新しい日
一
南条が顔の包帯を取っているところ。わたしはベッドに腰掛けて背筋を伸ばしている。今のミイラ状態からようやく解放されることはよしとして、現れる顔は美顔なのかと不安だった。
「もうすぐ取れますからね」
七三分けがいつも決まる南条はか細い声で言った。抜糸は一昨日にした。だが消毒後には再度包帯を巻かれた。
包帯を取ると看護婦に渡し、わたしの顔のパーツをジッと見つめた。違和感のある目や突っ張る鼻、左右あごの辺りを凝視している。エラ骨を削ったため、まだあごに多少の痛みが残る。
包帯が取れたので、わたしの視界が久しぶりに広がった。目線を南条から外し病室のクローゼット、窓の外に見えるビル、個室トイレなどに目を動かした。
手術をして二週間の入院生活だったが、目口鼻のところは包帯をかぶらず生活はできた。ただミイラ姿なので外出はできず、必要な物を母か妹に買ってきてもらった。
「どうですか?」
わたしは成功したのか、失敗なのかと疑問になった。すると南条は付き添いの看護婦とにっこりした。
「水木さん、大成功ですよ」
南条は、目口を緩めて満面の笑みを見せた。
「ほんと、水木さんはきれいになったわよ」
横の看護婦も笑みを崩さなかった。そして手鏡をもらった。
本当だろうか? 今までの醜い顔が変わっていればそれで満足。
輪郭は油揚げのような長方形で四角四面だった。一重で細長い目は起きているのかと何度も言われた。小口はいいとして、低い鼻の穴は大きかった。
幼稚園から小学二年まではまだよく、異変が起きたのは三年生からだった。
理科の授業中、魚の絵が出て〈エイ〉の裏の顔を男子が『これ、水木に似るな』と一言。それからというものの、わたしのあだ名は〈エイ〉となった。初めて顔のことを言われショックだった。
『おまえ、あつこじゃなく、エイコにしろ』と男子は平気で言って来た。そのころ勉強はまったくできず、体育の授業も足はのろかったことへ拍車を掛け、『のろまのエイ』などとバカにされた。せめてそこで運動でもできれば、そんなあだ名はつかなかったと思う。
水木は魚だからプールくらい泳げるだろう、と言われたときは初日の水泳をかぜと偽り休んだ。でもプールは週に何度もあり、結局まったく泳げないことがばれてよけいバカにされた。仲よしの友だちも段々と離れてしまった。
頭、顔がわるく、運動音痴など嫌われる三要素とそのとき気づい
た。その後の日々は性格も黙り込むように暗くなり、クラスで村八分状態が高校中退まで続いた。
わたしは恐る恐る手鏡を引き寄せた。まず引きつる目を見ると信
じられないほどに変わっている。アーモンド大とでも言うのか、二重で大きくなっていて、モデルか女優の目を思わせた。
「えーっ、これが?」
「そうですよ、水木さんですよ」
南条は中腰になり同じ目線で答えている。
鼻の穴も小さくなり、団子鼻が高く伸びていて、四角い輪郭だったエラもしまっている。まるで別人だ。
なぜこれほどまでにかわってしまうのか、わたしは南条へ顔を向けるとにんまりとしてしまった。
「どうしたのよ、水木さんは別人のようになったのよ。もっと喜んでもいいのよ」
もともと性格が黙り込むので、うれしくても騒げなかった。信じられない。この手鏡は細工がしてあり、わたしを魔法にでも掛けたのか。あの顔がこの顔に変わるとは夢でも見ているようだ。
「ほんとにわたし水木温子ですか?」
毎日薬を三回飲むのだが、その中には幻覚や覚醒する薬でも入っているのではないのか。
「なにを言っているんです、何度見ても水木さんですよ」
南条は、カウンセリングのときから穏やかに話す人で、わたしの醜い顔を見ても動じない人だった。商売がらお客には不快を与えないことはわかるが、看護婦にも対してなにひとつ言動を変えない先生で好感はあった。
学生時代は実家の大森から川崎まで通学していた。満員電車で痴漢に遭えば、わたしの顔を見ると舌打ちするサラリーマンもいた。こっちは被害者なのに舌打ちには涙が出た。
