第41回 二人だけのレストラン
「ふにゃ…なんかすっごいいい匂いするんだけど?」
昨夜はよほど疲れていたんだろう、銭湯もパスして寝てしまった舞子が、十時を回ってやっと起き出した。
まあ、夜中に叩き起こしたのは僕ではあるのだが。
「何作ってるのー?」
「できてからのお楽しみ。あとはほっといたらできるから、とりあえず昨夜のたこ焼き温めるな。それ食べたら朝の散歩行こ」
「たこ焼き?あ!あれ夢じゃなかったんだ!夜中に凄い音がしてたこ焼き出てきたの!」
「夢ちゃうで。はい、誕生日たこ焼き」
「わーい。ハルくんも一緒に食べよ」
蛸虎のたこ焼きは、相変わらず表面カリカリ、中はとろとろ、そこに黒光りする濃厚なソースが絡んで美味い。
あっという間に二人でひと舟平らげると、僕たちはいつものように散歩に出かけた。
ゴローちゃんも、いつものように尻尾をピンと立てて一緒についてくる。
十一月初頭の鴨川デルタは、もうすっかり秋で、川面を渡る風は冷たく、肌寒いほどだ。
ほんの二ヶ月前まで厳しい残暑だったのが嘘みたいだ。
「さむ!今日はさっさと帰ろか」
「うん。帰ったら何か美味しそうなものができてるんだよね?」
「うん。僕も楽しみや」
そう言って、早足でアパートに向かう。
ゴローちゃんも、寒いのかいつもより早足だ。
◇ ◇ ◇ ◇
昨日、舞子がバイトに行ってる間に仕込んでおいたのは実はクラッカーだけではなかった。
ちょっと十字屋で見たいものがあるからと舞子を誘い、京阪で三条まで出て、その足で阪急の地下へ回ったのだ。
安い赤ワイン、デミグラスソースの缶詰、カットトマトの缶詰、月桂樹の葉、それに、ケーキのスポンジと冷凍ホイップ、フルーツカクテル、マラスキーノチェリー、チョコスプレー。
一旦アパートに帰って荷物を置いたら、次は自転車で商店街に出かけて、お肉屋さんに頼んでおいた牛スネ肉のブロックと、魚屋さんで大きなエビ、八百屋さんで玉ねぎ、にんじん、ブロッコリー、マッシュルーム、レモン、パセリ。
そして、志津屋でバゲットを買った。
帰ったら早速、例のアメリカのレシピ本を頼りに仕込みに入る。
まずは大きめの鍋に、ゴロゴロに切ったスネ肉と、くし切りの玉ねぎを入れて、赤ワインを一本丸々注いで、ラップをして冷蔵庫で一晩寝かす。
ケーキは、舞子ほど上手にはできないが、ホイップを塗り、フルーツやマラスキーノチェリーやチョコスプレーと、絞り袋でホイップを飾る。
皿の上にボウルを逆さまに蓋にして、これも冷蔵庫に。
朝から早起きして、一晩ワインに漬け込んだお肉を取り出し、ダッチオーブンにバターを溶かして表面を焼き付ける。
そこに、残ったワインも一緒に玉ねぎも全部入れる。マッシュルームも放り込む。
トマト缶を二缶入れたら、その缶に上まで水を入れてすすぎながらそれもダッチオーブンへ。
ブイヨンキューブと、"Here's the secret: a little maple syrup."と書いてあるメープルシロップを少々入れたら、月桂樹の葉も入れ、後は重い蓋をして火にかける。
ぐつぐつ沸いたら火を小さく落として後は放っておけばいい。
「後はダッチオーブンがやってくれるから」
叔父さんに言われた言葉が頭に浮かんだ。
ぐつぐつ言い出した鍋のそばで、ゴローちゃんがいつの間にか座っていた。
湯気の匂いをくんくん嗅いで、目を細めている。
「熱いから近寄ったらあかんで」
と言うと、ゴローちゃんは一度だけ「にゃ」と鳴いて、まるで"わかってるよ"とでも言うように尻尾を揺らした。
舞子との散歩から帰ってきたら、煮込み始めて三時間。
蓋を開けて味見をする。
