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ホームレスと春 その2

 見たところ彼は30代半ばといったところの普通の男性でした。金属でできた縁の細い、ろくに手入れされていない眼鏡をつけて、よれたダウンを着ているところは確かにホームレスらしく小汚くはあったのですが、それでもホームレスの中で、清潔さを競う大会があれば、優勝するかもしれないくらいの、その部類の人にしては清潔なほうでした。髪は短く切りまとめられていたし、髭も生えていませんでした。

「なんで君はこんなところに住んでいるのかい」

 彼は自分の作業に1段落が付くと、私の顔を見てそう言いました。

「まあ、いろいろありまして」

 私は、河童であることがばれるのには大した危険を感じていませんでしたが、言ったところで信じてもらえないだろうし、自分からおいそれと言ってしまうのは何だか間違っているような気がしたので、あやふやに返事をしました。見た目からわかる年の差に気を使って、敬語を使うことに決めました。

「まあ、いろいろあるのが人生だからね。」

私たちはそれきり会話をしませんでした。彼は引いたマットの上に寝転がり、着ていたダウンを毛布代わりにして寝てしまいました。

私はその隣で、読んでいる途中だった小説を手に取り、椅子に腰を掛けて読み始めました。私は河童という性質上、夜目がとても効くので、物を読むのに明かりを必要としませんでした。

30分ほど読んだ後、私は隣に寝ているホームレスを見ました。彼はまだ寝ていました。寝息を一切立てないので、死んでしまったかと思われましたが、微妙に腹が呼吸に合わせて上下の動いているのを認めることができました。周りを見渡してみると、私は今更、自分の家がとても窮屈になったことを感じました。まず、勘違いを起こさないために書いておきますが、私の家は確かに古墳の内部の石室に違いありませんが、先代たちの工夫により、一般的な一人暮らし用の部屋とほとんど同じような設備が整っています。ベッドや机、キッチン、冷蔵庫、エアコン、洗濯機はもちろん、ワイファイだって飛んでいます。石の壁はきれいに隙間を埋められ、その上に白いモダンな壁紙も張られています。床は杉の木の板が敷き詰められ、ワックスもかけられています。唯一の難点は、広さが7畳ほどしかないことでした。そこに、自分が勧めたとはいえ、2畳ほどの空間をホームレスに占領されてしまっては、部屋狭くなったと感じるのは当然のことでした。私は自分のベッドの上に行き、そのまま眠りました。

翌朝、私は日が昇るのと同時に目を覚ましました。隣のホームレスはまだ寝ていました。私は部屋の明かりをつけてから(部屋に太陽の光は一切入ってこない)、冷蔵庫から食材を取り出し、2人分の味噌汁を作り始めました。

「昨日は暗くて気づかなかったけど、ずいぶん近代的に改装されてるんだね。今どきの古墳はどこもそうなのかな」

私が玉ねぎと豆腐を切り終えたときに、ついに彼は起きたらしく、上半身をマットから起こしてそう言いました。

「まさか。ここだけです」

「まあ、そうだろうね。自分の墓がこんなに荒らされる……と言えるかはわからないけど、まったく知らない姿に変わり果てていたら、いい気分はしないだろうし、住む側もそんな無法者は少ないだろうからね。あ、もちろん、君のことを非難してるわけじゃあないよ。僕だって、こんなに自分仕様に模様替えするつもりは無かったけど、ここに住もうとしてたんだから、君に何か言える立場でもない。そもそも、ここはずいぶん前に盗掘にあってるから、そんなにいけないことでもないのかもね。使える土地は有効に使わなくちゃいけない」

「僕もそう思います」

「おお、そうか。僕たちは気が合うみたいだね。ところで、この家……と言っていいのかわからないけど、まあ、家でいいか……この家に風呂場はないのかい。実はここ数日風呂に入れていなくてね、体が汚くって嫌なんだ。体がむずむずしてしょうがない。そこらじゅうを虫が這っているような気分だよ」

