9.静かな祈り
夜のしじまが、やわらかくほどけてゆく。
まだ人の気配も少ない城の奥、王子の寝室。
深く重たい静寂の中、ただ一人、目覚めている者がいた。
エマは、ゆっくりとまばたきをしながら、隣に眠る王子の寝顔を見つめていた。
背筋を少しだけ丸め、椅子に腰掛けたまま。動かぬ手には、昨夜からずっと握られたままのぬくもりが残っている。
(良かった。眠ってくださっている……)
深い安堵と、ほんの少しの痛みが、胸にしみる。
眠る王子の顔は穏やかで、昨日の夜の恐怖を忘れたかのようだった。
けれど、それが夢ではなく、現実なのだ。
昨日の夜。
『……お願い。今夜は、離れないで。すぐそばにいて』
クラウスは、『王子』ではなく、ただの一人の少年だった。
震える手で縋られたとき、エマは思った。
『この人はまだ、壊れてしまえるくらい幼いのだ』と。
同時に、『この手を離してはならない』と。
今、彼は自分の意志で眠っている。
それがどれほどのことか、エマはどれほど大変なことかと思う。
寝息は静かで、胸元が小さく上下している。
顔を覆うようにかかる長い黒髪を、そっと指先で整えた。
(……本当に、美しい方……)
そのとき、細い指がぴくりと動いた。
エマは手を止める。
王子の瞼が、ゆっくりと動いた。
「……エマ……」
まだ夢の余韻を含んだ声。けれど、確かに意識は目覚めに向かっていた。
「おはようございます、殿下。……お目覚めですね」
そう声をかけながらも、エマは心のどこかで、彼がもう少しだけ眠っていてくれることを願っていた。
もう少しだけ、子どものままでいてもよいのだと。
だが――クラウスは静かに起き上がった。
顔にはまだ寝ぼけの影が残るが、姿勢は凛としていた。
「……もう朝なんだね」
「はい」
クラウスは、しばらく黙っていた。
エマは何も言わず、彼の表情を待った。
押さず、詮索せず、ただそこに在るだけ。
やがて、少年の唇がゆっくりと動く。
「……怖い夢を見た。でも、途中で目が覚めた。……エマがいたから、怖くても戻れた」
エマは静かに微笑む。
「ありがとうございます。お傍にいた意味があったのなら、それが何よりです」
「……昨日は、本当に……情けなかったな、僕」
「いいえ。殿下がどんなお姿であっても、私にとっては、尊く、大切なお方です」
クラウスは、小さく息をついた。
それはほとんど音にならない吐息だった。
そして、言った。
「き、今日、昼のあとの時間……少しだけ、騎士の訓練場に見学へ行こうと思う。……外に出るのは怖いけど、見ておくべきかなって思って」
エマは、胸の奥がほろりと震えるのを感じた。
たった数時間前まで、あんなにも怯えていた少年が、いま自分から“見に行こう”と言った。
その勇気が、どれほどのものか――。
「……お一人で?」
「ううん。騎士をつけてもらうよ。ひとりじゃ、まだ心細いし。……でも、エマは……」
クラウスは言いかけて、少しだけ視線を伏せる。
「……エマは、来なくて大丈夫。見守っててくれれば、それでいい。……僕、今日は……一人でやってみたいから」
言い終えても、まだ不安げな表情が残っていた。
けれど、エマはそれ以上なにも言わなかった。
代わりに、そっと礼をした。
「承知しました。殿下のご決意、誇りに思います。……何かございましたら、すぐにお呼びください」
「……う、うん。ありがとう、エマ」
クラウスは、微かに笑った。
その笑みは、まだあどけない。
けれど――確かに、昨夜の彼とは違っていた。
「洗面は一人でするから」
「かしこまりました」
エマは、黙って見送った。
洗面所へ向かう王子の後ろ姿を、ただ目で追った。
その小さな背中に、確かに芽生えた「覚悟」。
いつかこの国を背負う人が、今まさに、その歩みを始めようとしている。
それをただ、静かに。
寄り添いすぎず、遠ざけすぎず――見守るという、侍女としての選択。
扉が静かに閉じたあと、エマは椅子に座り直し、小さく吐息をついた。
(……殿下。どうか、その一歩が、あなたを傷つけるものではありませんように)
それでも――踏み出すことを、やめてはいけない。
だからこそ、祈るように。
彼の朝が、今日の陽が、祝福に満ちてありますようにと――。