殿下と、学校について考えますわ。
「国民に今すぐに教育を受けさせる、というのは、難しいですわね」
ディオーラは、執務室に相談に現れたワイルズの話を聞いて、あっさりとそう答えた。
「な、何故だ!?」
「教育というのは、おカネが掛かるからですわね」
「またカネなのか!?」
ワイルズの言葉に、ディオーラは静かに頷く。
「そうですわね。人を育てるというのは、儲からないものですから。ただこの場合……お金が掛かるのは、王国側というよりも、教育を受ける側ですのよ」
「受ける側……?」
「そうですわ。教本一つ取ってみても、宝石を買うくらいの価格ですのよ」
ワイルズは王家、ディオーラは公爵令嬢なので、そうした点を気にすることはないけれど。
「庶民は、わたくし共が『安い』と感じるような宝石一つ取っても、手が出ないこともございます。本も知識も財産であり、国全体としてみれば、教育水準が上がるのは喜ばしいことですけれど」
ディオーラは、ジッとワイルズの顔を見つめる。
「国が、読み書きが出来る者を高給で雇い入れ、それを庶民に伝える業務を発布人等の仕事とするのは、その金銭に見合うだけの能力を身に付けることが難しいからなのです」
あまり裕福でない下位貴族……男爵家などであれば、貴族学校に長男しか通わせられないこともあるくらい、貴族学校、つまり『学校』という場所の敷居は高いのだ。
「学校行事一つにしてもそうですわ。ドレスや礼服を着て、わたくし共は社交を行いますけれど、そのドレスや礼服も宝石同様に高価なものです。近年は、魔力量が豊富で暴発の危険がある方は、制御を学ぶ為に特別に入学させたりもしますけれど」
それでも、あまりに準備物が多過ぎて参加出来ない者もいて、そうした方々は少々肩身の狭い思いをしているだろう。
制度として、学校を含む教育制度というのはまだまだ発展途上で、魔力に関しても、国を挙げての研究が世界で盛んになったのは、魔力による病気や事故が増えてきてからである。
ディオーラの瞳の欠陥に関する体調不良も、その一種だ。
「現状運営されている貴族学校内ですら、そうした諸問題があるのです。読み書き算術のみとはいえ、庶民を通わせる学校の創設については、まず、周囲の理解を得る必要がありますわ」
「……良いことなのにか?」
「良いことなのに、ですわ」
ワイルズは納得いかないのか、むむむ、と上目遣いでこちらを見つめるので、ディオーラはさらに言葉を重ねる。
「強行することは簡単ですわ。アトランテ王家のやることに、少なくとも表立って逆らう貴族はおりませんから。けれど、その裏ではきっと、貴族のみならず、庶民の間でも不満が上がるでしょう」
「え……?」
「教育を必要と思う方もいらっしゃるのと同様、不要と考える者もいるのです。生きるのに困らないのであれば必要ない、と思う方も、必要性に考えが及ばない方も」
そうした人々を、一人一人説得する必要はないけれど、大衆の合意というものがなければ、そうした生活に多大な影響を与える物事は、中々動かない。
「今まで子どもを働き手としていた農民は、一日、あるいは一週間に少々の時間であっても、人手を取られるのを嫌がるかもしれませんわね。学校と住んでいる場所が遠ければ、往復だけで一日がかりとなるかもしれません。また……皆が字を読めるようになれば、発布人の仕事が失われます」
自らの既得権益を脅かされる時や、食い扶持を失うかもしれない時。
そうした時に、人は強く反発するものなのである。
「問題の根は、上王陛下ご夫妻がたが魔獣狩りギルドを設立した理由と、同じですわ」
それは『魔獣狩り』という仕事そのものを奪わず、かつ、少しでも安全にする為の措置だったのである。
代わりの仕事を、といっても、変化を好む者もいれば、嫌う者もいるのだ。
「税、というものもそうでしょう? 皆の生活を守る為に、治水や開拓、建築などに使う費用、国として力を蓄える為の費用であったとしても、仮に稼ぎの五割を税で取られれば、庶民は不満を覚えるでしょう。必要であるから理解を求めなくともいい、とは、ならないのです」
感情と、理屈と。
両面を考慮しなければ、人は動かないのである。
そうした話に、ワイルズは徐々に肩を落として行き、最後に眉をハの字に曲げた。
「そ、そうか……難しいことなのだな……?」
「殿下。……実は、よく分かっていないでしょう」
「う。な、何故分かるのだ……?」
「顔に書いてありますもの。殿下が人の機微に疎いのは、今に始まったことではありません」
それでも、ちゃんと話を聞くようになっているだけ、これも成長である。
ディオーラは、小さくなってしまったワイルズに、やれやれ、とため息を吐いてから、改めて笑みを浮かべた。
「そんなに気を落とさなくても、今すぐには無理、というだけですわ」
「だ、だが、アガペロは孫に教育を受けさせたいと言っていたのだ。すぐに無理なら、いつなら出来る?」
「そうですわね、状況によりますが、数年から十数年、数十年掛かるかもしれませんわね」
「そうなるのだろう? ……だがその、彼女にだけ教育を受けさせるようなことは、えこ贔屓というか……私がやってはいけないことなのは、何となく分かる……」
ワイルズの言葉に、ディオーラは思わず口元に手を当てて、目をぱちくりさせてしまった。
―――『私が』やってはいけない? 殿下が?