この顔がわるいと毎日暗く考え、道を歩けばいつもうつむいていて、男性恐怖症にもなれば、二人以上で歩く女性からも、陰口を言われていると、被害妄想も抱くようになった。それで、仕事や外出のときは、帽子とサングラスは欠かせなくなった。
「そうですよね、ごめんなさい。あまりの驚きに疑ってしまい」
「みなさん包帯外すと信じないのよ。疑います。それだけ先生の腕がいいのかもしれないわね」
二十代後半だろうか、美人な看護婦は笑顔を絶やさず話していた。
何度見ても水木温子とは思えない。鏡を見ていると自然に笑みが出る。人間は正直なのだろう。二週間前まで、鏡を見るたび不快な表情になる。でも今の顔を見れば自然と笑みが出た。
美人は得ということだ。過去、何人ものかわいらしい女子は男子がまわりにうろうろとしていた。アドレスの交換を何度と見て羨ましくも感じた。
わたしのまわりは女子でさえ寄り付かない。黙りと暗い性格がわるいのだけど、絶えられなくなり、親と相談し高校を二年で辞めた。
親が高校だけはどうしても出て欲しいということで、辞める条件で通信高校へ編入学した。
「はい、わたしも腕のいい先生に知り合いよかったです。この顔なら堂々と町を歩けます」
「では、治療室に来てください。術後の注意点を話しますので……」
わたしはうなずくと身の回りを片づけ出した。
八月初旬から二週間いたが病室とは思えない快適な部屋だった。
ホテルとは行かないが、温度調整も行き届き、自分の部屋より数倍もよかった。
もともとひとりで過ごす時間が多く、読書好きとなった。ここへ入院しても本を読みあさるので暇は持て余さない。もっぱら図書館を気に入り、休日はそこへ通い一日いた。
通信高校は初めから入っていればよかった。自宅での勉強が主で、月二回学校へスクーリング授業を受ければいいから。学校自体わたしに合っていて、同じような引っ込み思案の子が多く、話しも合い友人もできた。卒業するときは悲しい思いになり、友人と別れるのがつらくまだいたかった。
通信高校は都内の代々木上原だったが、遠くは茨城や栃木、福島や群馬から通ってくる者もいて、これには驚き、大森に住むわたしは脱帽だった。
日々バイトをしていた。店員など面接で落ちるので、印刷工や弁当屋での炊飯係、警備員や運送会社の助手、オフィス清掃員などをした。
そして五年の歳月が流れ、目標金額の二百七十万が六月に貯まった。この金額は二十歳に〈南条美容クリニック〉という美容外科にカウンセリングで出た金額。それから二年待ち、ようやくお金がそろった。晩婚の世であるから二十二歳の夏ではまだ遅くない。
さっき手鏡で顔を見たとき、これからがわたしの青春になるだろうと思った。それは高校を一度辞めたとき、絶対きれいになり〈エイ〉と言わせないと決めたのだ。目標を持つと働くことが楽しくなり、長く勤まる清掃員はいまだに続けている。
ただ、この夏三週間ほど休むと数カ月前から伝えてあった。でも顔が変わったことをどう説明すればいいか。美容整形するなどだれにも言えなかった。ただ家族旅行へ行くといい、休暇をもらった。
いっそうのこと、この顔を持つので清掃員など汚い仕事はもう辞めることにするか。せっかくこの美ぼうを手に入れたので事務や売り子店員もできるし、水商売もできるのではないのか。
術後の説明を終えると退院の準備をした。そして銀行へ向かうことにした。
退院すると久々の外は暑い。でも新しい顔に風が当たると胸が躍った。ここは港区。外を歩き、反応を見るには絶好な場所でもある。
ちょうど昼休みに当たり、サラリーマンやOLがうろつく時間だった。この美ぼうにTシャツとジーンズではダサいが、帰りにショッピングにでもしようと思った。
顔は決まるが、おかっぱを伸ばす薄茶髪では今一である。表情が決まれば美容院、服とお金が掛かることを今知った。
銀行へ行けば、男の視線を感じる。以前はこの格好だったが、今は恥ずかしくも感じた。二十二歳にもなれば、ストレートの茶髪にキャミソール、ミニスカートにヒール、そんなところだろう。
容姿も気になるところで、エステも通いたい。整形すると人生が変わることを再び知るが、まずは美容院と服である。
