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第8話 見たんです

翌週、作業員が一人辞めた。


鳥山ではなかった。もう一人の若い作業員——名前は長谷川といった。二十代後半の内装工で、寡黙だが手の早い男だった。打ち合わせで足音の話が出たとき、腕を組んで黙っていた方だ。壁紙の剝がし方が丁寧で、理帆は密かに信頼していた。


月曜の朝、長谷川は現場に来なかった。宮内の携帯に連絡があったらしい。宮内は電話を切ったあと、窓の外を見たまましばらく黙っていた。右手が無意識にこめかみを押さえている。頭痛だろうか。最近、宮内がこめかみを押さえる仕草を見る回数が増えていた。


理帆も同じ場所が痛む。404号室に入ってから、こめかみの奥に鈍い圧迫感が残っている。ビルにいるときだけではない。自宅にいても、通勤電車の中でも、ふとした瞬間にこめかみを押さえている自分に気づく。それから理帆と小峰に言った。


「長谷川が降りた。今日から来ない」


「え、マジですか。なんでですか」小峰が聞いた。


「体調不良だって」


宮内の声は平坦だった。それ以上の説明をする気がないことが、声の調子から分かった。小峰は「人手足りなくなりますね」と言って、それ以上は追わなかった。


昼休み、小峰がコンビニのおにぎりを食べながら言った。五階の旧事務室の窓辺に腰を下ろし、足をぶらぶらさせている。


「長谷川さん、金曜の夕方に俺に言ってたんですよ。『四階で何か見た』って」


「何か?」


「それ以上は言わなかったです。顔が真っ青で、手も震えてて。タバコ吸おうとしてたんですけど、ライターがつけられないくらい。俺、冗談かと思ったんですけど——あの顔は冗談じゃなかった」


小峰はおにぎりの海苔を指で剝がしながら、窓の外を見た。曇り空。いつもの曇り空。


「久住さんは四階入りました?」


「入った」


「なんかありました?」


理帆は一瞬迷った。冷気のこと、頭痛のこと、影のこと。左手の温度が壁と同じになっていたこと。言おうと思えば言える。けれどそれを口にしたとき、小峰がどんな顔をするか分からなかった。長谷川のように辞められたら困る。人手はもう足りていない。


「寒かった。断熱が悪いんだと思う」


小峰は「やっぱこのビルやばいっすね」と笑って、おにぎりの残りを口に放り込んだ。


理帆は自分の手を見た。左手。五日前に手すりを握ってから冷たいままの指先。金曜日に404号室の壁に触れた左手。壁と同じ温度になっていた手。右手と同じおにぎりを食べたのに、左手だけが冷たい。——冷え性だ。そう思うことにした。


長谷川はあの日、同じ階で何を見たのか。聞きたいと思った。同時に、聞きたくないと思った。この二つの感情がいつも同時に来る。天秤の両側に同じ重さの錘が載っていて、いつも釣り合ったまま動かない。理帆はそのことに、少しだけ疲れ始めていた。


宮内が午後、ビルの管理会社から入居履歴を取り寄せた。


過去十年のデータだった。理帆は事務所でそのコピーを読んだ。テナントの入退去の一覧。入居から退去までの期間。退去理由。三年前、七階の入居企業の社員が屋上から飛び降りた。五年前、四階の入居企業で社員が急性心不全。それ以外にも短期退去が多い。


一年未満の退去が全体の六割を超えていた。退去理由の欄には「業績不振」「オフィス移転」といった当たり障りのない言葉が並んでいるが、六割という数字は異常だった。普通のオフィスビルなら、一年未満の退去率は二割もいかない。六割は明らかにおかしい。けれどそのおかしさを指摘した記録は、どこにもなかった。管理会社も、オーナーも、この数字を問題にしなかったのだろうか。あるいは——見なかったことにしたのだろうか。


このビルに入った人たちは、何に追い出されたのだろう。


理帆はコピーをファイルに綴じた。飛び降りた社員のことを考えた。屋上のフェンスは基準を満たしていた。あのフェンスを越えるには、自分の意志で乗り越えなければならない。その人は何を考えていたのか。何に追い詰められていたのか。この建物を再生することが自分の仕事だ。過去に何があったとしても、これからは人が安心して過ごせる場所にする。梶原の言葉を思い出した。


「事故物件という名前の下にある本来の姿を掘り出す」。


そうだ。それが理帆のやるべきことだ。


けれど404号室の冷気が、まだ左手の指先に残っていた。

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