今まで、そんなことを口にした記憶があっただろうか。
「殿下……」
「な、何だ?」
「本当に、成長なさいましたわねぇ……」
「???」
しみじみとそう告げると、ワイルズは意味が分からなかったようで、首を傾げる。
男子三日会わざれば刮目して見よ、というけれど、あのアガペロという魔獣狩りの方と出会ったことは、彼にとって素晴らしく良いことだったようだ。
「まさか、王の御自覚をなさるなんて、わたくしの愚かわいい殿下はどこに行ってしまわれたのでしょう……もう少し、貴族学校を卒業するくらいまでは愚かでも良いのですよ?」
「ば、バカにするのか褒めるのかどちらかにしろ!」
「バカになどしておりませんわ。混じりっ気なく褒めておりましてよ」
クスクスと笑い声を立てた後、ディオーラは改めて指を立てる。
「改めてお伝えしますけれど、庶民が通える学校の設立そのものは、とても良いことですわ。ですので、小さく始めてみれば良いのでは?」
「どういうことだ? 先ほど、無理だと言ったではないか」
「色々説明した事情で、国民の誰でも平等に一斉に、は、無理だと言ったのです。祝賀祭の準備や、魔獣園の準備と同じですわ、殿下」
「準備と同じ……? むむむ……」
腕を組み、難しい顔になった後、しばらく考えて、殿下は自分なりの答えを口にする。
「問題が山積みだから、そのままだと無理で……カネも時間も必要で……足りない、から、色々集めるところから、ということか?」
「それも間違っておりませんけれど、手の届く範囲で、というお話ですわ」
答えを最初から全部教えてしまうのは、簡単であるが、何でも教えられてばかりでは身につかない。
ワイルズもそう思っているから、おうむ返しせずに自分で考えて口にしたのだろう。
でも、ヒントくらいは良いかとディオーラは思ったので、さらに続ける。
「魔獣を集める費用が足りないから、殿下はご自身の手で集めようとなさった。上手く行くかは分かりませんけれど、手の届く範囲で、リスクや掛かる費用の少ない形で、やろうとなさったのでしょう? では、学校に関してはどうでしょう?」
「むむむむむむ……わ、分からん!」
頭から湯気を吹きそうな顔をしているワイルズに、ディオーラはニコニコしてしまった。
せっかく頑張ろうとしているし、今までと比べれば十分に施政に関する会話が出来たので、これ以上は可哀想かもしれない。
なので、ディオーラは答えになりそうなことを教えることにした。
「殿下ご自身の手で、一つ、街中に小さな教室を作ったら良いかと。家庭教師や、それこそ発布人の仕事をしている者を、読み書き算術を教えるよう雇い入れて、無料で誰でも習えるようにすれば良いのです」
それも、今まではなかったものだ。
「教室一つくらいなら、全員に貸し出す分の教科書も揃えられます。希望者だけを募れば、必要ないと考える者は受けないでしょうし、アガペロのような者は子どもを通わせるのでは?」
「な、なるほど!」
「そうして徐々に浸透させながら、規模を大きくするのなら国として支援を行えばいいでしょう。その頃には教室自体が実績になっているでしょうし、教える際の問題点も洗い出せているかと思いますわ」
「わ、分かった! それなら、やっても大丈夫なんだな!?」
「ええ」
よし! とようやく明るい顔になったワイルズは、これもまた、今まで聞いたことのない言葉を口にする。
「ありがとう、ディオーラ! アガペロも喜ぶだろう!」




