第9話 再生する意味
梶原に報告したのは、その週の金曜だった。
事務所の梶原の個室。ガラスの仕切り越しに見えていた空間に、初めて入った。デスクの上は整頓されていた。モニター、キーボード、ペン立て。壁に額装された建築写真が三枚。すべて梶原が手がけた物件の竣工写真だった。どの写真にも、光が溢れていた。大きな窓から陽光が差し込み、白い壁に影を落としている。かつて事故物件だったとは思えない明るさだった。
理帆はその写真を見るたびに、梶原のもとで働いていることの意味を確認した。こういう空間を作れる人のもとにいるのだと。
「四階の404号室、室温の異常があります。空調業者に見てもらいましたが原因不明でした」
理帆は報告書を手渡した。404号室の温度記録、入居履歴のデータ、長谷川の離脱。事実だけを並べた。
梶原は報告書に目を通した。眼鏡の奥の目が、一行ずつ文字を追っている。ページをめくる指先は落ち着いていた。
「作業員が一人降りたのは痛いわね。補充を手配しましょう」
事実に対する事実の対応だった。感情的な反応はない。それが梶原の仕事のやり方だった。理帆は安心した。この人は動じない。どんな状況でも、合理的に問題を処理していく。
「入居履歴の退去率が高いのは、立地と築年数を考えれば珍しくない数字よ。飛び降りと心不全は不幸な事故だけれど、それ自体はビルの問題ではなく個人の問題」
梶原は報告書をデスクに置いた。
「古いビルにはよくあることよ。配管の劣化、断熱の不備、換気の悪さ。そういう物理的な要因が人の体調に影響する。だからこそ私たちが再生する意味がある」
その言葉は、理帆が自分に言い聞かせてきたことと同じだった。同じ言葉を、もっと確信を持った声で言ってくれる人がいる。それだけで理帆の不安は形を失った。四階の冷気も、長谷川の青い顔も、六割の退去率も——すべて物理的な原因があり、自分たちの仕事で解決できる問題なのだ。
「404号室は優先的に調査しましょう。壁の断熱、配管の状態、換気経路。原因が分かれば対処できる」
梶原は立ち上がり、窓際に歩いた。外は夕暮れだった。西日がガラスを通して梶原の横顔を照らしていた。
「久住さん」
梶原が振り返った。
「あなたは空間の変化に敏感ね。404号室の異常に最初に気づいたのはあなただった。それは設計者として大切な資質よ」
理帆の胸が温かくなった。認めてもらえた、と思った。ゼネコン時代には一度も得られなかったもの。自分の感覚が正しいのだと、この人が言ってくれている。
「ありがとうございます」
帰り道、理帆は梶原の言葉を反芻していた。大切な資質。空間の変化に敏感。その言葉が胸の中で小さく光っていた。駅のホームで電車を待ちながら、理帆は404号室のことを考えた。冷気。頭痛。影の方向。壁に触れたときの左手の感覚。その部屋にいたとき感じた「いてはいけない」という衝動。梶原は「物理的な原因がある」と言った。理帆もそう思いたかった。
思いたかった、という言い方が正確だと、理帆は気づいていた。「そう思う」ではなく「そう思いたい」。その差に気づいていながら、差を見ないふりをした。
電車が来た。理帆は乗り込んだ。吊り革を掴み、窓の外を見た。夕暮れのビル群が流れていく。どのビルも灯りが点いている。どのビルにも人がいる。あのビルにも、かつて人がいた。廊下を歩き、デスクに向かい、会議をし、帰っていった人たちがいた。
その人たちの何人かは、途中でいなくなった。吊り革を握る左手が冷たかった。ずっと冷たいままの左手。指先に、404号室の壁の温度が染みついている。あの壁に触れたとき、壁と同じ温度だった指先。理帆は右手で吊り革を握り直した。
今日のことは、考えないでおこう。週末だ。明日は拓海と会う約束がある。日常に戻ればいい。月曜になれば、また建物と向き合えばいい。梶原が「原因が分かれば対処できる」と言った。そうだ。原因が分かれば。
分からなかったら。
その先を、理帆は考えなかった。




