探索
泡沫が水面に向けてゆっくりと浮上するように、セツナは意識を取り戻した。ゆっくりと目蓋を上げる。仰向けで寝ていた彼女の視界に入ったのは星が瞬き始めた空だった。
未だ霞み懸かっている頭のままでぼんやりと空を眺めた。空気はやや肌寒く、夕闇に包まれている。
(綺麗な夕空。……え。夕空?)
バネ人形よろしく、上半身をガバリと起こした。サッと顔から血の気が引いていくのを感じる。
(ちょっと待って。峠にいたときは空は真っ暗だったのに今明るいって事は、あれから一日近く経っているって事? いいえ、もしかしたらそれ以上経っているのかも)
ゆっくり空を眺めていた己を叱咤し立ち上がった。先ずは現状把握が最優先だ。そう考え、視線をあげる。
しかし、目に入ったあまりに様変わりをしている周囲の状況に、おもわず息を呑んだ。
最後の記憶では自分はミサカイ峠にいたはずだ。古い愛車のヘッドライトがアスファルトを照らしていた。道路脇には樹林群と暗闇が広がっていた。だが今は、そのどれもがない。
代わりにあるのは内側から不思議な光を放つ蓮の葉に似た巨大な植物が竹林のように生えている光景だった。植物から放出されている胞子が蛍のように淡い光を放ちながら無数に漂っている。色とりどりに光る幻想的な風景は状況が状況でなかったら見惚れてしまうだろう。しかし、今はセツナの不安を煽る材料にしか成り得なかった。
まずい。これは。警鐘が鳴る。
こんな光景日本では見たことがない。だいたい、この光っている植物は何だ。確かに日本にも光る植物は有ることにはあるが、此処まで巨大な植物は聞いたことがない。知らないだけかもしれないが。
一体どれくらい寝ていたのか。気を失った後、何者かに連れ去られたのか。あの妙な光の後何が起きたのか。
コートのポケットにある無線の存在を思い出し、急いで連絡を試みる。発した声は堪えようとする本人の意志とは裏腹に少し震えている。
「初瀬です。聞こえていたら応答願います。……初瀬です! だれか聞こえていたら応答願います!」
祈るような気持ちで無線に声を送るが、無線機は誰の声を伝えることなく押し黙ったままだ。その後も何度か呼びかけるが結果は同じだった。
マイクを持った手が緩慢に口から遠ざかる。嫌な予感は当たったか。ふと、視線を落とすと足下に自分のショルダーバッグが転がっていることに気付き、拾い上げる。あまり汚れが付いてない鞄は地面に落ちてからあまり時間が経っていないことを伺わせた。もしかしたらと思い、バッグにしまっておいた携帯の電波を確認する。
電波状況は………………圏外だ。
頼みの綱である連絡手段が、こうもあっさり使えなくなるとは。ため息をつきながら携帯電話を閉じる。
(今頃、みんな探してるかな。あの場にいた他の捜査官達は無事かな)
この状況では知りようがないが。それでも捜査に協力してくれた同僚達の身を心配せずにはいられない。
(それにしても)
あれだけ厳重かつ慎重に張り込んだ自分達の張り込みをかい潜り、自分を誘拐するとは。相手はとんだ手練れのようだ。
(まあ、筆跡工作が出来る相手となると組織的な犯行の可能性は十分にあったけど。でも私たちの目を欺ける程とは)
自分の読みの浅さを反省しても後の祭りだ。だいたい、犯人の行動には一貫性がない。読み切るのは難しかった。今にしたってそうだ。誘拐が成功したにもかかわらず、肝心の攫った人間を森の中に放ったままどこかに行ってしまったらしい。周りに人気がないことは既に気付いていた。捜査官を翻弄するほどの手際がありながら自分を放置して置き去りとは。
(まあ、私がのたれ死ぬのを待っているのかも知れないけど)
確実な方法とは言えないが。
気を取り直し、他に何か使えそうなものはないかバッグの中をあらためる。紛失しているものはなさそうだ。その中に例のネックレスを見つけ、手に取る。まじまじと眺めるが何の変哲もない普通のネックレスだ。どこにも光る仕掛けなど無い。薄気味悪く思いながらも、丁寧にバッグの内ポケットに入れなおした。この状況に陥る原因となったものだ。不気味ではあるが、何かの証拠になるかも知れない。
