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第二話「流浪の公方、近江に立つ」



永禄八年五月末。

都を出て十日、道中の空気はすでに夏めいていた。

蝉の声が、焼けた葉の匂いとともに森を満たしている。だが、その自然の営みとは裏腹に、一行の表情には疲労と緊張が色濃く滲んでいた。


一乗院門跡・足利義昭。

かつては興福寺の静寂に包まれていた青年僧は、今や山野を駆ける亡命者だった。


駕籠の中で義昭は、濃い紺の直衣の袖をきゅっと握りしめていた。幼き頃から寺に入り、政に触れることもなく過ごしてきた。だが、今はちがう。

兄・義輝の死が、彼の人生を否応なく変えた。


「兄上……」


ふと口にしたその声は、風に掻き消される。

脳裏に蘇るのは、血で染まった二条御所、剣を携え、敵をなぎ倒していた兄の姿。そして――息絶えた兄の目が、最後に向けたであろう「何か」だ。


それは、弟である自分への未来だったのか。それとも、己が信じた将軍家の誇りだったのか。

義昭には、まだその意味が分からなかった。


 


騎馬の先頭を行く細川藤孝が、駕籠に目をやる。


「殿、もうすぐ朽木谷にございます。どうか今しばし、お耐えくださいませ」


「……藤孝、朽木は、我らを受け入れてくれるのか?」


「さよう。朽木元綱殿は、旧幕府に恩のある御方。今回も快くお迎えくださると……ただ、都の三好方の目を避けねばなりませぬ。」


「……分かった。」


義昭は目を伏せる。

今の自分にできることは、黙して生き延びること。

それだけだ。


 


やがて一行は、山あいの集落――近江国高島郡、朽木谷に辿り着いた。

そこは山と川に囲まれた、まるで時が止まったかのような静寂の地であった。風がひんやりとしていて、京の熱気とはまるで別の国のようにも思えた。


朽木家の屋敷にはすでに使者が入っており、義昭一行を出迎える準備が整っていた。領主・朽木元綱は、義昭に深く頭を下げてこう言った。


「義輝公のご不幸、まことに痛ましく存じます。……この朽木谷においては、いかなる者の目も届きませぬ。どうか、しばしの間、ご安息を。」


義昭は礼を返しつつも、胸中は複雑だった。

自分は、ここで何をするのか? 兄の志を継ぎ、将軍として立つことができるのか? いや――そもそも、それを望まれているのか?


 


その夜、細川藤孝、和田惟政、朽木元綱の三人が密やかに集まり、義昭の今後について語り合った。


「今は力を蓄える時……とはいえ、あの御方に、政治の才がおありとは到底……」と、和田が言葉を濁す。


藤孝は杯を静かに置いた。


「才だけではない。時代が義を求めるかどうか……それもあるまい。だが――」


「だが?」と元綱が目を向ける。


「もし、あの御方が"信じるもの"を持てるなら、我らがその火種となりましょう。義の名に生きる者として。」


 


その頃、義昭は書院の片隅で、一本の巻物を広げていた。

それは、父・義晴が残した政治記録。幕府の式目や、各地大名の関係図、諸家の恩賞記録。学問とは無縁だった義昭の目が、真剣な光を帯びていた。


「このまま、逃げ続けるだけでは……兄の死は、なんだったのだ」


そう呟く義昭の掌は、強く震えていた。

だがその震えは、恐怖ではない。

何かをつかみかけた者の、興奮に似た震えだった。


 


――京では、すでに三好三人衆が将軍家の後継を否定し、傀儡の政を進めていた。

その報せが義昭のもとへ届いたとき、彼は静かに立ち上がった。


「細川殿、和田殿――私は、将軍になる。兄のような剣の人ではなく、言葉と義の力で世を治める将軍に。」


「……!」


藤孝は目を細め、ゆっくりと頷いた。


 


義昭の胸に、はじめて明確な"野望"が灯った瞬間だった。












義昭が「将軍となる」ことを口にした翌日、朽木谷には緊張が走っていた。


細川藤孝は自ら筆を取り、書状を数通したためた。宛先は、播磨の赤松、因幡の山名、そして越前の朝倉義景――いずれも、幕府に縁を持ち、未だ三好の傀儡政権を受け入れていない諸侯である。


「まずは、義を掲げるに足る“大義名分”を整えねばならぬ」と藤孝は言った。


だが現実は甘くない。


幕府がすでに力を失って久しく、都での影響力も残り火に過ぎない。三好三人衆の武力は依然健在で、松永久秀の調略も巧妙を極めていた。


しかも――義昭自身には、兵も地盤もなかった。


 


