8.白い狼
南極の夏は短い。生き物たちにとっては繁殖の季節だ。
コウテイペンギンの群れは海で体力を養い、過酷な冬に向けて体重を戻す。
私は、彼らが魚を求めて次々に海に飛び込むのを見送った。
群れの傍らで、一頭のヒョウアザラシが、のそのそと雪上を這っている。私を警戒して、いつでも海に逃げ込む態勢だ。
身体が大きな雄ペンギンが一羽、こちらも私を気にしているようだ。
「俺はペンギンは食わないよ」と、聞こえないのを承知で話しかけた。
戦いは終わった。このペンギンがヒトか否か、それすら気にならない。
私の気分が伝わったのか、その雄も海面にダイブした。ヒョウアザラシもするりと海水に滑り込んだ。
遼馬は死んだ。自爆用の爆発物は、私が用意した。
彼の死から、“パラドクスの溶解”が始まった。未来に向かって脳移植の技術革新がペースダウンし、タイム・パラドクスの負荷に耐えられない動物化したヒトたちが順々に姿を消していった。
“溶解”はいつ誰に対して起きるか予想できない。突然に消え去る。
真っ白いまばゆい光とともに虚無の真空状態が発生し、周囲を吸い込む。
南極でも、“溶解”の光を何度か目撃したし、虚無に巻き込まれて犠牲になった生き物も少なからずいた。
今のところ、ペンギンたちが消える気配はない。周囲も穏やかだ。
夏の沈まない太陽がキラキラと波に反射している。
突然、海の一箇所が盛り上がり、ペンギンが海中から突き上げられて宙に浮いた。ヒョウアザラシがその脚に喰らいついている。持ち上げ、海面に叩きつけた。
死は突然襲いかかってくる。
私は、海に飛び込んだ。
ヒョウアザラシは、海中では凶暴なハンターだ。私が迫ると、牙を剥き出して襲いかかってきた。
脚に噛みついて海底に引きずり込もうとする。彼らは100メートル近く潜ることができる。鼻先を鉤爪で切り裂いた。
背中に取り付くと、首の下の動脈に向かって爪を突き立てた。深く青く透明な世界に、黒い霧が吹き出した。
シャチが血の匂いを嗅ぎつけてくると厄介だ。早々に決着をつけると、三百キロを超える巨体を陸地に引きずり上げた。
肉は食料。皮は靴や服。脂は燃料になる。
その場で解体すると、ソリに乗せて運んだ。
天気がよく、風がない。気温は零度を超えるだろう。
小屋に近づくと、白狼が二匹、駆け寄ってきた。
雄がアザラシの血の匂いに反応し、騒々しくソリの行手を邪魔する。雌が背中に噛みつき、押さえつけて無作法をいさめた。
「颯馬、腹が減ったのか?」私は雄の白狼を抱えて顔をくしゃくしゃにした。
雌が控えめに近づき、私に鼻を寄せた。
「天音ちゃん。ありがとな!家に帰ったらアザラシを食おう」
小屋について扉を開けると、二人の子どもたちがコロコロと飛び出してきた。まだ天音のおっぱいから卒業していない。
颯馬は、真面目な父親の顔になって、きゃっきゃっと騒ぐ子どもたちの尻をつついて整列させようとする。
「カカア天下が向いてるみたいだな」私は颯馬を冷やかした。「でも、お前にはもったいない、いい嫁さんだ」
天音が満足げに喉を鳴らした。
私たちの施術には、遼馬が直接手を下した。
そのため、“溶解”まで比較的長い猶予を与えられたようだ。