美味い。めちゃくちゃに美味い。
トマトとワインの酸味は全部飛んで、ひたすら深いコクが生まれている。
このままでもいいんじゃないかと思うけど、レシピに従って、最後の調整ととろみのためにデミ缶を加えて、良く混ぜてひと煮立ち。
蓋を閉めて火を止めたら、休ませる。
その間に、エビフライの準備だ。
殻の上から竹串で背わたを取ったら、皮を剥く。お腹側に包丁を入れてスジを切り、手でぎゅっと握ってまっすぐに伸ばす。
プチプチと音がしてエビがまっすぐになる。
忘れちゃいけないのはタルタルソースだ。
卵を茹でて潰し、キューバンサンドイッチの時に買ったピクルスの残りを刻んで、マヨネーズとレモン汁で和えて塩胡椒。
僕はカツ系の揚げ物のときは、一般的な小麦粉→卵→パン粉ではなく、卵と小麦粉と炭酸水で天ぷらの衣を作ってそこに種をくぐらせてパン粉を付ける。
この方が衣がムラなく付いて剥がれにくく、外はカリカリ、噛むとふわっとじゅわっと仕上がるのだ。
油の温度は百八十度。
時間ではなく、揚がる音と衣の色でタイミングを図る。
エビを揚げている横で、じゃがいも、人参、ブロッコリーの仕上げ。
ダッチオーブンに入れてしまうのではなく、別で蒸し野菜にすると彩りもきれいで煮崩れの心配も無用。と、レシピ本に書いてあった。
蒸し器のお湯にはブイヨンを入れて、上の段で人参とじゃがいも。
竹串が通るようになった頃合いで、下のブイヨンでブロッコリーを茹でる。
「舞子ー、そろそろできるよー」
「わーい」
舞子がローテーブルの上の林真理子を片付けて、ランチョンマットを敷いてくれた。
カレー皿にビーフシチューをゴロゴロと盛り、じゃがいも、人参、ブロッコリーを添えて、生クリームを垂らしてテーブルに置くと、舞子の顔がパッと輝いた。
「すごーい!お店みたい!」
「ほい、そんでエビフライ」
くし切りレモンとタルタルソース、そしてパセリを添えられた白いお皿をシチューの横に置いて、軽くトーストしたバゲットのスライスを並べると、本当にレストランみたいな光景になった。
匂いに釣られたのか、ゴローちゃんがテーブルの下からひょいっと顔を出した。
「あ、ゴローちゃん、人間の食べ物は猫はダメなの」
と舞子が優しく言うと、
ゴローちゃんは皿の縁をくんくん嗅いで、"ふんっ"とでも言うように鼻を鳴らして、しっぽだけ立てたまま歩き去った。
「すねてるやん」
と僕が笑った。
「ほな、改めて、十八歳の誕生日おめでとう!舞子!」
「ありがとう~!いただきます!」
舞子はビーフシチューの皿をそっと手前に引き寄せ、まずはシチューの表面をスプーンで軽くすくった。
とろりとした深い茶色のルーに、生クリームが白い筋を描いている。
ひと口食べた瞬間、
「……え? なにこれ、すっごくおいしい……」
肩が小さく震えている。本気で驚いた顔だ。
「そんな大げさな」
と僕が笑うと、
「いや、大げさじゃなくて、本当にすごいよこれ。お店みたい……いや、それ以上かも」
舞子はもう一度スプーンを入れる。
ゴロッとしたスネ肉にスプーンが抵抗もなく入って、ほろりと割れた。
「うそ……やわらか……。これ、家で作れるレベルじゃないよ」
「そう? 今日は気合い入れたしな」
「気合いどころじゃないよ。ハルくん、本当にすごい」
褒められると照れるけれど、心の底から嬉しい。
僕もシチューにスプーンを入れた。
バゲットを軽くちぎり、シチューに浸すと、舞子が目をきらっとさせた。
「それ絶対おいしいやつ!」
「やってみ」
舞子も同じようにバゲットを浸し、ぱくっと食べた。
そのまま、無言で二口、三口と続ける。