前金の百四十万は払ってある。キャッシュカードの限度は決まっているため、三店舗のコンビニを回り下ろした。当然、服と美容院代も入れた。
またうつむく姿勢へ入りそうになる。でも意識をすると目線をまっすぐ正し、薄っすら笑みを浮かべて歩き出した。男子高生とすれ違うと、おっ、八十点と小声が聞こえた。この格好でも八十なのかと、ほくそ笑んだ。以前は一ケタの点数だったから。
二
わたしは美容院に行くのをやめて帰った。よく考えれば退院したばかりで、親からもらった顔を変え、自身の変化に対し少し嫌悪感も抱いたからだ。これを望んだのに、整形したことへの罪も感じた。
でも格好だけは直そうと、両手にはデパートの紙袋を二つ持っている。入院時の荷物は、宅配便でクリニックから自宅へ送ったので、洋服の袋とバッグのみだった。
大森駅から十五分ほど歩くと水木家。近くにビール工場があり、大勢の社員が近辺に住んでいる。
わたしの父はそこへ勤めるわけでもなく、平和島の倉庫にリフトマンとして勤めている。母は競艇場の船券販売のパート要員で妹は高校三年生。わたしと違いブラスバンド部へ所属し、学生生活を楽しく過ごしていた。
病院を出て、渋谷で買い物を三時間もしてしまい、自宅へは夕方五時ごろ着いた。まわりは家が建ち並ぶ住宅街で、狭い道であるが車のすれ違いはできた。
向かいのおばさんがバケツを持ち、玄関の軒下へ水をまいていた。
わたしは自宅の門を開けるとき、大沢へ軽く会釈をすると怪げんな顔をされた。
「ちょっと、お宅だれ?」
様変わりに別人と思うのだろうか、わたしはしっかりとおばさんへ顔を向けた。
「あれっ、あっちゃん?」
「はい、こんにちは」
これでは説明しなければならない。なんと言えばいいものか。
「どうしたの? なんだか顔が変わったね」
「そうですか? ちょ、ちょっとダイエットの合宿へ行ってたもんですから」
顔が痩せたのでとっさに出た言葉だった。
「それでいなかったの。母さんは学校と言ってたから、痩せる学校だったの」
「え、ええ。学校といっても美容の学校で……」
母も適当に伝えていた。
「しかし、随分変わったわね。美人になっちゃって」
「そうですかね」
鉄の扉を開けるとさっさと入りたかった。
「変わったわよ、どこの学校?」
「ちょっとそれは……」
と渋々会釈し、ドアノブを回した。が、かぎが掛かっている。わたしは心で舌打ちし急いでバッグからかぎを出す。向かいの大沢はまだこっちを見ているのが視界に入った。
「ちょっと遠くて、浜松の学校なので」
近ければ探索されそうで、少し遠方を答えた。
「そう、費用も掛かったんじゃない?」
根掘り葉掘り聞かれそうだった。かぎを素早く回し、頭を下げて中へ入るとかぎも掛けた。ドアを背にするとため息をついた。
大沢は放送局であり、近所に伝わるのは早いかもしれない。高校中退して通信校に入ったのも近所へ伝わったので、このダイエットと称する変わりようも伝わるのは間違いない。いや、ひと目でばれていて、ダイエットではなく〈美容整形〉したとなるのではないか。
わたしは二週振りに自宅のキッチンへ入ると麦茶を飲んだ。
父と母は仕事で、妹の初美はどこへ行ったのか。夏休み中で金曜の夕方である。部活もとっくに終わったのではないか。
初美にこの変わりようを見せたかった。父は大反対だったので、夕飯時は仏頂面をしているだろう。
痛み止め薬が効いていて、あごの痛みも包帯を外したときより治まった。でも目と鼻の突っ張る感じはまだ違和感があった。
二階へ行き自分の部屋へ入った。部屋の机には美容成形のパンフレットが何枚も重なっていた。一番上に〈南条美容クリニック〉がある。
今年に入るとお金の目どがつくので、仕事の休みを利用し美容外科を回っていた。でも二年前に訪問した南条先生が一番物静かに感じ、料金も安くもなく高くもないことで決めた。ネットの掲示板でも腕がいいらしく書いてあるのも決め手だった。ほかでは三百万以上も提示されたクリニックもあり、腕はよくても金額が掛かり避けた。
わたしはパンフレットを片づけた。手術を受ける前は何度と目を通したので、施設の内容まできちっと頭に入っていた。
