一
「僕の声を聞いてくれ」
僕の声は、僕にしか聞こえない。彼女の声が彼女の物であるように。
とても真面目で、とても純粋で、とても不器用な彼女が、大好きだった。
人は、出来るだけ不真面目でありたいものだ。でないと、生きるのに疲れてしまうから。どこかで息抜きを覚えるのは、生きていく上での処世術でもあると思う。
だから、見ているだけの僕は歯痒くて。もっと上手に生きてくれよ、と伝えたくて。彼女の事がいつも心配だった。
それは、気づけば恋だった。
僕という存在は、限りなく希薄だ。彼女にとって必要じゃない分、空気よりも価値はない。僕にとって彼女は必要な存在なのに、彼女にとっての僕はいない方がいい。多分、その方がいい。最初から分かっていた事なのに、僕はもっと彼女に近づきたいと思ってしまった。
下校途中、いつものラーメン屋に立ち寄る彼女と友達。彼女も、友達ができたことで、少しだけ居場所ができた気がする。それに比例して僕の事を見てくれなくなったけれど、以前よりも笑顔が増えた。
カウンターに座る。注文を取った彼女は、友達の分も水を汲んでいた。
席に戻った彼女の隣に立って、厨房を見る。
前に彼女が食べているのを見て、僕も一度は食べてみたいとずっと思っている物だ。
以前は、一人で来ることが多かった。
今は、友達と話しながらラーメンがくるのを待っている。
プラスに変わるのは、良いことだ。
でも、彼女は僕の因であり、彼女と関わる事が、僕が存在する唯一の理由なのに。
変わってしまうのを恐れているのは、僕の我が儘だ。一人よがりだ。エゴイズムだ。
どうして、僕はこんな存在なんだろうか。
なぁ? いい加減、僕の声を聞いてくれよ……。
✽
友達と別れた後、彼女はまっすぐ家に帰る。
玄関の鍵を開けて、そのまま二階に行こうとした僕に「ただいま。夕飯は?」と背後から声を掛けた。
どうやら家に居ると、僕の姿はたまに見えるようだ。彼女にとって家の中は、少なくとも、外よりは安心できる空間だという事なんだろう。けれど見えるだけで、会話ができたり実際に触れたりするわけではない。僕の声はもう彼女には聞こえない。
一瞥して、二階に上がった。こういう事はよくある。少し前までは配慮して、彼女が家にいる時は外をウロついていた。けれど、僕が見ているものを彼女まで見ていると知り、少し控えるようになった。今では、余程気の向かない限り、彼女の側を離れないようにしている。
僕の部屋は無いので、彼女の部屋に入る。実質、ここが僕の部屋みたいなものだ。女子にしては物の少ない、シンプルな部屋。娯楽と言える物は、音楽くらいか。それ以外には、勉経机と教科書、参考書しか置かれていない。
僕は、この殺風景な部屋で生まれた。あれは確か、彼女の両親が離婚したぐらいの時期だったと記憶している。
突然に弟を失った哀しみから、僕は生まれた。
今はもうこの部屋に来ても勉強しかしないが、昔……僕がまだ彼女に見えている時は、二人で毎日のように遊んでいた。
ああ見えて、彼女は体を動かすのが好きだった。本当は、外に出て走り回りたいはずなのに、実体がない僕でも楽しめるようにと、彼女はいつも絵本を読んでくれた。
彼女の優しさにが、声に乗って伝わってくるようで。僕は、その時間がとても好きだった。
……机の本立ての間に、隠されるように挟んであるファイルとノートがある。彼女は、音楽を聴いて、人知れず感想を書くのが趣味なようだった。
いけないとは思いながらも、気づかれないのを良い事に、彼女が書き込むノートを何度か覗いたことがある。
A4サイズのノート1ページに、彼女独特の丸みを帯びた小さな字で隙間なく感想が書かれていた。
その時の、彼女の横顔は忘れられない。目指したいものがあるなら、僕は全力で応援してあげたい。けれど、おばさん……彼女の母親は、きっと許してくれないだろう。
