決意
背後から差し込む少し黄色みを帯びた陽の光が部屋に満ちていた。
目の前の磨き抜かれた鏡には自身の影が映っている。
その鏡をのぞき込めば、長いまつ毛に彩られたバーミリオン色の瞳が痛々しいくらいに赤く充血しているのが見えた。
クロエは自身の心に問いかけるように、まだあどけなさが残るその瞳を見つめる。噛み締めた唇からは微かに血の味がした。
(後悔は、しないわ。もう決めたのだから)
これから自分のやろうとしていることが、周りから反対を受けることはわかっている。だからこそ、誰にも邪魔されない今この場で決断する必要があった。
ドレッシングチェストの鏡の前には大ぶりの鋏が置かれている。その鋏を右手に取り、クロエは一まとめにした自身のダークブロンドの髪の束を左手で掴んだ。
一度ギュッと目を閉じ、深く深呼吸をする。
一瞬にして眼裏に自分にとって忘れ難い出来事が浮かんだが、それを思い出してもクロエの決意は揺るがなかった。
ゆっくりと目を開けば、鏡越しに見つめ合うその瞳には固い意志が見える。
「クロエ・マディソンは、今この時から生まれ変わるのよ」
そう呟いて、クロエは右手に持った鋏で髪の束を挟むと、一気にそのハンドルを握った。
重さは変わらないはずなのに、左手に持った髪の束が急にその存在感を増す。
そしてふわりと広がった髪の毛が顔周りにまとわりつき、軽やかに舞った。
泣濡れてお世辞にも可愛らしいとは言えない少女が鏡越しにこちらを見つめている。
黄みを帯びた鮮やかなバーミリオン色の瞳には、先ほどまでとは違い何かを振り切ったような強さが感じられた。
「強くならなければいけないのよ」
(そう、何者にも折られないくらい強く)
そっと伸ばした右手が触れた鏡の表面はひんやりとしていて、千々に乱れる心をなだめていく。
ドレッシングチェストの上についた左手をギュッと握りしめると、クロエは自分がこの結論にいたった経緯をゆっくりと思い出していった。
♢♢♢
クロエ・マディソンはエスペランサ王国のマディソン辺境伯息女だ。三人兄妹の末っ子で兄が二人いる。
エスペランサ王国はルグナシア大陸の西側に位置しており、大陸には三つの国があった。
東側にはいくつかの部族が集まってできたウィクトル帝国が、そして中央には神秘の国と呼ばれるフォルトゥーナ国がある。
マディソン領は王国の北端ということもあり、東側を雄大なるグランディス山脈に接し南側にはメンシスという大きな森林を有していた。
また、北側には海が広がっており、その海を越えた先にはアルカーナと呼ばれる大陸がある。
マディソン領は冬は寒く夏は暑いという、四季が感じられると言えば聞こえは良いが、厳しい環境に置かれた領地だ。
過去にはウィクトル帝国との戦争もあり、王国の国境線を守るマディソン領には辺境伯騎士団が常駐している。
しかし現在は武力よりも話し合いでの解決をという考えの元、定期的に三国間での会議が開かれ、辺境伯騎士団が他国に対してその実力を発揮する機会はない。
ただ、それでも王国には騎士団を維持する必要があった。
それは、グランディス山脈から時折現れる銀狼の討伐、そして海を越えて襲撃してくる海賊に対処しなければならないからだった。
そもそもエスペランサ王国はウィクトル帝国との貿易に関しては南側の海域を利用して行なっている。
しかしアルカーナ大陸がルグナシア大陸の北側に位置するため、彼の国との貿易品に関してはマディソン領の港を経由して王都へと輸送しているのが現状だった。
そして海賊は主にアルカーナ大陸との貿易船を狙ってやってくるのだ。
そういった事情もあり、辺境伯領は王国から認められて騎士団を維持し、ある程度の自治権が与えられていた。
そんなマディソン辺境伯家において、クロエは唯一の令嬢だ。愛情深い両親と頼りになる兄二人に可愛がられ、何の憂いもなく成長していくはずだった。
クロエの運命を変える、あの事件さえなければ。
辺境伯家はその特殊性もあり、王国内の地位としては公爵家と同等とみなされている。
王家はその力を頼りにしつつも、辺境伯家が王家に対して牙を向くことのないよう、定期的に交流を持っていた。
また、クロエの二番目の兄がエスペランサ王国の第一王子と同じ年ということもあり、兄は幼き頃から王子の遊び相手だった。
辺境伯家は基本的に長子継承と定められており、次兄はいずれ王都へ出て王子直属の近衛騎士になるのではないかとも言われていた。
そのため、王家の王子たちと主だった貴族たちを招いての大規模な狩猟祭が毎年秋に行われている。
その年も、いつものように楽しいまま祭りは幕を閉じるはずった。
クロエの運命を変えるその事件が起こったのは、彼女が八歳の時だ。
十六歳になった長兄のガルドと、十三歳の次兄のヒューゴに連れられ、八歳のクロエはエスペランサ王国の第一王子、そして第二王子と初めて顔を合わせた。
第一王子であるアンセル、そして第二王子であるサイラスも、プラチナブロンドの髪にコバルトブルーの瞳という華やかな色を持っており、場に集う貴族たちの注目を集めていた。
アンセルはすでに王太子らしい風格を身につけていて、当たりは柔らかくともその瞳には厳しさが見え隠れしていた。
それでいてヒューゴと一緒になると好奇心にあふれる年相応の少年のようにも見え、少し接しただけのクロエにも二人の相性が良いのが見てとれた。
対してサイラスはアンセルと同じ髪色と瞳であっても全体的に優しげな雰囲気をまとっており、どこかしらおっとりとしていた。
サイラスがクロエと同じ年ということもあり、また、どちらかというと大人しい気質のクロエと気が合ったのか、気づけば二人で図鑑を片手に花を見て回るくらいには仲良くなっていた。
辺境伯領には王都には生息していない植物や花もあり、クロエとサイラスは大人の目の届く範囲で図鑑と見比べながら花々を楽しんだ。
二人の出会いは、そんな和やかな雰囲気で終わるはずだったのだ。
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