コートの左胸辺りをさすると堅いものに触れた。これが有るだけでも僥倖だ。取り出して点検を行う。胞子の光に照らされて形を顕わにしたその銃はスイス製シグ・ザウアー230だ。相棒である銃に異常はない。犯人に連れ去られたときに取り上げられてもおかしくなかっただろうに。物が取られていない事を不思議に思いながらも有るに越したことはない。いそいそと元のポケットにしまい直し、もう一度布の上から撫でる。相棒がいるだけでも安心感は大分違った。
(とにかく、誰か人を見つけないと。少なくとも安全そうな場所だけでも)
日本に居るかすらも怪しいこの状況では救助は望めないだろう。となれば自分で動くしかない。何が起こるか判らないが、セツナは意を決して歩き始めた。
足場は植物の根や岩により複雑に隆起していたが、薄暗い中躓くことなく歩けているのは植物の優しい明かりに照らされているからだろう。
気が付いて二時間経ったくらいか。確実に歩みを進める中、右腕につけられた時計を覗く。休み無く歩いていた身体はうっすらと汗ばんできていた。秋を思わせる涼やかな空気が気持ちいい。
気候とは裏腹に、歩き始めてから延々と続く見慣れない生物が、いよいよ日本ではないことを確信させ憂鬱な気分になる。視界の端を青く光るトンボのような虫がよぎる。
(まったく。少しくらい見知ったものが有ればどこにいるかの目星がつけられるのに)
覚醒してから未だに自分のいる場所がどこなのか見当すらつけられなかった。
木々の葉擦れる音に合わせ、今まで耳にしたことがない歌う様な獣の声がしばしば聞こえる。今のところ襲われる様子はないが、このままでは時間の問題か。セツナは口をきつく結んで歩む速度を速めた。
ふと一陣の風が木々の間を通り抜ける。葉のこすり合う音がだんだん大きくなり、波のように聞こえる。
(嵐でも来たら不味いな)
思いの外強い風に艶のある髪が乱される。視界が遮られないように手で髪をおさえる。
あっという間に風は止んだ。どうやら突発的なものだったらしい。安堵のため息をつこうとしたとき、ふと首を巡らす。
辺りがしんと静まりかえっている。さっきまであった獣の声も森のざわめきも聞こえない。違和感を覚えた次の瞬間。
――――オオオオォオオォォォオオオオ
どこからか、地を揺るがす獣の咆吼が聞こえた。音の震動は空気に触れている肌をビリビリと刺激した。音の感覚からかなりの早さで声の主が近づいてくることが判る。セツナはとっさに木々の間に身を隠し、閉まっておいた拳銃を取り出す。幸い視界は明るい。銃弾が勿体ないが、獣が襲いかかって来ようものなら、すかさず反撃をするつもりだ。
しかし、声は大きくなるものの、近づいてくる足音や草木を揺らす音は全くしなかった。得体の知れないものが近くにいるという緊張感が彼女の指先まで支配していた。
咆吼に続きセツナが先程眺めていた夕空に無数の影がよぎる。草木の光に照らされて悠然と空を舞うシルエットに頭が真っ白になった。
「何?なんなのよ。……あれ」
セツナはただ、呆然と立ちつくした。眼は瞬きを忘れたかのように影が去った方角に釘付けになったまま動かない。
影といえど光で輪郭が顕わになった生き物たちは見間違えようもなかった。人など簡単に踏みつぶすであろう巨躯、真っ直ぐに伸びた蛇のように長い尾、飛膜で出来た一対の翼。
あれは――――
「ドラゴンだ」
夕闇の空をあっという間に横切っていったその生き物たちは、セツナが映画等で見知ったドラゴンによく似ていた。
あまりのことに自分の正気すら疑いたくなるが、止むことのない地響きのような咆吼がセツナに現実を突きつけていた。
「もしかして、ここは……外国ですら、ないの?」
セツナの問いに答えるものは誰もいない。