おばさんがいない時は、良く音楽を聴いている。遊ぶ事の出来ない今となっては、彼女と一緒に音楽を聴く時間が、僕にとっての唯一の趣味だった。高校生になったぐらいから、その時間は増えた気がする。
百円で買った小さなスピーカー。それに手を伸ばす。確か、ここから音が出ていた気がする。
表面に触れる。感触はない。手が、そのままスピーカーを擦りぬけた。
実体がないのだから、当然だ。
何度試してみても、音は流れてこなかった。
数枚しか置いていないCDの棚を見ながら「この曲は良かった」「この曲はサビの盛り上がりがイマイチだった」と採点していると、階段を上がってくる音が聞こえる。彼女が上がってきたのかもしれない。
部屋の扉が開く。
彼女は、CDを眺める僕の後ろを素通りして、持っていた学生鞄を置いた。教科書を取り出し、机の上に重ねる。
「……」
どうやら、今僕の姿は見えていないようだ。疲れているのだろうか。
椅子に座って、教科書に手を伸ばす。勉強するのかと思いきや、手にとったのは音楽の感想用ノートだった。
「今日は、どんな音楽を聴いたの?」
返事はない。
「……頑張ってね」
やはり、返事はない。
✽
朝。いつものように登校していた彼女は、突然倒れた。春にしては日差しが強かったせいか、昨日の夜、遅くまで勉強をしていた無理が祟ったのか。いずれにせよ彼女が貧血で倒れるのは珍しい事ではなかった。
同じ制服を着た生徒達は、皆一様に心配そうな視線は送るものの、彼女を介抱してくれる気配はない。
そんな中、一人の女生徒が彼女の側に駆け寄った。見覚えのある横顔に、すぐ気がつく。あれは、彼女の友達だ。名前は確か、ハリヤマだったはず。
友達は、まず彼女に呼びかけた。返事がないのを確認した後、肩を貸して、彼女を抱き起こす。
彼女の体を重そうに引きずって、僕のすぐ側を横切る。……もう何回目だろう。自分の無力さを、改めて痛感させられた気分だった。
彼女の成長がやや平均を下回っているとはいえ、気を失った人一人の体重はそんなに軽くない。ましてや、ハリヤマさんの細腕では尚更だ。
ふらふらと体が左右に揺れている。危なげなその背中に、僕は深く頭を下げた。
✽
保険室に運ばれて、数時間後に彼女は目を覚ました。
ベッドの上で体を起こす彼女。まだ、自分の身に何が起こったのか分かっていないようだった。
「目、覚めた?」
彼女の様子に気づいた保険医が声をかける。四方に囲まれたカーテンを開くと、彼女が目を細めた。
事の顛末を簡潔に伝えて、体温計を取り出す。シャツのボタンを外したのを察して、僕は後ろを向いた。基本的にそういうところを覗くのは、見えていないとは言え、趣味が悪いと思っている。
「七度六分かぁ。少し高いね」
熱を測り終わったタイミングを見計らって、向き直る。
自分の机に戻った保健医は、広げた書類を纏めて、鞄に詰め込む。
「私は今から少し外に出なきゃいけないんだけど、向日さんはまだ少し寝ていく?」
保健医の言葉を聞いて、自分もすぐに戻る事を伝える。その際、あまり無理をしないように釘を刺されていた。僕の言葉を代弁してくれた保険医に密かに感謝する。本当に、彼女は集中すると自覚のないまま無茶をする傾向がある。美点ではあるが、言い換えれば、ただ頑固になっているだけだ。
ベッドから降りて、地に足を付けた彼女がふらついた姿に、やはり心配になった。
痛むのか、頭を抑えてハッと思い出したように、保健医に質問した。
「先生、私を運んでくれた人って、どんな人だったか分かりますか?」
「向日さんを良く連れてきてくれる人だよ。えぇと、針山さん、だっけ?」
運んできてくれた人が針山さんだと聞いて、彼女の表情が、安心したように綻ぶ。それは、信頼の証なのか。僕と彼女の間には無いものだ。
颯爽と出て行く保健医の背中を見つめる。扉が閉まり、彼女一人が残された。
室内を見回して、保健室の空気を肺一杯に取りこむ。
僕は、窓の外を見た。
桜は、もう散ってしまった。中庭には、葉桜が風に煽られ揺れている。
