三章 図書館の美女と美男探偵(3)
「木陰とはいえ暑いわ。其処の駐車場に車を止めてあるから家まで送ってあげる」
静流さんと一緒に駐車場まで移動した私は、静流さんが傍らに寄った赤い車を目にして少し驚いた。先月に彼女が運転して来たBMWミニだったか、それと異なる車だった。
何か小さくて四角い。丸く小さいライトとその下の銀色のマスクの様な部品がカッコ可愛い。
「あ、あの、前に乗って来た、車は?」
「ああ、J C WGP。まだ修理から帰って来てないの」
「けっこう修理に時間が掛りますね」
「そうねえ、先月、出したからもう一か月近くかな。その間、私は無職だよ」
確か先月、静流さんに夕食に私の初めて作ったゴーヤーチャンプルーを食べて貰った時、確か修理に出すって言っていたから、そうか、もう一か月なんだ。
「本当にあの時は狗狼を助けてくれて有り難う御座います。車も壊してしまって済みません」
「いや、湖乃波さんが謝ることはないから。それに狗狼からは報酬に加えて修理費も貰っているから問題無いの」
静流さんは四角くて可愛い車の助手席側のドアを開けて私に座るよう促した。
「失礼します」
車の中は車体が小さい割には広く感じられる。赤い革シートに腰掛けると、その柔らかい革シートにお尻が沈み込む。
「ちょっと狭いけど、シートは座り心地の良いものと交換しているから我慢して」
でも、この小さい車は今の静流さんの雰囲気に合っている気がする。何処かクラッシックで控えめな感じが。
静流さんはパンプスを脱いで革靴に履き替えてから運転席に座り、運転席の左側、ダッシュボードの中央にある鍵穴の左側のノブを僅かに引っ張った。それから中央の鍵穴に鍵を差し込んで左に捻る。
エンジンを動かした。軽快な振動と音が車内にも響いて来る。
「暫く待ってて。これ夏でも三分ほど暖気しないといけないから」
静流さんはハンドルのすぐわきにあるメーターの針を見ながらノブを少し押し込んだ。
狗狼の乗る207SWにはあんなスイッチは付いてなかったような。
「あの、これ、なんて名前の車なんですか?」
「ん、オースチン ミニ クーパー1275S MkⅡ。ミニクーパーSって古い車。元々、父が中古で買った車だったんだ」
だから何処か古めかしいデザインなんだ。
「でも、外観は綺麗でそれほど古そうに見えませんよ」
「まあ、それは此処ひと月、此奴に掛かり切りだったからね。それまでコツコツと手を入れていたけど最近、一気に仕上げたばかりなの。何しろ直に五〇年目になる車だからね。いろいろ手が掛かったよ。特に今迄は夏場は大変だったから」
「大変って」
ここで静流さんは深刻な顔をして私に顔を寄せて来た。私も聞き逃すまいと顔を寄せる。
「この車はね、元々……」
「……元々?」
「……エアコンが無い」
「……」
私は視線を車の前に向けた。夏の日差し。
「……大変ですね」
うんうんと静流さんが頷く。
「生粋の175Sユーザーには怒られるかもしれないけど吊り下げ式のクーラーを付けさせてもらったよ。パワーは微々たるものだけどね」
それでも無いよりは良いと思う。きっとなければこの小さな室内は蒸し風呂状態になるだろう。
「あと、我が家は坂の上にあるから、真夏になると坂を上っている最中に水温計の針がどんどん上昇して、もう大変。だから夏場は車庫でお留守番。まあ、今年はラジエターを3コアタイプに交換して循環効率を上げたから乗り切れると思う」
楽しそうに話す静流さん。ああ、この人って本当に車が好きなんだなあ、と思う。
「あ、そろそろいいかな。じゃ出発」
車体が小さい割には意外と大きい音を立てて車、ミニクーパーが走り出した。
最初はゆっくりと走っていたが、下山手通を右折してメルカロード宇治川を降りる頃には中々の速度が出ており、路肩に駐車されている車のせいで道幅が狭くなっていてもお構い無しに通り抜ける。
「小さい車だとこんな時に便利ですね」
「でも英国だとセダン扱いだったから」
2号線に通じる交差点に差し掛かると静流さんの両手が素早く交差して、中心にMのマークが入ったハンドルを回転させると、ミニは殆どスピードを落とさずに小気味良く左折して三宮方面に向けて走り出した。
