表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/49

第22話 過去の物件

きっかけは、梶原の本棚だった。


木曜日の夕方、梶原が外出中に事務所の個室に入った。提案書に添付する参考資料を探すためだった。ガラスの仕切りを開け、梶原のデスクの脇を通った。デスクの上はいつも通り整頓されている。ペン立て、モニター、キーボード。壁の竣工写真が、ガラス越しに入る西日を浴びて光っていた。


本棚の下段に、過去の物件ファイルが並んでいる。竣工写真と設計概要をまとめたポートフォリオ。梶原設計がこれまでに手がけた事故物件リノベーションの記録だった。背表紙に物件名と年度が記されている。


理帆はファイルを一冊引き抜いた。三年前の物件。世田谷区のマンション。築二十八年、五階建て。飛び降り事故と入居者の自殺があった物件を、梶原がリノベーションしたケースだ。竣工写真には明るいエントランスが映っている。白い壁、大きな窓、観葉植物。理帆がこの事務所を選んだ理由のひとつになった写真だ。


設計概要のページを開いた。平面図が載っている。理帆の指が止まった。


東側に、壁が厚い箇所がある。三百ミリ。構造壁ではない。配管シャフトでもない。


……同じだ。


もう一冊引き抜いた。五年前の物件。中央区のオフィスビル。築三十五年。入居者の急死と短期退去が相次いだ物件。平面図を開いた。三百ミリの壁。同じ位置ではないが、建物の中心付近に、同じ厚さの壁がある。


理帆の手が震え始めた。次のファイル。七年前のテナントビル。壁がある。次。十年前の集合住宅。ある。棚にあるファイルを片端から開いていった。全部で八件。梶原設計が手がけた過去の全物件。


八件すべてに、同じ構造があった。


三百ミリの壁。構造上の理由がない。図面上、内部は空白。建物を縦に貫く位置に配置されている。それだけではなかった。理帆は各物件の平面図を並べ、細部を比較していった。


天井高が周囲より低い部屋。廊下幅が奥に向かって数ミリずつ狭まる配置。特定の部屋に日光が入らない窓のずれ。八件すべてに、程度の差はあれ、同じ特徴が見られた。……全部同じだ。全部、同じパターンだ。


偶然ではない。一件なら設計上の判断だと思える。二件なら偶然かもしれない。けれど八件すべてとなれば、それは一人の建築家の、一貫した設計思想としか呼びようがない。


理帆はファイルを本棚に戻した。指先が冷えていた。七月の夕方、冷房の効いた事務所の中で、指先だけがあのビルの壁に触れたときと同じ冷たさになっていた。右手だけだった。左手は温かいままだった。壁に馴染んだ左手だけが、もうその冷たさに反応しなくなっている。……梶原さんは、わざとやっている。


「設計の呼吸」。建物に息をする場所が必要だと言った。設計者の祈りだと言った。美しい言葉だった。理帆はそれを信じたかった。信じていた。けれどそれが八件すべてに共通するとき、祈りという言葉は使えない。


これは製品だ。梶原が事故物件に施す、標準仕様の設計。インフラサウンドを発生させる空洞の壁。人を特定の部屋に誘導する動線。天井を低くして圧迫感を与える空間。梶原はそれを知った上で——知っているからこそ——すべての物件に組み込んでいる。


理帆は個室を出た。ガラスの仕切りを閉め、自分のデスクに戻った。椅子に座ったが、モニターの電源を入れる気になれなかった。壁に掛かった時計が六時を指している。残業で遅くなっただけだ。誰もいない事務所に、時計の秒針の音だけが響いている。


梶原の個室のガラス越しに、竣工写真が見えた。白い壁、大きな窓、観葉植物。あの写真に映っている建物の壁の中にも、三百ミリの空洞がある。明るい窓の向こうで、聞こえない音が鳴っている。入居者の体に、理帆と同じ影響を与えている。……あの写真は嘘だ。あの光も、あの明るさも、壁の中にあるものを隠すための装飾だ。


理帆は自分の手を見た。この手で八件のファイルを開いた。この手で壁の脈動を感じた。この手が知っていることを、どうすればいい。梶原に問い詰めるか。証拠を集めて突きつけるか。それとも——見なかったことにするか。


ゼネコンを辞めてこの事務所に来たのは、梶原を信じたからだ。「この窓の配置、面白いわね」と言われた日から、理帆は梶原のもとで建築をやっていくと決めた。その決断の土台が、今、崩れようとしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