このまま彼女が普通の人生を送って、友達と母親とも上手くいってくれれば、それほど嬉しい事はない。
彼女の人生には、僕は不要だ。
彼女の声を聞いて、話を聞いて、少しでも彼女の為になれる事を、僕は何も出来ない。
そんな存在が、とても悔しい。
✽
彼女は泣いていた。
針山さんと喫茶店に入って、出てきた直後の事だった。
僕はその一部始終を見てしまった。互いに傷つけあった瞬間を。
歩いていた彼女は、徐々に速度を上げていく。早歩きになり、ついに走り出した。
愛情は、甘美だ。でも、時々こうしてナイフにもなってしまう。好きなのに、傷つけあう。中途半端にそれを理解できる自分が憎らしい。そして、互いに「好き」とか「嫌い」と言い合える二人の関係を、少しだけ羨ましいと思ってしまった自分自身がとても嫌いだ。
走り去る彼女の背中を見つめる。追いついた所でどうする事も出来ない僕は、少し遅れて帰宅した。
一階に誰もいない事を確認して、彼女の部屋に向かう。部屋に入ると、彼女はベッドに俯せになっていた。寝てしまったのか? 耳にはイヤホンを付けている。
哀しい事があった時は、いつもこうしている。彼女のこんな姿を見るのは、何回目だろう。
彼女が寝返りを打つ。どうやら、起きていたらしい。物憂げな表情で虚空を見つめていた。
段々と窓の外が暗くなってくるが、まだ母親が帰ってくる気配はない。そのまま夜は更けていき、気づけば彼女は本当に眠ってしまった。
あどけなさを残したその寝顔には、先ほどまでの心労は感じられない。……彼女は、感情を表に出すことが苦手だ。言葉で伝えることが下手くそだ。近くで見てきて、そう思う。でも、それはどこかで発散しなければ、いずれ爆発してしまうものだ。
細い指先を枕に置いて、寝息を立てる彼女の涙の跡をそっとなぞる。感触はなかった。嘘くさい優しさと、耳に繋がれたイヤホンから漏れる微かな音が、僕と彼女を結ぶ唯一の感覚だった。それから、何度も何度も、僕は声を上げる。彼女の名前を呼ぶ。彼女の気持ちが知りたくて。僕の声を聞いて欲しくて。何度も何度も。
夜は、なかなか明けなかった。
✽
目を覚ました彼女は、窓から差し込む陽の光に顔を顰めて、ベッドから起き上がる。
歯を磨いて、顔を洗い、身支度を整える。
午前を過ぎた頃。彼女は僕に「おはよう」と声を掛けてくれた。
朝食と昼食を兼用した食パンを食べた彼女は、部屋に戻った。僕は彼女に付いていく。勉強するのかと思ったが、音楽を聴くようだった。
棚の中のCDを抜き取ってこっそり買った中古のプレイヤーで曲を流す。
僕は曲を聴きながら、床に散らばった歌詞カードの歌詞を目で追った。残念ながら、英語で書かれていて、断片的にしか分からない。
そうして緩やかに過ごした後、時計を見た彼女は、出かける準備をはじめる。
近所のスーパーに夕飯の材料を買いに行くつもりだろう。いつものように、その後を付いていった。
玄関で、彼女に話しかけてみる。
「今日のご飯は何を買うの?」
返事はなかった。
スーパーに着いて、材料を入れていく。カゴに入れたのは、素麺、麺つゆ、ミョウガ、ネギ、生姜。それだけで何となくメニューが分かった。
手早く支払いを済ませて、家路に戻る。
十九時を少し過ぎた頃、素麺を茹でて食べていた。
食事を済ませて、洗い物を終わらせた彼女は、再び自室に戻り音楽を流しはじめる。
「これ、久しぶりに聴くね」
スピーカーから流れる音楽に耳を傾ける彼女。口ずさむ鼻歌を聴き入ってしまう。
たしか、高校入学時に、彼女がハマっていた邦楽だ。彼女と針山さんは、この曲をキッカケに仲良くなった。
通り過ぎてしまった昨日を、思い出すように曲を聴き入っている。曲が終わる度に巻き戻しボタンを押していた。
蒸し暑くなり始めた四月の終わりに、一際涼しい風が窓から吹き込んだ。
彼女との関係を冷ますように。
……僕は、ことごとくザプルーダー・フィルムのようだ。