「モトリタのハンドルは定番だけど格好いいでしょ」
「は、そうですね」
今、私が隣に乗っていることを忘れていませんでした? 私は左折の瞬間に食い込んだシートベルトに耐えつつ返事した。
やっぱり運び屋って、皆こうなんだろうかと思ってしまう。
「出来るだけ父の残してくれた状態を保っていたいからそんなに手を加えていないけど、やっぱりミニはいいよね」
「狭い道も多いですからね。狗狼も時々、車幅ぎりぎりで急角度で曲がる道が多いってぼやくことが有ります。それに」
「それに?」
「異国情緒の溢れたこの街に、ミニは良く似合うと思います」
「同感」
程無くして神戸大橋を渡った私達は、私と狗狼の住む倉庫のあるポートアイランドの中ふ頭に着いた。
「有り難う御座います。あのお茶でも」
ミニを降りた私の申し出に、静流さんは運転席に座ったまま首を振った。
「いや、いいよ。興が乗ったので、これからちょっと流してこようかと思ってるから」
「そうですか」
「また、お茶は別の機会に。話せて楽しかったわ」
「あ、私も楽しかったです。本当に有り難う御座います」
もう一度礼を述べる私に手を振って、静流さんは手を振ってミニを発進させた。どんどん車が小さくなって行く。
静流さんは恰好良くて、綺麗で、笑うと可愛い人でした。
私は倉庫のドアノブを捻ると鍵が掛かったままで、狗狼はまだ帰って来ていないようだ。
私は鍵を開けて事務所兼台所のソファに座ってこれからどうしようか考えた。
昼食は食べたし、夕食の買い物に出るべきか。
時計を見ると午後二時半。買い物に出るのは午後四時としてそれまで読書をしよう。
どれから読もうかと四冊の本をガラステーブルの上に並べる。「枕草子」「源氏物語」そして緒方貞子の著作が一冊、武装解除組織の本が一冊。
「うーん」
本来なら、学校側から出された課題の資料である古文二冊を読んで課題を終わらせてから、次の二冊を読みべきなんだけど。
でも読みたい欲求には逆らえず、最初に緒方貞子の著作を手に取ってしまった。
この本は、一九九一年二月に緒方貞子が湾岸戦争の最中に国連難民高等弁務官【UNHCR】に着任してから、二〇〇〇年末に退任するまでの十年間を彼女自身が書き綴ったものだ。
私の生まれる前、長く続いた東西冷戦時代の終結が宣言されて各国家間の問題が噴出し始めた頃に、緒方貞子はUNHCRとして全世界二千万人以上の難民と向き合うこととなる。
第一次湾岸戦争ではイラク国内からイラン、トルコ国境へと逃れる難民への対応。
アフリカではエチオピアの飢餓とソマリアの内戦での難民急増への対応。
欧州では船でイタリアへ向かったアルバニア難民の対応。
そしてユーゴスラビア連邦解体後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
その他、数多くの難民、紛争問題に関わっていく内に、彼女は難民を救済するための人道支援から復興、開発に至るプロセスを実行するためには人間の安全保障が必要との結論に至ることがこの著書に記述されていた。
私は第一次湾岸戦争は教科書の記述でしか知らず、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争については民族浄化の名の下に虐殺が行われたとしか知らなかった。
それらの問題を解決するために一人の日本人女性が組織のトップとして、現場に何度も足を運び奮闘していたことなど詳しくは知ろうとしていなかった。あんなにニュースでは毎日のように海外で起こる武力紛争や難民の発生について報じていたのに、テレビの向こうの外国での出来事として大して関心を払っていなかったのだ。
庇護された日本国内でも一人で生きていくことは不可能なのに、世界では無数の子供が紛争によりそうである立場に追いやられ、その状況から逃れるために難民は増え続ける。
この本の中で緒方貞子は「マスコミが注目しなければ事件は存在しない」と記述している。
私も難民や紛争問題については、あの兎の施設で子供をなくした男性に会わなければ、海外で頻発しているのに存在しない問題として忘れ去っていたに違いない。