六畳の部屋は殺風景と改めて感じる。二十二歳というのに、鉄パイプのベッドにはかわいらしいぬいぐるみなどなく、ビジネスホテ、ルより貧弱な寝床である。小さな鏡台に軽木製品のカラータンス、それにCDカジカセのみの部屋だった。壁にポスターなどはなく、年間カレンダーだけ。
整形をしたせいで気分が変わったのか、改めて部屋に入ると暗く感じた。体験してわかったことだが、美ぼうになるとすべての見方も変わってしまうのだ。
紙袋から服を取り出した。値の安い服を買うのは変わらず、キャミソールを三着買った。赤、黒、水色。どれも肌を露出する服だった。かつては絶対に着ない。夏はTシャツにジーンズ、スニーカー。帽子とサングラスは必需品である。
ハイヒールも二足、キャミソに合わせた膝上のミニスカートも二着買った。これを今から試着してみる。
ジーンズとTシャツを脱ぐと、白いブラと純白パンティーもダサく感じた。胸は大きいが、目立たなくしたいためツーサイズ落として着けていた。そのせいでブラから乳がはみ出ている。
わたしはバカらしくなり、ブラを外すと乳は垂れ下がった。ここもいい形にしたい。こうなるととことん直したくなった。次の目標は胸にしよう、と。
太めな体はダイエットか、なにかスポーツをすればいいのか。というが、今までスポーツなど体育の授業以外やっていない。できるといえばウォーキングのみだった。
近くのショピングプラザで買ったパンティーもきつい。今思ったが派手な下着も買ってくればよかった。こうなれば明日一番で下着専門の店へ行くことにした。
ノーブラで赤のキャミソを着て、黒のミニをはく。ついでにヒールも履き鏡台の前に立った。
髪をとかすと想像以上に決まって見える。太めの足は少し目立つ
が、顔でカバーできるだろう。今まで不細工のくせに顔でカバーす
るなど決して思わない。わたしはこの格好に満足となり、にんまり
した。
すべて試着すればどれも似合い、ぱさぱさの髪をストレートにし、うまく化粧すれば決まるのではないか。
「帰ってたの、げっ?」
ヒールを履き替え、鏡に向かい後ろを振り向いていたとき、突然制服姿の初美が入って来た。あまりの自己陶酔に階段を登る音に気づかなかった。
「なによ、ノックくらいしなさいよ」
「ねっ、ねえちゃん、なに、その変身は……」
初美はあぜんとする表情で目を丸め、口を開けていた。
「わたしは変わるのよ。南条クリニックで変わったの」
今さら脱ぐわけにいかないが、ヒールは脱いだ。
「へぇー、今までの姉ちゃんじゃない。すごいよ」
驚きから笑みに変わった。やはり顔がきれいになるとまわりも明るくなるのか。
「あんたも美容整形するなら南条さんにしなさい」
初美はブスでも美人でもない。普通の女子高生で、明るいため男性には不自由しそうもない。整形などしなくても太っていないため化粧で十分かわいくなる。黒髪のおかっぱヘヤーだが磨けば様になるのは間違いない。同じ両親なのに妹とでは明らかに顔が違い、中学のころ、わたしはもらい子なのかと思ったこともある。
「わたしは整形なんかしないわ。両親からもらったんだもん」
自分も本音はそうだったが、今までの〈エイ〉顔では世間を渡り切れないだろうから踏み切った。夢でもあり、そうするしかなかった。その結果、満足する顔になれたのでこれでいい。
「わかるけど初美も知ってるでしょ、以前の顔を、だからわたしはいいのよ。あんたみたいな顔なら絶対にしないから」
「そうか、ごめんね」
「いいよ、これでわたしも明るくなれるからさ。ねぇ、あした暇?」
下着ショップへ独りで行くのも気が引けるので妹を誘ってみた。
「明日ならいいわ、きょうは西東京大会だったの。でも負けたから、部活はなくなったし引退になる」
「そうだったの。じゃ、明日一緒に行こうよ。パフェでもおごるからさ」
初美はラッキーと思ったのか、笑みを崩さず小さく拍手すると、わたしの顔から目を外さない。まだ信じられないという表情をしている。わたしもクリニックで手鏡を渡されたときは何度も見たほどなので気持ちはわかる。でもジッと見られるとこっちも照れてしまう。美顔となり初披露も向かいの大沢を入れ二人目であるが、今までとギャップの違いが相当あるのを物語っていた。
