第11話 お祓い
宮内の様子がおかしくなったのは、その週だった。
以前から隈が濃くなり、剃り残しが増え、缶コーヒーがブラックに変わっていた。けれどそれは疲労の範囲だった。仕事は正確にこなしていたし、現場の指示にも乱れはなかった。宮内という人間の堅実さが、体調の悪化を覆い隠していた。
理帆は宮内を尊敬していた。派手さはないが、現場で起きる問題を一つずつ、手順通りに解決していく人だった。感情で判断しない。事実を見て、必要な対処を選ぶ。理帆が目指す建築士の像に、最も近い人だった。変わったのは、木曜日からだった。
午前中、宮内が四階で作業をしていた。404号室の隣室の壁を実測している最中に、急に道具を置いて階段を降りてきた。巻き尺をケースに戻さず、伸ばしたまま床に残してきていた。宮内がそんなことをするのは初めてだった。五階の旧事務室に入り、窓際に立って外を見ていた。理帆が声をかけると、こちらを向いた。目が赤かった。
「宮内さん、大丈夫ですか」
「ああ。大丈夫だ」
大丈夫ではないことは明白だった。けれど宮内はそう言い、理帆もそれ以上は聞かなかった。踏み込むべきだったのかもしれない。けれど宮内の「大丈夫だ」には、踏み込むなという意思が含まれていた。理帆はその意思を尊重した。尊重したのか、それとも自分が楽な方を選んだのか、正直に言えば分からなかった。
宮内の目に浮かんでいた色を、理帆は知っていた。恐怖ではなかった。疲弊だった。怖いものを見続けた人間の、抵抗する力が尽きかけている目だった。
金曜日の昼、小峰が理帆に耳打ちした。
「宮内さん、お祓い行ってるらしいですよ」
「お祓い?」
「鳥山さんが言ってました。週末ごとに神社に通ってるって。最近は平日の朝にも行ってるらしくて。出勤前に」
理帆は宮内を見た。デスクに向かってCADを操作している。背筋はまっすぐだったが、ときおりこめかみを押さえる仕草をしていた。理帆と同じ仕草だった。モニターの光が宮内の顔を白く照らしている。頬がこけていた。一週間前はここまでではなかった。頬骨の下に影が落ちている。
お祓い。あの堅実な宮内が、神社に通っている。合理的な判断を信条とする人間が、目に見えないものに助けを求めている。それは理帆にとって、どんな怪奇現象よりも衝撃的だった。
宮内は何を見たのだろう。四階で、何を感じたのだろう。理帆が404号室で感じた冷気と頭痛。壁に触れたときの左手の温度。宮内はそれをもっと前から、もっと長く、もっと深く受けてきたのではないか。五年間。宮内は五年間、この事務所で事故物件と向き合ってきた。理帆はまだ二年目だ。
その日の夕方、宮内が理帆のデスクに来た。監視カメラの映像の件を報告していた。管理会社は「施錠に問題はなかった」と回答してきている。不法侵入の痕跡もない。宮内はその報告書に目を通し、理帆に返した。
「管理会社の言う通りだろう。カメラの故障かノイズだ」
そう言って立ち去ろうとした宮内の手が、理帆のデスクの端で止まった。モニターの横に、理帆が撮った写真のプリントが置いてあった。404号室の壁の写真。温度確認のために撮ったものだ。宮内はその写真を数秒間見つめた。表情は変わらなかった。けれど喉仏が一度、大きく動いた。
「久住」
名字を呼び捨てにされたのは初めてだった。宮内はいつも「久住さん」と呼ぶ。声のトーンが違った。先輩から後輩へではなく、もっと切迫した、対等な場所からの声だった。
「あまり深入りするな」
それだけ言って、自分のデスクに戻った。理帆は写真を見た。404号室の壁。コンクリートの灰色。クラックの線。窓からの光。何も特別なものは映っていない。宮内が何に反応したのか、分からなかった。分からないふりをした、のかもしれなかった。
宮内の「深入りするな」が、理帆の中で反響していた。深入り。理帆はまだ何にも深入りしていない。足音を聞いた。冷たい部屋に入った。監視カメラの映像を見た。ただそれだけだ。深入りというには浅すぎる。けれど宮内は、その浅さの先にあるものを知っている。浅瀬から一歩踏み出せば急に深くなる、そういう場所があることを知っている。だから止めようとしている。