全てをフレーム313に焼き付けて、回り続ける。
真実と虚偽を織り交ぜて。
その全てを目撃して。
✽
翌日の彼女は、学校に居づらそうだった。まるで、そこに居ること自体を否定されているようで。お昼時。逃げるように、司書室に向かった。
それだけで足りているのだろうか、と思わせる程、小さな弁当箱の中身をゆっくり咀嚼し、水筒に淹れてきた熱いお茶を啜り、窓の外を眺める。彼女にしては、のんびり食べているな、と思っていたら、予鈴が鳴り、驚いて箸を落としていた。食べかけのお弁当に蓋をして、慌てて司書室を出た。
木漏れ日が差し込む廊下。遠くの方で生徒達の騒がしい声が聞こえる。きゅ、きゅ、と雀が鳴くような音が響いて、不意に立ち止まる。彼女の後ろを付いていた僕は、彼女の体を通り抜けて、追い越してしまった。窓からの日差しに、斜めに伸びた彼女の影が、廊下に落ちている。
偶然か、彼女の視線が僕に向けられる。そこから彼女の感情が、考えている事が漏れ出しているようで、曇った表情の奥に、透けて見えるようだった。
彼女が哀しい時。僕も、哀しくなる。だから時々、分からなくなった。僕らは等しく、とても遠い。でも、それならば、僕という存在は一体どうして生まれたのだろう。物心ついた時に、彼女の話し相手になっていて、年齢が上がるにつれて、彼女は僕を見なくなってしまった。そうなってしまった今でも、どうしてここに居るのだろうか。長年、考えないようにしていた。自分が消えてしまう事など。でも少し前から、苦しむ彼女を見るくらいなら、消えてしまっても良いと思っている。僕に、そうする手段が無い事は、救いのない話だけれど。
再び、歩き出した彼女は教室に戻る。その背中が泣いているように見えて、僕も泣きそうになった。
✽
次の日。彼女は何かを決心したように、突然荷造りをはじめた。
休みに、どこかへ出かけるのだろうかと、調べ物をしている手元を覗き込んだ時、それが家出の計画である事を察した。
僕は彼女に声をかける。そんな危ない事をするなんて、論外だ。今すぐ止めるように、何度も。けれど、聞こえている気配はない。
どこかへ行こうと準備をする彼女の後ろで、何とかして止める方法は無いかと考えたが、結局どうする事もできなかった。
夕方になると、作業の手を止めて、スーパーに出かけた。今日は、ハンバーグを作るらしい。
買い物を済ませて家に戻ると、早速取り掛かった。相変わらず、手際がいい。これも、長年自炊をしてきた賜物なのだろうと思う。
火を止めて、二階に上がった彼女。暫くして、玄関から「ただいま」と聞こえてきた。
それから、久しぶりに彼女と母親は夕食を取る。親子の会話とはこんなものだろうか、と思うような一方的な内容だった。
食べ終えた母親をお風呂へ促し、洗い物をはじめる彼女。母親の前では、いつも良い娘を演じている。今彼女は家出の計画を立てているなんて、露ほども疑っていないのだろう。
洗い物を済ませて二階に上がった彼女は、何かを探すように、家の中を見て回る。嫌な予感がした。二階、一階と見て回り、浴室から出てきた母に「探し物?」と問いかけられた。僕は思わず「止めて」と叫んだ。
「お母さん、弟は? 弟がいないんだけど……」
無垢な問いかけに、母親の表情が曇る。その時、僕は祈った。何度も見た、事の顛末を悟って、母親が何も言わないのを、祈る事しか出来なかった。
「葵。あなたに、弟はいないわ。家にはね、子どもは一人しかいないの」
彼女は、母親の顔をまっすぐ見つめる。動きを止めたまま。突然の告白は、彼女の頭の中ではまだ処理しきれていないのだろう。彼女の戸惑いが、僕の中にも一気になだれ込んでくる。そんな娘の姿を見かねて、母親は話を続けた。