「理想だけでは、天下は取れぬ」


和田惟政の言葉に、義昭は小さく首を横に振った。


「そのとおりだ、和田殿。だからこそ、力を借りねばならぬ。……私を、将軍として擁してくれる“武力”のある者を。」


そのとき、朽木元綱が小さく咳払いした。


「……して、どなたをお考えか?」


義昭は巻物の一節を指し示した。


「尾張。織田信長。」


 


藤孝と和田は顔を見合わせる。


「織田信長……?」


 


それは、意外だった。


尾張という国は、今でこそ桶狭間の奇襲で今川義元を破った信長の名が轟いているとはいえ、伝統も格式も薄く、将軍家が正式に頼る相手としては不適とも思われた。


「“うつけ”と呼ばれた男ですぞ」


和田の声には露骨な懸念がにじむ。


だが、義昭ははっきりと言った。


「私は“格式”で生き残れる時代に生きていない。必要なのは、“決断と行動”のある者だ。……信長には、それがある」


 


藤孝はしばらく沈黙し、やがて口を開いた。


「……確かに、あの男がもし“義”を掲げるならば、京の民はそれを歓迎するやもしれませぬな」


「いかにも」と義昭は力を込める。


「だが、そのためには“私”がまず覚悟を持たねばならぬ」


 


その晩、義昭はひとり書院にこもり、鏡の前に座した。


――私に、天下が治められるのか?


問いに答える者はいない。だが、答える必要もなかった。


ただ一つ、「義の心」と「諦めぬ意志」が、自らの中にあると信じた。


 


翌朝、藤孝の手で書状がしたためられた。


『尾張国主、織田上総介信長殿。

 このたびの京の乱により、将軍家は流転の地にございます。

 もし貴殿、義をもって天下を治めんと志すならば、

 どうか我が義昭を推戴いただきたく、心より願い上げ候――』


この一通が、後の歴史を決定づける“種火”となる。


 


 


【尾張・清洲城】

織田信長は、その書状を手にすると、無言でしばらく目を通していた。


部屋には、柴田勝家と丹羽長秀が控えていたが、信長は二人に目を向けず、やがて苦笑した。


「……将軍になる男が、俺に助けを求めてきたか。面白い。まことに面白い」


「どうなさいますか?」と勝家が問いかける。


信長は立ち上がり、遠く京の方角を指差す。


「この男を将軍に据えれば、俺は“将軍を立てた男”として、大義名分を得る」


「……では、受けられますか?」


「――いや、利用するだけよ。どうせ義昭とやらも、“操り人形”に過ぎぬ」


 


このとき、信長の胸中にあったのは“理想の天下”ではない。

ただ、“動乱を終わらせる資格はこの俺にある”という確信であった。


信長はうなずいた。


「近江・朽木谷へ、迎えの兵を遣わしてやれ。……行くぞ。新しき時代を、我が手で始める」


 


 


【朽木谷・義昭との邂逅】

それから十日後――


朝靄の中、織田軍の騎馬隊が朽木谷へ到着した。

甲冑の響き、馬蹄の音、それは戦ではないのに、まるで戦そのものの気配を孕んでいた。


義昭は、書院の玄関に立ち、迎えの使者――織田信長と対面した。


信長は、驚くほど若く、そして目が異常に鋭かった。

それは“人の上に立つ”というより、“人を選別する”獣の目だ。


「お初にお目にかかります、足利義昭殿。……いや、将軍様とお呼びすべきか」


「信長殿。よくぞ、朽木までお越しくださいました」


礼を取る義昭に、信長は軽く顎を引いた。


「俺はまだ貴殿を将軍と思っておらぬ。だが――面白いものは、試してみる主義でしてな」


 


義昭は、瞳の奥で光る炎を隠さず、まっすぐ信長を見つめ返した。


「私もまた、貴殿を“天の器”と見るわけではござらぬ。だが……力ある者が義を為すならば、それは“希望”となる」


「……ほう」


信長の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「ますます、気に入った」


 


この邂逅が、のちに「足利・織田政権」という曖昧な連立政権を生み、

やがては裏切りと決裂の種ともなる。


だがこの時、両者の胸にあったのは、共通の意志――

「時代を変える」という確かな野望だった。


足利義昭、近江に立ちぬ。

天下再興の夢は、尾張の若きうつけによって動き出す。

だが、義と覇は相容れぬ。

やがて二人の男は、相まみえた炎に焼かれることとなる――


 


 




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