「風呂場はありません。銭湯なら中目黒駅まで行けば500円で入れます」

「なるほど……500円か。知っての通り僕はホームレスだからね……500円は僕にとってはとても貴重なんだ。500円あれば2日は食料に困らない。世知辛い世の中になったものだね。昔は500円もあれば4日はやって行けたのに、どこもかしこも物価高騰で気がめいってしまう。最近のお役所……お役所だけじゃなあい。世間そのものがケチになったよ。今じゃ物乞いしたって今じゃ物乞いしたって人々はそばを通り過ぎていくだけで、1円も落としてくれない。弱者にやさしくない今の流行には賛成しかねるよ」

「まったくその通りだと思います」

私は、外の事情なんてほとんど知らなかったのですが、彼の話しようが同意を求めていたので、なんとなくそれに応じました。

ところで、私が先ほどから一言二言しか話すことができず、しかも大した意味を持ったことを話せないでいるのは、何分、生まれて初めてまともに人間と会話をしたので、緊張が脳みその働きをぶつ切りにしてしまうからでした。しかもその時私は味噌汁を作るための作業も同時に行っていたので、余計に考えがまとまらないのでした。

「あれ、今作っているのは味噌汁かい。味噌の香ばしい良いにおいがするね。どこ味噌を使っているんだい。僕は結構味噌について詳しいつもりだったけど、嗅いだことのない香りだね。麦麹のものに近いかな」

「はい、自前の味噌でして、麦麹で作っています」

ほう、自前か、と言ったきり、その後は彼は何も話しかけてきませんでした。

私たちは味噌汁を一緒に食べてから、彼の提案で、今後住処を同じにするものとして、最低限守らなくてはならないルールを作ることにしました。その中で決まった内容には、部屋の配分は今そうなっているのと同じように7畳の内2畳程度を彼が使い、1畳を洗濯機やキッチン、製造個などを置く共同の空間にし、残った4畳を私の自由にしてよいこと、基本的には自分の分の食料は自分で確保すること、もし自分たちの暮らしが他人に見つかった時は、すぐにその旨を共有し、人が集まってくる前に荷物をまとめ、この家から逃げ出すこと、この家の存在を他言しないこと、我々の安全に感ずる秘密は作らないこと、誰かが寝ているときは日が昇るまでは明かりをつけてはならず、眠りを妨げてはならないことなどが含まれていました。

「これはルールとは関係ないんだけど……」と前置きして、彼は

「この家に名前はあるのかい」

「猿楽塚古墳というらしいです」

「いや、この場所の名前じゃなくて、この家のことだよ」

「特に決まってないですけど……」

「じゃあ、これからこの家のことはグリン・ゲイブルスと呼ぶことにしないかい。僕は子供のころから赤毛のアンが大好きでね。何度アン・シャーリーになりたいと思ったことか……ギルバート・ブライスでも、双子のデイビー・キースでも、マシュウ・クスバートでも……いや、マシュウは死んでしまうからいやだな……とにかく、誰でもよかったんだ。とにかくあの物語の世界に行きたくてね。当然、この年になるとそれができないことはわかってるから、名前だけでもって思ったんだ。どうかな」

「べつにかまわないですけど……」

そういうことで、この家はグリン・ゲイブルスという名前に決まりました。

私たちはそれから、1週間ほど、特段何事もなくグリン・ゲイブルスで生活しましたが、私がその中で気づいたことは、彼は無類の話し好きで、要件のあるなしにかかわらず、起きているときはほとんど口を動かしているということでした。そして、要件のないときには彼の話すことは要領を得ず、内容がないことがほとんどであるというのも事実でした。しかし、何といってもその回数の多さゆえに、ときたま鋭い質問をしてくることがあり、それが私の身の上についてである時は、私は非常に心もとない気持ちになりました。

それらの質問に対し、私は、嘘をつくといつかほころび、かえって彼が真実へ近づいてしまうと思ったので、答えられる範囲で正確に答え、答えられないことは正直に答えたくないと言いました。彼は彼自身がホームレスという立場上、答えたくない質問というものには理解があると見え、それ以上同じ質問をしてくることはありませんでした。しかし、あまりにも質問が多いのと、その内容が回数を重ねるごとに核心へと迫っているように思えて、このまま正体を隠し通すのは思ったより骨が折れるかもしれないともいました。

そして、さらに1週間がたった時、彼の質問の嵐に耐えかねて、ついに私は白状してしまいました。その時には、彼が私の正体に気づいていて、それでいて敢えて知らないふりをしているのではないかとさえ考えていました。

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