あなたはどなたですの?
ーーー時は少し遡り。
「……どこだ、ここ?」
気づけば自分が見知らぬ場所にいたので、少し疑念を抱きながら周りを見回した。
おそらくは、どこかの城の中。
そして部屋の様子を見るに、ここは客間ではなく誰かの私室である。
自分が着ている服や部屋の置かれた私物の上等さなどから、かなり高位の貴族だという推測はついたものの、それ以上は分からなかった。
―――普通、こういう身分の人間は侍従が側にいる筈だが……。
そうした者の姿も見えない。
部屋の中にあった姿見を覗き込むと、緑の瞳に金の髪をした、見知らぬ顔が映っている。
―――何だこれは? 俺が、俺じゃない誰かになってるのか?
あまりに不可思議だが、『こういうこと』が出来そうな相手に心当たりがある為、割とすんなり受け入れる。
―――また皇帝の仕業か?
人智を超えた力を使う主君の顔を思い浮かべつつ、分からないままジッとしているのも性に合わないので、外に出てみることにした。
どこか夢の中にいるような心地が抜けず、こめかみを撫でる。
―――ああ、夢か。あり得るな。
なんとなく考えたことに、自分で納得した。
こんなに鮮明な夢を見るのも、夢の中で夢の自覚を得るのも初めての経験だが、あり得ないことなどこの世にはない。
が、夢と気づいても目が覚める気配はなかった。
目が覚めないのなら仕方ない、と、とりあえずこの城を出ることを目指してみたが……。
「殿下、おはようございます」
そう人の声がしたので振り向き……思わず固まる。
―――マリアフィス……!?
かつて失った婚約者にそっくりな少女の姿に、思わず顔を凝視した。
だが、すぐに違うと気づく。
マリアフィスは、こんな瞳の色をしていなかった。
―――何だ、やっぱり夢か。
自分の状況も、少々整合性の取れない部分も、そう思えば納得出来る。
「ワイルズ殿下?」
声を掛けてきた少女が、不思議そうな表情で首を傾げるのに、問いかけてみる。
「君は誰だ?」
そう口にすると、少女は驚いたように目を見開いた。
「その、ワイルズ、というのが、私の名前なのか?」
すると、少女の表情がさらに変化する。
目を細め、何かを思案するような様子を見せた彼女に、もう一度疑問が思い浮かんだ。
―――夢にしちゃ、やっぱりおかしいか……?
夢見心地は抜けないが、単なる夢と片付けるには、目の前の少女は頭の中で作られた幻想とは思えない。
すると少女は、ぱらりと口元に扇を広げて、こちらの影に目を向けた。
「『影』」
『……はい』
「うぉ!?」
全く気配もないまま影から一人の男が現れたので、驚いて飛び退る。
「何だ!? 何で影から人が!?」
―――コイツ、魔性か……!?
自分の知る限り、影から出てくるような魔術を操るのは、皇帝か魔性くらいのものだった。
思わず腰の剣に手を伸ばしかけるが、その前に少女が口を開く。
「一体、何がどうなっているのです?」
すると、影から出てきた男が静かに首を横に振った。
『それが……私にもよく分からないのです』
「何故です?」
『私には、昨晩の記憶がありません』
「……記憶が?」
『はい』
「つまり……そういうことですの?」
『おそらくは』
男の返事に、少女はふぅ、と軽くため息を吐いた。
「殿下……何だかまた、愚かなことをなさったのかしら?」
そんな言葉を聞きながら、内心で思う。
―――記憶か、なるほどな。
記憶というのは、人の魂を形作るものの一つで、いわば魂の外殻だという。
その『魂の形』に干渉する何らかの魔術が行使されたのだろう、と理解する。
自分は【幻想花】を使った忘却魔術を、かつて皇帝が使ったのを見たことがあるのだ。
―――てなると、やっぱり皇帝の仕業か。が、何の指示もなしに何を企んでいる?
この体はおそらく、他人のもの。
それも、多分忘却魔術で魂の外殻が柔くなったところに『魔が差した』のだろう。
自分という『魔』が。
―――だったら、さっさと元の持ち主に返さないとな。
もし予想通りに皇帝の仕業として、あの野郎が何を考えているのかはさっぱりだが、自分に人の体を乗っ取るような趣味はない。
同時に、中身が変わっていることを悟られてはいけない、とも思う。
知られたら、どういう対応をされるかが未知数であり、こちらに敵対する意思はないからだ。
―――このまま、記憶喪失を装うのが円いか。
そう考えて、沈黙することにした。
私室に連れ戻された後、改めて考える。
「……アトランテか」
その名前に、聞き覚えがあった。
確か、皇帝から皇后に与えられた大島の名だった筈だ。
ようやく侍従が付けられたので、待っている間に幾つか質問をする。
その結果、場所が多分間違いないことと、何となく『今』がどこなのかを朧げに理解する。
―――皇国の名が忘れられる程の未来、か。
皇帝亡き後に皇国が滅んだ、のは、まぁ分かる。
さらに島に繋がる『門』……今は転移魔導陣というらしい……も失われており、各地に少しだけ残ったものは古代文明の遺産、と呼ばれているのだと。
気まぐれに皇帝が建造した、宙に浮くピラミッドも砂漠にあるようなので、おそらく推測は正しい。
結局分からないのは、自分がここにいる理由だけだ。
ある程度推測も出来、やることもないので大人しく待っていると、再度あの少女……ディ・ディオーラと名乗った彼女が姿を見せた。
やはり見れば見るほど、マリアフィスに似ている。
「ワイルズ殿下」
「……ああ」
「少し、お付き合いいただけますか? 見せたいものがございますの」
「それは、俺が……記憶を取り戻すのに、何か関係のありそうなことか?」
「ええ」
返答しつつ、探るような目を向けてくる彼女に、内心で苦笑する。
―――先ほど、愚か、と言っていたな。
別に自分も賢い方だとは思っていないのだが、記憶に関することを口にしたのすら、悟り過ぎということだろうか。
見たところ、この『ワイルズ』を、口に出すほど愚かと思っているらしいディ・ディオーラだが、こちらに悪感情を抱いている様子がなく、それが少し不思議だった。
聡い者は愚かな者を嫌う傾向にある、と、これまでの経験を通して知っているからだ。
知る限り、愚者に優しい賢者は、皇帝に害なすモノ以外には寛容だった皇后くらいである。
そうして、荷下ろし場に着くまでに見えた庭などを興味深く眺めていると。
「ウォルフ殿下」
と、不意に『名』を呼ばれて、驚愕と共に彼女を見る。
―――何で俺の名を……!?