ドライヤーを入念に掛けているとパジャマ姿の初美が目を擦りながら顔を出した。
「ねえちゃん、まだ七時じゃん」
口を動かすだけで聞こえないためドライヤーのスイッチを切った。
「なによ、また勝手に入ったわね」
「ノックしたわ。ドライヤーの音で聞こえなかったのよ」
「そう、どうしたのよ」
わたしは髪の毛の感触をたしかめながら聞いた。
「もう起きたのって言いにきたの、ドライヤーで起こされたから」
「そうだったの。ごめんね、朝シャンしたからさ」
初美が目を丸めた。むりもない、今まで朝シャンなどしても顔が変わるわけがないので浴びなかった。いつも夜の風呂で終わり、あとは寝るだけで、日々を仕事、風呂、寝る、を繰り返していた。それが整形をすれば朝シャンをしたので、あまりの変ぼうに耳を疑ったのだろう。
「とにかく、まだ寝かせてよね」
「わかったわ、九時半に出るからね」
初美はドアを閉めた。
昨夜の夕食時、リビングテーブルで母は褒め称えてくれた。昔の顔と想像もつかない出来栄えと、初美とともに言っていた。もう従来の顔ではないので、なにを言われても表情が緩んだ。
笑うと目とあごが引きつったが、自然と出てしまうので仕方ない。
なるべく二日ほど、大きな口で笑わないようにと南条はいうがむりだった。美を手に入れたことは夢であったのでうれしく笑みが出てしまう。これは同性にしかわからなく、母たちも共感してくれた。
父は予想通りブスッとして顔を見ようとはしない。よって一度も口を利かなかった。母と妹三人で美容成形の話で盛り上がり、父は孤立状態で、さっさと居間で焼酎を飲みながらプロ野球観戦をしていた。わたしが貯めて出した費用なのでなにもいえないのだろう。
顔へメスを入れたせいで、今後父との冷戦は長くなるのかもしれない。
きょうは土曜。父は休みでまだ寝ているようだ。母は仕事なので八時ごろ一緒に朝食を食べた。初美は現れないので二度寝に入った様子だ。
まだ何種類もの化粧品はなく、全体的に素顔に近い化粧をした。
赤のキャミソールに黒いミニスカート、ハイヒールの格好で妹と自宅を出ると、大沢家のおばさんが玄関の掃除している。ずんずん行ってしまえばいいのに、初美があいさつをした。
「おはよう、あら、お姉ちゃんは随分変わった格好になったわね」
と大沢が好奇の目を向けた。顔を変えたので気を使ってくれればいいのに初美はよけいなことをしてくれた。
「ええ、まあ。暑いしね、では行ってきます」
いそいそと初美より先を歩いた。
「ちょっと待ってよ」
初美が小走りで寄って来る。
「なんで声掛けたのよ、わたしのこと検索されるでしょ」
妹は顔を膨らませ、小言をぶつぶつ言った。わたしほど派手な格好ではないが、初美も短めの白いスカートに水色のTシャツ姿。ただ靴はスニーカーである。
赤と水色なので、二人で歩けばけっこう目立つと思う。すでにこちらへ向かって来るロン毛で背の高い大学生風の男と目が合った。
今まで目が合うと男はすぐそらすが、長々見ている。わたしのほうから外した。薄化粧でもまったく問題はない。逆に薄いほうが、顔を隠さずかえって男の興味を引くのかもしれない。男性経験がないので心理はわからなかった。
「初美さぁ、彼氏いるの?」
「んー、いないよ。でも三日前に告られたわ。ぜんぜん興味なかったし、メールだったので断ったよ」
妹は明るい性格なのでやはり持てる。わたしは急に性格を変えることなどできやしない。昨夜からときおり心が暗くなった。どうしよう、困った、できるかな、など戸惑うことを以前からよく思う。
整形により多少は自身つくが、そう簡単には性格は治らない。
ひとりで下着の買い物へ行けばいいのに、前と同じ行動で妹の暇なときに付き合ってもらう。理由は街へひとりでいると、友人がいないと思われるから。
「いないのか、いそうなのにね。三日前とは、告白されるの何度もあるの?」