「あなたはね、ずっと前から病気なの。子どもの時から、周りの人には見えない人が見えてたり、自分には知らない記憶を思い出したりした事はない? お母さんも信じている訳じゃないんだけど……“アルド症候群”って言って、世界でもまだ数人しか確認されていない精神的な奇病なの。でもね、精神病はきっと今の環境が影響してるんだと思うわ。進学して、好きな事を見つけられれば、病気も自然によくなると思うの。だからね、病気もあなたの人間関係だって、真面目に、しっかりやっていけばきっと上手くいくわ。だから、今はとにかく勉強に励みなさい。高校生活も、キャンパスライフも、長い目で見れば、ほんの僅かな時間よ。それを乗り越えれば、きっと素敵な人生が待っているわ」
昔、彼女には僕が見えていた事。病気になる原因。病気が進行すればどうなるか。
母親は、包み隠さず話した。
「この話をするのは、もう何度目かわからないわね」
やがて、うんざりするように呟いて、母親の携帯がリビングに鳴り響く。その場に娘を残して、母親は携帯を取りに行った。
何も言わず固まっている彼女。いつもはここから、彼女の“逃避”がはじまる。
頬を伝い、流れた涙が、この出来事まで排出しているように見えた。
彼女の心は、考えるのを止めてしまった。ずっと前に。忘れては聞いて。忘れては聞いて。それを繰り返してきた。
やはり何も出来ない僕は、彼女と同じように、ただ一点を見つめていた。
✽
まだ暗い空に、陽が昇っていく。
淡い蒼から、白く、柔和に空を照らしはじめた。
まだ、街も寝ぼけている時間。彼女は静かに部屋を出る。
リュックと、ショルダーバッグを肩に下げて、彼女は玄関で靴を履き替えた。
僕は、その後ろ姿を見守る。すると、彼女が振り向いて、僕に気づいた。
「どこかへ行くの?」
彼女は答えない。何も言わず向き直って、ドアノブに手を掛けて回す。
「……いってらっしゃい。気をつけてね」
そのまま、外へ飛び出した。
バイバイ。
サヨナラ。
マタネ。
なんて言えばいいんだろうね。こういうのって。
一人、玄関に残される。
追いかけられるものなら、追いかけたいけど。“統合”は、すでにはじまっていた。僕が動ける時間は、多分そう長くない。
結局、僕は彼女の力になれなかった。それどころか、僕の存在はこのまま彼女をゆっくり壊しはじめる。
残された僕は、そのまま静かに消えるのを待った。
彼女は、僕を探したいと考えていた。でも、それは違うと思う。彼女が、何かを探して、またここへ帰ってきた時、何も後悔しないように、彼女は自分を確かめに行ったのだと思う。
病気が進行して、何も出来なくなった時。僕が消えて、彼女が消えてしまった時。僕らは、新しい個として、また新しく始めなければいけない。人は終わっても始まりがある。きっと、終わりというモノはどこにも無い。
……ねぇ? 最後に聞いてほしい事があるんだ。多分、聞こえないと思うんだけど……。
大好きだ。
なぜかと言うと、真面目だから。
真面目でマニア的で、前向きだからだと思う。
いろんな意味で、真面目で前向きな人間は、他人から見て笑える存在だと思う。
でも、何かとふざけたり茶化したりする人達ばかりだと、楽しい事はすぐに息詰まると思うから。
僕も、もう少しだけ真面目に生きてみようと思う。
もし彼女に会えた時、彼女に嫌われないように。
今度こそ、僕の声を聞いてもらえるように。
伝える手段が、溢れている時代だ。絵で、文章で、形で、体で、空気で、言葉で、声で。
他者の声に埋もれて、声が届きにくくなった時代だから。我儘も、独りよがりも、憤りも、全てぶつけて。多分そこまでしても、人と人は繋がれないんだと思う。
でも、強く発した声は、きっとどこかに聞いてくれる人がいると思いたい。
意識が混ざり合う。混線した映像のように、彼女の視界を通じて地下鉄が見えた。
ホームの風が、体全体を打ち付けるように吹いて、まとわりつく。
……それから、僕はいくつかの夢を見た。
彼女と一緒に、僕の知らなかった様々な景色を見て回った。
それはとても幸福で、夢のような時間であった。
了