小さな影の下で
蝉がわんわんと求愛のために声を張り上げる、雲ひとつない青空の真夏の真昼間。
家のそばにある小さな公園を通り抜けようと足を踏み入れた時、公園にある二つしかないベンチのうち、ギリギリ木陰になっている隅っこの席で、ぐったりと天を仰ぎ見るようにして座り込んでいる男がいた。
日傘をさしていても、なお滝のように噴き出す汗を、いちいちとりだすのも面倒になったために握ったままのハンドタオルでぬぐいながら、せかせかと歩くと疲れるからとのんびり歩いていたから目に入ったという感じではあるが、全身で、ああ、暑いんだなとわかるその男の態度というか雰囲気に、思わず笑みがこぼれた。
そのタイミングで、ベンチに座り込んでいたその男が、けだるそうな様子で天に向けていた顔を起こし、盛大なため息をついた直後に、私と見事に目があった。
雰囲気があまりにも老人めいている感じであったためにてっきり中年あたりかと思えば、二十半ばの自分と年はさして変わらなそうな男だった。
髪はぼさぼさで無精ひげを生やしてはいるが、まとっている服は清潔感のある襟のある白いシャツと黒めのジーンズで足物は下駄。
なんだかあまりにもちぐはぐな格好なはずなのに、そんなちぐはぐな格好でも、その男は妙に似合っているように見えるのだから不思議でならない。
「暑いですねー」
暑さで弱っているのか、それとも元々そうなのか、間延びした低い声で唐突に話しかけられた私は、暑さで大分思考力が低下していたのもあってか、思わず歩みを止めて「そうですねー」なんて答えてしまった。
特に返事が返ってくるものと思っていなかったのだろう。
少しだけ驚いた様子の男は、ふにゃりと笑って、どこか照れたようにぼさぼさの頭をがしがしとかいた。
「久しぶりに休暇もらったんですけど、あまりの暑さに、散歩を途中であきらめてしまいました」
「この炎天下でお散歩はちょっと無茶じゃ……」
「ははっ。お金かからなくていいやと思ったんですけどねー。久しぶりの外出に浮かれてて太陽光の威力舐めてましたわー」
なんだかとてつもなくゆるい人だ。
「女の人はいいですねー。日傘って結構いいんでしょう?」
「そうですね。直射日光にあたらない分は涼しいですね」
「いいなー。いいなー」
まるで駄々をこねる少年の様な反応をするが、それが妙に愛嬌があって可愛らしい。
ぼさぼさ頭で無精ひげ生やしている少年と言うと、若干シュールではあるが。
「男は見栄で生きてる生き物なんでー。日傘はアウトなんですよー。だからとっても羨ましー」
なんだかしっかり足を止めて、素姓の知らない男の人と立ち話というのもおかしな話だ。
変質者だったりしないかとか、考えるべき事はあったはずだし、警戒すべき事もあったはずなのに、何でこんなに気軽に会話出来ているんだろうか。
これもこの暑さのせいだろうか。
「あ。すみません。今更ながら勝手に話しかけちゃいまして」
「いえいえ。別に」
「でもこの炎天下の中に、無謀だったけど散歩に出て正解でしたー」
流れる汗を腕でぬぐいながら男が言った。
「いやぁ。僕の運もなかなか捨てたもんじゃないですねー。いやいやまったくまったく」
無精ひげのある顎をじょりじょりと音をさせながらさわり、またぼさぼさの頭をがしがしとかく。
なんだかちょっと忙しないような、落ち柄無げな、そんな雰囲気を感じ取れたが、気のせいだろうか。
「つかぬことをお聞きしますが、このあたりのご近所にお住まいで?」
「……は?」
思いっきり警戒心むき出して問い返せば、慌てたように男は腕を振って否定する。
「あっ! すいません。別に下心があるわけでは! いや、多少はありますが……ストーカーしようとか、家に乗り込もうとかそういった話では無くてですねっ!?」
「おまわりさーん」
「あー! 勘弁してください! 関山さん!」
思わず小声ながらもそう言った私に、本気で慌てて止めに来た男は……。
「って、あれ? どこかで見た事があるような……」
「南です! 同じ会社の開発部の南です! 不審者じゃないですから、おまわりさんはやめてー!」
ぼさぼさ頭に無精ひげでまったくもっと気付かなかったけれど、よくよく見たら、お知り合いの方でした。
携帯電話を無造作に開いて番号を打とうとしたのは、とりあえず保留とする。
「印象が違いすぎますって。なんですかその格好。新手の詐欺ですか? どうなんですか?」
「いやあのえっと……これが僕のデフォルトなんです。すみません」
大変委縮した態度の男こと開発部の南さん。
職場ではきりっとしたスーツ姿でバリバリ仕事をこなす、開発部のエース君。……のはず。
確か眼鏡もかけていたはずで、かなりの切れ者に見えるひと。……のはず。
……おかしいな。こんなにゆるくて気弱な人じゃなかったと記憶しているのだが。
「いやー。今回の山はとっても高くて大変でしてー。三日か四日くらいでしたか。泊まりがけだったもんでしてー」
あははと南さん。
相変わらず髭をじょりじょりさわっている。
察するところ、髭を剃るのも面倒になったのだろう。
女の自分にはあまり察せられないが、よく面倒だとぼやく男性がいるので、きっと目の前の彼もそのたぐいに違いない。
「いやー。太陽いいですよねー太陽。ここまで頑張って照らなくても良かったかなとは思うんですけどねー。太陽」
泊まり込みだと外には殆どでなかたから、ちょっとタガが外れた感じの状態なんだろうか。
こんなにゆるい人だったっけと、私は首を傾げてしまう。
「で、ですね関山さん」
「何でしょうか、南さん」
「お住まいはこのへんで?」
「おまわりさーん!」
「それはやめて欲しいなっ!?」
「ご近所です」
「……神様。関山さんが僕をいじめます」
何これ楽しい。
南さんはどうやら職場でのキリっとした感じとは全く異なり、相当いじりやすい人のようです。
再びぐったりとして天を仰いだ南さん。
陽が動いて、あったはずの木陰は先ほどの半分ほどになっていたので、そばによって日傘で影をつくってみる。
「わー。本当に日傘は涼しいなー」
「南さんも見栄を捨てて日傘をさせば宜しいのではないかと思います」
「魅力的な話ですねー。じゃあそうします」
そう言った途端、彼は立ちあがり、素早く私の日傘を奪い取って、私と共に傘の下に入ってきた。
普通の傘より小さいので、日傘で出来た影は小さく、傘の下に居る私たちの距離は必然的に近くなる。
何ですか、この状況は。
「付き合いましょう。関山さん。そうすれば僕が日傘をさして関山さんの隣を歩けば僕も涼しいですしね」
「……わけがわかりません」
「……すみません。言った僕もわけがわかってません」
同じ会社の開発部のエース君。
彼との関係、その始まりは、私の日傘の小さな影の下から始まった――――。