初美と駅に向かう途中に広い道へ出た。土曜でビール工場も休みなので街は静かだ。大型トラックの出入りもなく宅配便の小さなトラックがうろうろする程度だった。
「何度もないけど、一年に三回くらいかな。わたしも告ることあるんだけど、ダメだったわ。高一の時付き合った以来、彼氏はなかなかできないの」
「そういえば、一度家に連れて来た子いたわね。あの子となぜ別れたの?」
わたしがちょうど美容外科を探していたころ、初美が彼氏を家に連れてきて、羨ましく思うときがあった。
「なぜって、けんかしたからだわ」
「どんな?」
「どんなって言っても……、いやらしく迫ってきたからなの」
おおよそわかった。
「ふーん。初美はまだしてないの?」
「するわけないでしょ、まだ女子高生よ」
明るく真面目で通っている初美は、その通りの女だった。
「キスもしてないの?」
「キスはしたわよ、そのときに。やめようよ、思い出したくないから、お姉ちゃんは?」
大森駅が見えてきたので、電車で原宿へ向かう。
「わたしに聞くだけやぼでしょ」
初美はそれ以上なにも言わなかった。
三
竹下通りのレディースショップで買ったブラとパンティーは今までのホワイトカラーとは違い、ベージュ、紫、ブルーと三色上下合わせて試着し買った。特に紫のパンティーはTバックである。
初美ははいていないが、今や女子高生でもはくTバック。思い切って試着すれば、ピップの肉とマッチしないが、一着くらい欲しくなり買った。
試着段階で妹に信じられないという表情をされ、整形でこうまでも変わるのかと目を丸めていた。今までわたしの買った下着はどれも上下で二千円ほどだったが、きょうは三着で二万もし、これほど高価な下着を着けるのをリッチに感じた。今まで日に二万も使ったことはなく、整形のおかげでサイフの中身は次々と減っていった。
正直、予算は二着で一万以内に定めていたが、実際商品を目にするとどれも素敵に見え、店員のアドバイスがまた上手なので聞いていると欲しくなったのだ。
まだ下着を見せる人はいないので、安いものでもいいと思えば、出会いはいつやってくるかわからず、常に身構えておこうと思い買ったのもある。店を出ると初美が話してきた。
「姉ちゃん、すごいの買ったね。わたしは恥ずかしくなったよ」
土曜とあってか竹下通りは若者が多い。夏休み中でもあり中高生くらいの年令が目についた。初美と明治通りへ向かい歩くが、自分と似るキャミソールにミニスカート姿の少女たちが多く、その子たちを見ながら言った。
「初美ほどの年令の子なら当然つけているでしょ」
「うん、でも今までを思えばお姉ちゃんの変化は信じられない。やっぱ整形したからだよね。以前の姉ちゃんなら、あの店入らないし、いつだか冗談で派手な下着を勧めるとにらんできたじゃん。いつもゴトーショッピングプラザしか行かないしね」
皮肉に聞こえた。が、自分は変わり過去と未来を別にした。
「もう以前のわたしじゃないのよ、これからのわたしは別人だからね。過去は過去、今からがわたしなの」
今までを断ち切るように声を張った。初美はハンカチで額を拭いてうなずいた。
前から二十代くらいのチャラチャラする二人連れの男がこっちに来る。ロン毛にジーンズを腰で履き、Tシャツの上には銀色のペンダントが目立つ彼らだった。初美は道の隅に行こうとした。
「姉ちゃん、こっちこっち」
と、手で呼んでいるが、別に試すチャンスでもあった。男たちが目前に迫ってきて、わたしに話し掛けるのは目に見えた。
「よぉ、ねぇちゃん、決まったかっこしてるね。おれたち車持ってるんだ。どっかドライブ行かない? 海なんてどう?」
初めてのナンパだ。この男たちの合格ラインを超えたということだ。初美を見ると隅っこで顔を左右振っている。
「海ねぇ、でも今あたしっち買い物中だからさ、また今度ね」
腕を組んでナンパ馴れする仕草をする。
「いいじゃん、買い物済ませたあとでもいいからさ、もったいないよ、君みたいな美人を買い物で一日を終わらせるなんて。もっと楽しもうよ、食事でもしながらドライブしようよ」
初美のところへもう一人のロン毛が話し掛けた。
「おじょうちゃんも海へ行こうよ」
