10.忘れ物
拐未遂事件が起きたのは、ほんの五日前のことだった。
王都の南、丘陵地帯に広がる「第一騎士訓練所」は、重厚な石造りの外壁と広大な演習場を備えた、若き騎士たちの登竜門である。
その空気は張りつめ、厳格で、それでいてどこか眩しかった。
汗と土の匂い、ぶつかり合う木剣の音が混ざり合い、命が鍛えられていく音がそこにはあった。
「ここね……」
エマはその空気の中に、ぽつりと立っていた。
両手には、王子が寝室に置き忘れていった銀の懐中時計。
蓋には王家の紋章が彫られている。
まだ温もりが残っている気がして、彼女はそっと握りしめた。
受付に名を告げると、応対した騎士は軽く眉を上げた後、「少しだけお待ちを」と言い、日陰にある木のベンチを勧めた。
数分も経たぬうちに、その人物は現れた。
「失礼、あなたがエマ殿ですね」
振り向いたエマの視線が、金の短髪と澄んだ青い瞳にぶつかる。
近衛騎士団の制服を纏ったその男は、整った顔立ちに加え、どこか人を包み込むような柔らかい雰囲気をまとっていた。
「俺はアレクシス・ヴァルト。近衛団長を務めております。クラウス殿下の訓練責任者でもあります」
「……ご挨拶をいただけるとは思っておりませんでした。お噂はかねがね」
「では、王子殿下から俺のことを?」
「……ええ、少しだけ」
「ふふ。それなら、俺もお返ししないといけませんね」
その笑顔は、まるで陽光のようだった。
だがその眼差しの奥に、何か計り知れないものが潜んでいるようにも思えた。
「あなたの噂も、もう訓練所内で広まっていますよ。勇敢な侍女が、王子を救ったと」
「……そうですか」
実際にあの夜、数人の刺客を相手に短剣二本で立ち向かったのだ。
話題になっても仕方がないだろう。
「もしお時間があるようでしたら、訓練施設をご案内してもよろしいでしょうか? 王子の恩人として、歓迎の意を込めて」
「……では、少しだけ」
連れて行かれたのは、訓練場の奥にある石造りの闘技場だった。
階段状の観覧席と円形の演習場。そこでは若き騎士たちが剣の型を繰り返し練習していた。
「これは第一班。王子殿下もこの班で鍛錬を積まれています」
人波の中に目を凝らせば、ローブを脱ぎ、真剣な面持ちで剣を振るうクラウスの姿があった。
いつもの怯えた顔とはまるで別人のように見える。
「……頑張っておられるようですね」
「ええ。守られることの痛みを知ったのでしょう。そして、誰かを守りたいと思ったのです」
アレクシスの声に、エマはふと振り向いた。
彼は笑っていたが、その笑みの奥には、どこか影を孕んだような静けさがあった。
「人を守るには、ただ強ければ良いというものではない。覚悟と責任――あなたには、それがある」
「……あのお方を守りたい。それだけです」
エマの短い言葉に、アレクシスの目がわずかに見開かれた。
だがすぐに、彼は穏やかに微笑んだ。
「あなたに、興味が湧きました」
歩みを止め、彼はゆっくりと彼女の正面に立つ。
「エマ殿。これは騎士としてではなく、ひとりの男としての言葉です。あなたの強さに、私は心を惹かれました」
「……え?」
「この職についてから、誰かにこう告げるのは初めてです」
エマは返す言葉を見つけられなかった。
ただ、風が吹き抜け、彼女の髪をやさしく揺らしていく。
沈黙の中で、アレクシスは丁寧に一礼し、静かに言った。
「……俺を覚えていてくださいね」
そう言い残し、彼はその場を去っていった。
エマは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
告げられた言葉が、心の奥でじわじわと広がっていく。
(……私に、心を惹かれた?)