まさかバレているのか、と思ったが、違った。
「頼まれたものを持ってきましたよ!」
「ええ、助かりますわ」
どうやら、『ウォルフ』という名前らしい青年が、満面の笑みでディ・ディオーラに何かを差し出している。
―――勘違いか。
良かったが、あそこで反応してしまったことで、また不審に思われたかもしれない。
また別の場所に向かう道すがら、問いかける。
「あの者の名は、ウォルフというのか?」
「ええ。ワイルズ殿下の弟君である、ウォルフルフ・アトランテ殿下ですわ。何か?」
「……いや」
そうして、ベルベリーチェ・アトランテというらしい、女性の元を訪ねる。
威厳のある年嵩の女性だが、雰囲気は出会った頃の若い皇后と似ていた。
芯があり、どこか張り詰めた気配がする。
が、もう今以降は沈黙を貫くと決めていたので、余計なことは何も口にしなかった。
「では、始めようかの。【幻想花】と【月魅草】の台座に背を向け、そこに座し、目を閉じよ」
「……ええ」
―――今は【幻想花】自体が、皇妃の名を冠しているのか。
皇帝と皇妃を引き合わせた花であり、彼女の好んだ花でもある。
―――引き合わせる……。
そう、忘却の魔術以外にも、【幻想花】はそういう来歴があった。
ベルベリーチェの膨大な魔力が満ち溢れると、体の中に沁みてゆく【幻想花】や【月魅草】の波動と共に、夢見心地が強まってきた。
酒に軽く酔ったような酩酊感……と、同時に、魂の奥底に意識が引き込まれ、失われていくような感覚がする。
―――ああ、なるほどな。
その段に至って、ようやく自分の状況を本当に理解した。
皇帝の仕業、という訳でもなかったらしい。
この体は、他人の体であって、他人の体ではなかった。
魂の外殻が失われたことにより、自分が表出しただけだったのだ。
おそらくは『前世』と呼ばれるであろう、魂の内に残滓のように張り付いていた、自分の人格が。
本来の外殻が……『ワーワイルズ・アトランテ』と呼ばれる人格が取り戻されていくことで、残滓はまた魂の内側に戻る。
―――生まれ変わった……そりゃそうだよな。
皇国は滅び、皇帝の名まで風化するような年月が過ぎているのである。
残滓ゆえに覚えていなかったが、自分も、とっくに死んでいるのだろう。
マリアフィスに似たディ・ディオーラも、もしかしたらマリアフィスの生まれ変わりなのかもしれない。
もっとも『ワイルズ』の外見は自分の元とは似ても似つかなかったので、単に他人の空似かもしれないが、それを確かめる手段もなかった。
―――まぁ、前世は前世、今の俺の人生は今の俺のものだ。……返すぜ、幸せにな。
そうして、一瞬何も考えられなくなり……ゆっくり目を開けたワイルズは、上妃陛下とディオーラの目の前にいた。
「……あれ?」
状況が全く分からず、パチパチと何度か瞬きをする。
―――私は、バンちゃんに飛竜草を食べさせていた筈では!?
「な、何で上妃陛下が飛竜舎に!?」
「ここ、飛竜舎ではありませんわよ」
ディオーラがそう告げ、キョロキョロと周りを見回すと、確かに違った。
「本当だ!? な、何故!?」
「愚かですわねぇ、殿下」
「愚かって言うな! 何も愚かなことなどしていないぞ!」
「あら、そうですの?」
ディオーラは扇を開いて、スゥ、と目を細めてみせる。
「では、誰にも言わず、勝手に一人で、【飛竜草】を採りに行ったのは、愚かではない、と?」
「バ、バンちゃんの具合が悪かったのだ! 仕方がないだろう!」
と、いつものように反射的に言い返した瞬間、上妃陛下の雰囲気が変わる。
―――あ。
ワイルズは、この後起こることを察して、思わず頬を引き攣らせた。