今までの顔でナンパはされない。男はいい女をものにするのが常なので、わたしはいい女という証明になった。
「ダメなのよ。午後はわたしたち学校があるから、実習があるの。だから今度ね」
初美はいやな顔で左右首を振り続けている。
「土曜に実習? そんなのあるの、じゃサボっちゃいな」
この男たちはしつこいほうなのか、それともナンパはこんなやりとりで引っ掛かり彼氏ができるのか。初美はいやがっていた。
「いえ、けっこうです。初美、行こう!」
強めに言うと妹は急いでこっちに来た。そして急ぎ足で明治通りへ出た。振り返ると彼らは追い掛けて来なかった。
「あんなチャラチャラする男はごめんだわ。すぐ体を要求してくるわよ。あんなのに着いて行けば人生台なしになるからね」
初美は頬をハンカチで拭きながら偉そうなことを言った。
「わかってるわ、あんなやつらに着いて行くわけがないでしょ。どうせ捨てられる」
内心はその日限りでもいい。早く女にならなければというあせりもある。うんざりとした顔を初美に向けるが、実はナンパされたことに自分は満足であり、今度は単独で外出しようと決めた。
明治通りのカフェレストランに入り、値が張る昼食を初美にごちそうした。
初めてシャレた店に入れば、昼というのに薄暗い店内の雰囲気に酔い、男と来るにはもってこいの場所と思った。外出するといつもはファミレス、デパートのレストラン、そば屋などで食事をするので若者の仲間入りした感じだった。
店から出るとわたしのプリペイド式の携帯電話がバッグ内で鳴った。
「はい。あっ、どうも。休暇をいただいてありがとうございます。ええ、明日から行きでますので……、はい、はいわかりました。品川スポーツセンターですね。はい。九時に、わかりました」
清掃派遣の仕事先だった。スポーツセンターは何度も入っている。
同僚も五人いて、この顔を見せるのは気が引ける。同僚といってもみんな女性でわたしより年上の四十代から六十代だった。
都内で若い女が清掃員として働くのは自分くらいではないのか。
派遣でも若い女性はオヒィスビルで仕事するのが普通だろう。以前の顔では落ちるので受かるのは清掃員や力仕事だけだった。この美ぼうを手に入れたので、そろそろ潮時にも思う。
「仕事から?」
原宿駅へ戻るとき、初美が聞いて来た。
「うん。仕事先よ、もう清掃など辞めるわ」
「なんで? 今まで長かったしいいじゃない」
プリペイド携帯をバッグへ戻すと初美が聞いてきた。ストレートであるこの携帯もダサく感じ、普通に加入したほうがいいと思った。
今まで携帯はこっちから掛けることは少なく思い、費用が掛からないプリペイドにした。でもこれからは出会い系サイトを見るかもしれない。
「清掃だよ、二十二の女が清掃などダサいわ。そう思わない?」
「そうだけど……。お姉ちゃん、なんか整形したら変わっちゃったね。わたし正直、以前の姉ちゃんがいい。いつも控えめでいて、わたしに相談したりして、なんか別の人格になった感じでいやだ」
初美は立ち止まると、怪げんな顔をわたしに向けた。
「だから言ったでしょ、過去は過去、きょうから別人だって」
「整形すればそんな百八十度変わるもん? わたしは姉ちゃんを軽べつするわ」
初美はわたしの気を知らないからそう言うのだろう。今までどんなに耐えていたか。妹は明るく学校では村八分にはされない。わたしはそれに耐えてきた。仕事もなかなか見つからなかった。整形するという目標を持ち、いやな仕事でも金のために一生懸命やったつもりだ。それで目標が叶えば、次なる目標を持つのが人生ではないものか。
「いいわ、軽べつするならしなさい。あんた一人で帰って、わたしはまだ寄る用があるから」
初美にそうぶつけると、さっさと駅から離れた。用はない。気持ちがわからないため一人がよくなった。それに派遣会社へ辞める電話を掛けようとも思った。美顔ならいくらでも職があるし、次なるステップにもつながる。
まだお金は必要だ。胸を直し、服やブランド品も欲しい。今後を思うとお金はいくらあっても足りない。でも人生が楽しみだった。