第37話
「あなた、見苦しいことになっていますわよ」
お母さまが刺繍の入ったハンカチでその涙を拭う。ずぴっと鼻をすすったお父さまに向けて、私は苦笑しながらこう返した。
「心配しないで、私は自分にできることを精いっぱいやるだけだから」
「そうよ、たとえ致命傷を負ってもわたしが蘇生してみせるからっ」
「心強い……」
隣に座ったお姉さまにギューッと抱きしめられる。怒ったように頬を膨らませた彼女はどこか拗ねたようにこう続けた。
「それにしても、どうしてあの氷には聖女の力が効かないのかしら。魔術の力とも違うような、少し異質な物を感じるのよ」
「……」
そう、実は助けに駆け付けてくれたあの夜明けの日、私はお姉さまに頼んで『聖女の結界』を張りながら首都の中に突入できないかとやってみたのだ。結果は――失敗。一歩足を踏み入れたところで結界が溶けるように消えてしまい、慌てて引き返したのである。
「肝心なところでいつも役に立てないわ……」
「落ち込まないで、お姉さまの力はどちらかと言うと『護る』ための力だもの」
慰めるように肩を叩くと、うる~っと涙を溜めた彼女はガバァと抱き着いてきた。
「あぁもう! 本当に気を付けてねプリシラ、いざとなったらあの皇子を盾にするのよっ」
「あはは……それこそ国際問題」
ここでお母さまと目が合う。立ち上がった彼女はこちらに寄ってくるとセシルお姉さまもろとも私たちを抱きしめてくれた。
「わたくしの可愛い娘たち、母はあなた達が笑って日々を過ごせることだけを願っているの。二人ともどうか、無茶はしないでね……」
「お母さま……」
思わずジンとしていると、一人そわそわしていたお父さまが腰を浮かせながら羨ましそうに申し出た。
「い、いいなぁ、ワシも」
お母さま以外血の繋がりはないけれど、オルコット家全員に抱きしめられて私は心が温まるのを感じていた。
悪役に転生したことに気づいた時はどうなることかと思ったけど、破滅の未来は変えられる。この温かさがそれを証明している。
「……」
だからこそ私は『ある仮説』に気づいてしまった。もう逃れられないのだと、どこかで覚悟を決める。その事を、愛する家族にもその事を打ち明けられないのがつらかった。
(この悩みは誰にも打ち明けられない。たった独りで抱えていくしか無いんだ)
だってその秘密を明かしたら、その人の存在意義を根底からひっくり返してしまう。
途方もなく重い。押しつぶされそうなプレッシャーが張りつめているみたいで、私は粟立つ腕をこっそりとさすったのだった。
***
そこからさらに2週間、いよいよ突撃を明日に控えるとなった決行前夜。私は調整が終わったホウキのテスト飛行を終えて、ふわりと城の中庭に着地した。季節の花が咲き乱れる中、待ち構えていたアルヴィスがホウキを受け取って、掛けられた魔術の反応を見る。
「――うん、いい感じだな。特にエラーが起きた形跡もない、反応速度はどうだ?」
「すごいです、操作っていうより私の意思に反応して動いてるみたいで」
この分なら、明日どれだけ氷の蔦が襲いかかってきても避けられる気がする。私は0→1を思いつくのが得意だけど、先輩たちはその1を10にも100にもできるのが本当にすごい。
こんな状況でも所長として貪欲なのか、アルヴィスは軽く笑いながらこう言った。
「今回のことはアイツらにとってもいい経験になってるな、まぁコレに乗れるのが数えるほどしか居ないから売り出して大儲けってわけにもいかないが」
「……」
いつもなら呆れてみせたり、便乗してアイディアを出したりするのだけど、どうにも上手く返せない。ギュッと服の裾を握っていると怪訝そうな顔をされてしまった。
「どうした、ここ最近元気が無いな。緊張しているのか?」
「いえ……そ、その……。大丈夫です。明日は任せて下さい!」
無理に笑顔を作って気合を入れる。だけど紫の瞳にジッと見つめられ、私は何も言えずに視線を逸らしてしまった。
(悟らせるな、話したところでどうにもならない、これは私だけが知っていればいい話……)
戒めのように心の内で繰り返す。ええと、これまでの『プリシラ』はどういうキャラだっけ? そうだよ、明るくて前向きで、何事も畏れ知らずに進んでいたはず……。取り繕うように口の端を上げる。
「そう……ちょっとだけ不安、みたいですね。でも平気です、みんなの力を合わせればきっと全部が上手くいく――」
その瞬間、ザァと強い風が吹きつける。それが何かの“意思”のようで、私はヒュッと息を呑み込んでしまった。
「「……」」
言葉では言い表せない不安に、全身がこわばるのを感じる。
風が収まったとき、先に口を開いたのは向こうだった。
「なぁ、突入前に一つ、俺が立てた仮説を聞いてくれないか」
「え、」
「いや、与太話の類だと思ってくれて構わないんだが」
思わず視線を上げると、彼は少しだけ戸惑いの色を浮かべていた。ためらいを振り払う様に口を引き結ぶと、まっすぐにこちらを見据えてこう切り出す。
「……ずっと考えていたんだ。お前の周りだけ、異様なほど世界が“動く”。俺が長年抱えていた葛藤も、貴族と平民間の差も、ここ数か月で急速に展開している。なぜだと思う」
「それ、は」
まさに今、私が抱えている感情に触れる質問だった。小さく継がれた次の言葉に、大きく目を見開いてしまう。
「隣国から絶妙のタイミングで助けが来たことでそれをより一層感じた。プリシラはまるで――、」
――物語の主人公みたいだって。