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第12話 二つの声

六月の最後の金曜日だった。


夕方六時、宮内と小峰が先に帰った。鳥山も作業を終えて引き上げた。梶原は今日一日現場に来ていない。理帆は四階の実測データを整理するために、一人でビルに残った。


五階の旧事務室にノートパソコンを広げ、数値を入力していた。窓の外は曇天の夕暮れで、灰色から暗灰色へとゆっくりと色を変えている。蛍光灯の光だけが白い四角形を机の上に落としていた。


七時を過ぎた頃、ビルが静かになった。


それまでも静かだった。けれど七時を境に、質が変わった。外の車の音が遠のき、蛍光灯のハム音が薄れ、自分のキーボードを叩く音だけが残った。やがてその音も、壁に吸い込まれるように減衰していった。理帆は手を止めた。


静かすぎる。ビルの中にいるというより、ビルの中の別の場所にいるような感覚だった。空間が二重になっている。五階の旧事務室は変わらずここにあるのに、その外側の世界が一枚の膜で遮断されている。エアコンは動いていない。窓は閉まっている。それでも空気が動いている気がした。


ごくかすかに、壁の方向に引かれるように。匂いが変わった。コンクリートと埃の匂いが薄れ、代わりにあの匂いが立ち上ってきた。404号室の匂い。甘くて重い匂い。五階にいるのに、一つ下の階の匂いが壁を通り抜けて上がってくるかのように。鼻の奥が痺れるような感覚。不快ではなかった。むしろ——心地よかった。匂いに包まれていると、緊張が解ける。体が弛む。


ここにいていいのだと、匂いが言っている。帰ろうか、と思った。データの整理は明日でもいい。一人でこのビルにいる理由はない。けれど体が椅子から離れなかった。離れたくないのではない。離れる判断を下す自分が、どこかに行ってしまっている。ここにいる自分と、判断する自分のあいだに隙間がある。


理帆はパソコンの画面に目を戻した。集中しろ。数字を入力するだけだ。404号室の壁厚。天井高。廊下幅。数字は嘘をつかない。


そのとき、声が聞こえた。


声、と呼んでいいのか分からなかった。音ではなかった。空調が止まった建物の中に、空気の流れとは別の何かがあった。耳で聞いたのではなく、胸の内側で受け取った振動のようなもの。


来て。


そう言っていた。言葉として認識したのではなく、体が「来て」と翻訳した。下の階から——四階の方向から、理帆を呼んでいる何かがあった。椅子から立ち上がれば、廊下に出れば、階段を降りれば、あの冷たい部屋のドアの前に立てる。体が動きかけた。左手が机の端を掴んだ。冷たい左手が。壁と同じ温度の左手が、まるで下の階に向かおうとするように。足が床を蹴ろうとした。その瞬間——


行ってはいけない。


もうひとつの声だった。最初の声とは質が違う。最初の声が水底から浮かぶ泡のように柔らかかったとすれば、二つ目の声は壁を叩く拳のように硬い。同じ方向——四階の方向から来ていた。同じ場所から、正反対のことを言っている。


理帆は椅子に座ったまま動けなかった。来てと行くなが同時に鳴っている。どちらも理帆の体を揺さぶっている。足は四階に向かおうとし、背中は椅子に押しつけられている。


蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。


その瞬間に声は消えた。二つとも。蛍光灯は何事もなかったように白い光を落としている。パソコンの画面にはカーソルが点滅していた。外の車の音が戻ってきた。遠くでサイレンが鳴っている。匂いも消えていた。コンクリートと埃の匂いだけが、部屋に漂っている。


理帆は自分の手を見た。震えていた。キーボードの上に置いた両手が、細かく震えていた。左手のほうが震えが大きかった。深呼吸をした。一度、二度。三度目で息が安定した。


パソコンを閉じた。荷物をまとめた。蛍光灯を消し、廊下に出た。階段を降りるとき、四階の防火扉の前を通った。足を止めなかった。足を止めたい衝動があったことは、認めなかった。防火扉の隙間から、かすかに冷たい空気が漏れていた。あの匂いが、一筋だけ、鼻の奥をかすめた。


エントランスを出ると、六月の夜の空気が肌を包んだ。湿度が高い。生暖かい。街の音が耳に溢れた。車のエンジン音、居酒屋の換気扇、どこかで笑う人の声。ビルを振り返った。八階建ての灰色の箱が、夜空を背に立っている。窓はすべて暗い。当然だ。誰もいないのだから。


四階の窓だけが——ほんの一瞬だけ、灯りが揺れた気がした。理帆はまばたきをした。窓は暗かった。


歩き出した。駅に向かって。背中にビルの視線を感じながら。振り返らなかった。振り返ることは、ずっと昔に、許されなくなっていた。

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