第7話 四階へ
四階に入ったのは、現場作業の五日目だった。
宮内が初日に避けた階。「ここは後でいい」と言って通り過ぎた階。いつまでも後回しにはできない。全フロアの現況調査を終えなければ、リノベーションの基本設計に入れない。スケジュールは決まっている。
理帆は防火扉を開けた。宮内が握りしめていた、あの扉だ。金属の取っ手は乾いていて、何の感触もなかった。汗の痕などとうに消えている。
廊下に出た。四階の構造は他の階とほぼ同じだった。中央に廊下が走り、左右に部屋が並ぶ。壁はコンクリートの打ちっぱなし。床はリノリウム。蛍光灯は一本おきに点灯していて、明るい場所と薄暗い場所が交互に続いていた。他の階と違う点がひとつあった。静かだった。五階では空調のダクトがかすかに鳴っていた。
六階では配管を流れる水の音がした。七階では窓枠の隙間から風が入り、細い笛のような音を立てていた。四階にはそのどれもなかった。自分の足音と、呼吸と、それ以外の音がない。匂いも違った。他の階ではコンクリートと埃の匂いが空間を満たしていた。四階はそれすらなかった。無臭だった。ビルの中で、ここだけ匂いが欠落している。鼻の奥が妙にすっきりとしていた。他の階にいるときのほうが、嗅覚がうまく働いていなかった気がする。ここでは匂いがないぶん、空気が澄んでいるように感じた。
廊下の奥に、部屋があった。
他の部屋と同じドアだ。スチール製の片開き。ドアノブは丸型。番号プレートには「404」とある。何も特別なことはない。ドアを開けた。
冷たかった。
六月の気温を忘れるような冷気が、部屋の中から流れ出してきた。廊下との温度差は明らかだった。理帆の腕に鳥肌が立った。吐く息が白くなるほどではない。けれど首筋から背中にかけて、冷たい膜が貼りつくような感覚があった。冷気の中に、かすかに甘い匂いがあった。廊下では無臭だった空気が、この部屋に入った途端に匂いを取り戻す。甘いというより、重い。花が枯れかけているときの匂いに似ていた。
部屋は八畳ほどだった。窓がひとつ。スチールデスクと椅子が残されている。壁のコンクリートに目立った損傷はない。天井の蛍光灯は生きていて、白い光が部屋を満たしていた。
何もおかしくない。ただ、寒い。
理帆はクリップボードを胸の前に抱えた。体温を逃がさないようにする無意識の動作だった。温度計を持ってくればよかったと思った。体感では廊下より五度は低い。空調が切れている建物で、特定の一室だけがこれほど冷えている理由が分からない。北向きの部屋ではある。窓の外は隣のビルの壁で、直射日光は入らない。けれど他の階の北向きの部屋は、ここまで冷えてはいなかった。
壁が厚いのかもしれない。理帆は図面を思い出そうとした。四階の図面で、404号室の壁厚は——記憶が曖昧だった。他の部屋と同じはずだ。けれど確認したい。この壁がなぜこれほど冷たいのか、図面を見れば何か分かるかもしれない。
部屋の中央に立ったとき、頭が痛んだ。
こめかみの奥を、細い針で押されるような痛み。鋭いが、すぐに引いた。代わりに、胸の奥に圧迫感が残った。三半規管が微かに揺れている。真っ直ぐ立っているはずなのに、体が右に傾いている気がした。床が傾斜しているのか。足元を見た。リノリウムの表面にゴミがあれば転がる方向で傾斜が分かる。何もなかった。この部屋にいてはいけない。そう思った。理由はなかった。根拠もなかった。ただ体のどこかが、ここは自分のいる場所ではないと訴えていた。
幼い頃にマンションの廊下で感じた、あの感覚に似ていた。壁の向こうに何かがいるという、理由のない確信。理帆はチェックシートに「404号室 室温異常(低温) 原因不明 要調査」と書いた。文字が小さく震えていた。ペンを持つ指先が冷えているせいだと思った。壁に触れてみた。コンクリートの表面が、指先の体温を吸い取るように冷たい。他の階の壁とは質が違う冷たさだった。ビルの外壁に触れたような——いや、それよりもっと深い冷たさ。壁の奥に氷の塊でもあるかのような。左手で触れた。ずっと冷たかった左手の指先が、壁に触れた瞬間——温かく感じた。
壁のほうが冷たいのではない。壁と左手が同じ温度になっているのだ。右手で同じ場所に触れてみた。凍りつくように冷たい。左手と右手で、壁の温度が違って感じられる。理帆は左手を見つめた。初日に手すりを握ってから冷たいままだった左手。この手だけが、壁の温度に馴染んでいる。——末端冷え性だ。冷えた指先が、冷たいものに触れると温度差を感じにくくなる。それだけのことだ。
ふと気づいた。この部屋に入ってから、外の音が何も聞こえない。廊下を歩いているときは、階段室からの反響や、どこかの階の作業音がかすかに届いていた。この部屋では、それが消えている。自分の呼吸と心臓の音しかない。壁が厚いのだろうか。図面を確認する必要がある。
部屋を出るとき、足元の影が目に入った。
蛍光灯は天井の中央にある。理帆は部屋の中央に立っている。影は足元から四方に短く広がるはずだった。影は、壁に向かって伸びていた。左側の壁——この部屋で最も厚い壁に向かって、影だけが不自然に長く伸びている。
照明の角度のせいだ。蛍光灯の位置が中央からずれているのかもしれない。天井を見上げた。蛍光灯はほぼ中央にあった。ほぼ。完全な中央ではないかもしれない。数センチのずれがあれば、影の方向は変わる。
理帆はドアを閉めた。廊下に出ると、六月の湿気が肌に戻ってきた。温かかった。廊下の空気がこれほど温かく感じられたのは初めてだった。そして——匂い。コンクリートと埃の匂いが、廊下に充満していた。404号室の無臭の空間にいたせいで、鼻が敏感になっている。
理帆は一度だけ振り返った。404号室のドア。閉じた金属の扉。番号プレートの「404」が、蛍光灯の光を受けて鈍く光っていた。存在しているのに、そこにあるものにアクセスできない。
404号室は——見つからない部屋だ。