あ、来たな、と僕は悟った。
あ、完全に火がついた。
スネ肉をほろりとほぐしては口へ、バゲットをちぎっては浸して口へ、
シチューの湖面をスプーンでさらってはまた口へ。
勢いが完全にギアチェンジしている。
「舞子、ちょっと落ち着……」
「むり、これ止まらない……」
頬がふくふくと膨らみ、目が幸せそうに細くなって、
テーブルの向こうに、あの"珍獣"の姿が現れる。
続いてエビフライだ。
レモンをぎゅっと搾り、タルタルを乗せ、
ためらいゼロでガブッ。
「……!! え、待って。これもめちゃくちゃおいしい……!」
目がまん丸になっている。
「外サクサクなのに、中がふわふわでプリッとしてて……なにこれ、幸せすぎる……」
「そらよかった」
「もう一本食べていい?」
「遠慮せんといくらでも食べ」
舞子は笑いながらもう一尾を手に取り、またレモンを搾ってぱくっと食べる。
「うん、これね、ほんとにおいしい……止まらない……」
と、口いっぱいにエビを頬張りながら言う。
舞子はエビフライを堪能したあと、またシチューに戻ってきた。
肉の塊をスプーンでほぐしながら、じっと見つめている。
「ねえ、これ……どうやったらこんなふうにできるの?」
「え? どんなふう?」
「見た目は普通のシチューなのに、なんか……奥の方でいろんな味がゆっくり広がるっていうか……。とにかくすごい」
舞子は言葉を探しながら、またひと口食べる。
ほっとした顔になって、テーブルに頬杖をつきそうな勢いでうっとりしている。
「昨日の夜にワイン漬けしたんと、あとはダッチオーブンの底力やな」
「うん……なるほど……。いやでも、それだけじゃないよ。ちゃんと『手をかけてくれた味』がしてる」
そう言って、まっすぐこっちを見る。
大きな目がキラキラ光り、ちょっとこっちが照れる。
「……ああもう、こういうのずるい……。おいしすぎる……」
皿の上のシチューも、エビフライも、
目に見えて減っていく。
舞子はしばらく、シチューとエビフライとバゲットの間を行ったり来たりしていた。
顔は赤く、目はきらきらしている。
「舞子、息してる?」
「してる……これ、ほんとに幸せ……」
そして、シチュー皿の底が見えた頃、
舞子はスプーンを置いて、ほっと息をついた。
「……ねえハルくん」
「おう?」
「こんな誕生日……ほんとに最高すぎる」
と、照れたように笑った。
「ふわー!お腹いっぱい!」
舞子がソファに転がろうとする。
「いや、まだあるで。ちょっと待って」
そういって僕は台所に行き、冷蔵庫からケーキを出してロウソクを差した。
大きいのが一本、小さいのが八本。
「ハッピバースデートゥーユー♪」
歌いながらテーブルに運ぶ。
「わー!ケーキも!ありがとう!!!」
ロウソクに一本ずつ火を点けていく。
「ね、ハルくん、あれやろうよ」
「あれ?」
「十六本目から一緒に火を点けるの。かぐや姫!」
「あれ十七本目からちゃうかったっけ?」
「いいの!私が十六歳からここ来たんだから!」
舞子は最後の三本を一緒に点けたロウソクを一息で吹き消そうとしたが、女の子の肺活量ではさすがに全部は消えなかった。
「あ、消えなかったの、最後の三本だよ?」
「せーのっ」
舞子が嬉しそうに残りを吹き消した。
「ありがとう。こんなに美味しいもの用意してくれて。ほんと、レストランのディナーみたいだよ。」
「夜バイトやから、真っ昼間やけどな」
部屋の中には、煮込み料理の温かい香りが残っていた。
外は十一月の冷たい風。
でもこのテーブルの上だけは、
二人だけの小さなレストランみたいに、まだほかほかしていた。