あの眼差しは冗談でも、気まぐれでもない。
けれど、なぜ今、あのような言葉を――。
(いえ。私を揶揄っているだけだわ)
懐中時計を手のひらで握り直す。
銀の蓋が朝の陽を受けて、わずかにきらめいた。
そのときだった。
「エマ!」
聞き慣れた声が、訓練場に響いた。
振り向けば、汗をにじませた訓練着姿のクラウスが走ってくる。
「時計……ありがとう」
「いえ、お気になさらず。ただ、殿下にとって大切なものだと思いましたので」
彼に手渡した時計は、王子の手で大切そうに握りしめられた。
「僕、変わらなきゃって思ってる。あの夜からずっと……」
「……殿下」
「怖くて、何もできなかった。でも、君が――君が戦ってくれた。だから、今度は僕が、誰かを守れる人になりたいんだ」
エマの胸が、きゅっと締めつけられる。
(この人は、変わろうとしている)
その真剣な眼差しに、うそはなかった。
「殿下は、すでに変わり始めています。自分の弱さを認めて、それを越えようとされている」
クラウスは静かに頷き、手の中の時計を掲げる。
「ときどき、思い出すよ。あの夜のことと……君の勇気を」
エマはその言葉に、ようやく微笑んだ。
演習場に風が吹き抜け、汗と土の匂いを運ぶ。
その空気の中で、ふと視線の端に人影が映る。
木陰に立つアレクシスが、こちらを見つめていた。
目が合うと、彼は静かに、礼を込めるように頷いた。
エマもまた、そっと頭を下げて応えた。
◆ ◆ ◆
演習場の出入り口でエマは足を止めた。
小さく息を吐き、静かに振り返る。
視線の先には、少し離れた場所に立つクラウスの姿。
彼女はその存在を確かめるように一瞬見つめ、礼儀正しく会釈をした。
そして再び前を向き、迷いのない足取りで歩き出す。
その背中を、クラウスは無言で見つめていた。
風が静かに吹き抜ける中、彼の隣に背の高い男――アレクシスが音もなく並び立った。
クラウスが口を開く。
「どうだった?」
問いかける声は低く、わずかに不機嫌そうな感情を含んでいた。
アレクシスは肩をすくめ、冗談めかした口調で答える。
「それに関しては、あのお嬢さんはなびかなかったですよ」
「……それにしては、長話していたようだが」
「……あー。でた。この態度」
「ふん」
「――あのお嬢さんの前では、ずいぶん可愛らしくいらっしゃるのに……あいてっ!」
クラウスの無言の拳が、アレクシスの脇腹に軽くめり込む。
痛みに顔をしかめながらも、アレクシスは笑みを崩さない。
「長話も何も、殿下のご指示通りにしたまでですよ」
「それにしては、真剣な顔だったな」
クラウスの言葉に、アレクシスの表情が一瞬だけ変わる。
からかい半分だったその目に、わずかな探るような色が浮かぶ。
「……殿下。殿下のご命令以前から、あのお嬢さんに興味があって、心惹かれていると言ったら?」
クラウスの視線が鋭くなる。
「エマは僕の専属だ」
即答だった。
その一言に、アレクシスは目を見開き、そして仰々しく両手を上げた。
「あー! ちょっと、待ってくださいよ!!」
肩をすくめて、大げさに溜息をつく。
「……殿下。俺にあんな指示出しておきながら、それはないですよ……」
クラウスは、目を細くさせた。
口元には、冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「お前、引退したいようだな……」
「嫌だなー。あんなに熱い夜を過ごした仲じゃないですかー」
「それも記憶から消してやろうか?」
「わ、わかりました、黙りますっ!」
肩をすくめながら、アレクシスはクラウスの一歩後ろに引く。
だが、声にはまだ愉快げな響きが残っている。
クラウスは小さくため息をつき、視線を再びエマが去っていった方向へ向ける。
そこにはもう彼女の姿はない。
「……お前。厄介な相手に、惚れたものだな」
ぽつりと、独り言のようにこぼす。
その言葉に、アレクシスがまた笑った。
「殿下。あなたもですよ」
小さな、誰にも聞こえない呟きだった。
その言葉には、揶揄いではなく、どこか親愛にも似たものがあった。




