私も狗狼に帰宅時間は知らなかった。
「あ、あの、済みません。私も狗狼の帰宅時間を教えて貰ってないので」
奥田さんは口をへの字に曲げると宙を仰いだ。やはり熱いのか右手のソフト帽で首筋に風を送る。
「全く、あの駄犬。飼い主に行先ぐらい伝えろよ」
だ、駄犬って?
「ええと、君?」
「野島 湖乃波です」
私は奥田さんに一礼してから名乗った。何となく奥田さんも狗狼と同じ雰囲気を持っている様に感じて信用しても良いと判断したからだ。
「野島さん、狗狼に調べものについて解ったから、電話を寄こす様に伝えてくれないか」
「は、はい」
手を振って踵を返す奥田さん。その海をバックにした一枚絵の様なその背に私は思い切って声を掛けた。
「あの、晩御飯を一緒に、食べませんか!」
「晩御飯?」
細い眉を寄せて怪訝な顔をして振り向く奥田さん。
「はい、晩御飯までに帰って来ると思うんです。私はこれから夕食の買い物に出かけるので、その間、事務所でお留守番してくれると助かるのですが」
「ふーむ」
しばらく考え込んでいたけど、「じゃあ、買物に付き合ってもいいかな」と言って踵を返す。
「え、でも、悪いです」
「それぐらいは手伝わせて欲しいな。こう見えても荷物持ちぐらいは出来る心算だよ」
どうしようか、三人分の夕飯となるとそれなりの量の食材を買って帰らないといけないし。何気に此処からトー○ーストアまでちょっと距離がある。
それにこの人が古い友人なら、狗狼についていろいろと教えてくれるかもしれない。
「済みません、じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか」
「OKOK、全然問題ないから気にしないで」
奥田さんは私の申し出に笑顔で応じると、再び駅の方向に歩き出した。
「えっと、中ふ頭駅からポートライナーに乗るのかな?」
「いえ、みなとじま駅まで歩いていきます。歩いて十五分程度の距離なので電車賃が勿体無くて」
「一キロ程度距離があるけど、若いね」
奥田さんの質問に私は首を振って答える。若いと言っても夏が暑い事に変わりはなく、もう額に汗がにじんでいる。
奥田さんも暑いのか、白いジャケットを脱いで小脇に抱える。
「で、彼奴はちゃんと君の面倒を見てくれてる?」
「え、あ、はい。問題ありません」
「ふーん」
私は奥田さんの質問に面食らいながらも答えると、彼は面白い事を聞いたとでもいうかのように目を細めて笑みを浮かべる。
「まあ、彼奴の事だから面倒臭そうにしているけど、意外と面倒見の良い奴だから仲良くしてやってよ。悪い奴じゃあなくて単にひねくれて救いが無いだけだから」
それってけなしてますよね。
古い友人だから言いたい放題かもしれないけど。
「あの、狗狼とは、何時からの知り合い何ですか?」
「ああ、確か僕が中学一年ぐらいのときかな。親爺が僕の護衛ってことで連れて来たんだ。本当にあの時は憎らしい程仏頂面だったね。今も変わらないけど」
その時の狗狼を思い出したのか、奥田さんは苦笑を浮かべた。
護衛? 奥田さんは探偵をしているって聞いたけど、彼の実家も探偵をしていたのだろうか。
「あの、護衛って」
「僕の親が近頃物騒だからって、同じ中学に雇った護衛を放り込んだんだ。それが彼奴だった」
同じ中学? え、狗狼の方がかなり年上に見えるけど。
私は奥田さんの整った顔を見上げる。どう大きく見積もっても二〇代後半から三〇代前半にしか見えない。
それから私は狗狼のサングラスを外した顔を思い浮かべる。僅かに白髪が混じった黒髪や目尻の皴を思い出す。四〇代だよね。
「狗狼って幾つなんですか?」
「まあ正確なところ分からないけど、僕と同じ四〇代だろうね」
「……」
事も無げに彼の口から出た言葉に、私は衝撃を受ける。
この顔が四〇代! この人は一〇年間、歳を取っていないんじゃないの。
私が彼の端正な顔を見上げると、奥田さんも私が何に衝撃を受けたのかは解っている様で、はははと困った様に声を漏らした。
「まあ、彼奴ともう一人、神戸市市役所職員の奴とはかなり長い付き合いなんだ。本当に何度縁を切ろうと思ったことか」
でも、口元に笑みを浮かべて話す奥田さんの表情を見ればそんなことは毛頭も考えていないと思わせるものだった。
いいな、こんな関係。狗狼に仕事関係以外で友人の居る事に安堵しながら、カテリーナや静流さん、マオさんと自分も彼等の様に長く共にいられたらいいなと思った。
奥田さんは私が狗狼とどんな生活を送っているか気になっているらしく、「彼奴は鈍いから、話しにくい事は僕に連絡してくれたらいいよ」と言ってくれて、胸ポケットから名刺を抜いて私に差し出す。
「有難う、御座います」
私は名刺を受取り目を落とすと彼の携帯電話の番号と名前、そして事務所名が印刷されていた。
「探偵事務所 閑古堂?」
私は事務所名を声に出して読んだ。
「……」
奥田さんのネーミングセンスはいかなものか。暇であることを公言してはばからない、そんな探偵事務所に誰が仕事の依頼に来るのか。
「それ、僕に黙って役所に届けたのは狗狼で、それを受理するよう手を回したのは、もう一人の幼馴染だから」
くろうーっ!
「後で問い詰めると彼奴は、真心のこもった丁寧な仕事をこなすってことで、エンゼル・○ートって名前したかったんだが、探偵でエン○ル・ハートは拙いだろうってマオに止められたんだ、って言った」
「……」
中ふ頭駅を超えて港島駅傍のトー○ーストアまで歩くのが私の買物コースだ。それとも今日はお客さんがいるから、奮発してグルメシティで高い食材を買うべきか? でも旅行でけっこうお金を使ったし、此処は料理を腕でカバーをしよう。そこで私は奥田さんに何が食べたいか聞くのを忘れた事に気が付いた。
「奥田さんの、好きな料理はなんですか」
「……カレーとナポリタンスパゲティかな」
ナポリタンはいいかもしれない。テーブルの中央で大皿に盛って、それを皆で隙にとって食べたら賑やかで楽しいだろうと思う。
その時、何故かスパゲティの奪い合いを始める狗狼と奥田さんのイメージが、私の脳裏に映画のワンシーンの様に浮かび上がる。
大皿に盛られたナポリタンスパゲティの上で、ナイフとフォークがチャンバラの様に激突して火花を散らす。
「……カレーにしよ」




