2-11 傲慢なる「平家」という名のシステム
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
平治の乱以来、源氏は散り散りになり、平家がこの世のすべてを手に入れた。
太政大臣の位を汚し、左右の近衛大将を兄弟で独占。さらには日本六十余州のうち半分以上の三十余国を領有し、三公九卿の官職を身内で埋め尽くす。
彼らの暴挙はとどまるところを知らない。あろうことか、後白河法皇を鳥羽殿に押し込め、天下を自分たちの私物のように扱い始めたのだ。
「……やりすぎだ」
かつて唐の国を乱した楊国忠や安禄山でさえ、ここまでの不敬は働かなかった。この状況に、ついに一人の「皇子」が立ち上がる。後白河院の第二皇子・高倉宮(以仁王)である。
「源氏の諸将よ、平家を討て」
治承四年(1180年)4月、一本の「院宣」が放たれた。運び手は、源行家。五月八日、その密書は伊豆の地、源頼朝の元へと届けられたのである。
頼朝は動いた。
「時は来た。……まずは、足元の敵から掃除させてもらおう」
ターゲットは、平家の息がかかった伊豆の目代、山木兼隆。
8月17日の深夜。頼朝は北条時政父子を筆頭に、佐々木高綱、加藤景廉といった精鋭たちを差し向けた。
「……兼隆の首、獲ったぞ!」
暗闇を切り裂く勝鬨。これが、後に「源平合戦」と呼ばれる巨大なうねりの、最初の一撃となった。
挙兵の知らせを聞き、平家方の重鎮・大庭景親が三千の兵を率いて牙を向いた。頼朝の手勢は、わずか三百。相模の国、石橋山。暴風雨の中での決戦は、頼朝軍にとってあまりにも無慈悲な結果となった。
数に勝る大庭軍に追い詰められ、頼朝の軍勢は散りぢりになり、側に残ったのはわずか七騎。
「……佐殿、ここはお逃げください!」
「北条宗時も、佐那田与一も討たれたか……」
頼朝は髪を振り乱し、大木の洞に身を隠して追手をやり過ごした。かつて天下を夢見た若武者は、いまや一人の敗残兵として、闇夜の山中を這いずるしかなかった。
この挙兵に呼応して動いていた三浦党もまた、窮地に立たされていた。頼朝軍と合流しようとした彼らだったが、鎌倉の由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と衝突。
激しい戦いの末、三浦一族は本拠地である衣笠城へと追い詰められた。一族の長、三浦大介 義明は、御年90歳。
彼は、逃げ延びようとする子孫たちに向かって、静かに、しかし力強く言い放った。
「……いいか、お前たち。源氏の運命は、まだ終わっておらん。わしはここで死ぬ。だが、お前たちのうち一人でも生き残ったなら、必ず頼朝殿を助け、源氏を再興させろ!」
老将は一人城に残り、敵の大軍を引き受けて壮絶な最期を遂げた。その遺志は、海を渡る風となって頼朝の元へと届けられることになる。
頼朝は、わずかな手勢とともに真鶴の海岸から海へと逃れた。小舟で荒波を越え、対岸の安房の国を目指す。
絶望の淵にいた頼朝だったが、海上で奇跡の再会を果たす。三浦一族の生き残り、和田義盛らと合流したのだ。船を並べ、互いの合戦の顛末を語り合う男たち。三浦大介の死を知り、石橋山の惨劇を語り、彼らは鎧の袖を涙で濡らした。だが、その涙はすぐに「怒り」と「覚悟」へと変わる。
「……もう、負けは許されぬ」
安房に上陸した頼朝は、まるで磁石のように東国の武士たちを引き寄せ始めた。
上総介広常、千葉介常胤……。
数日前まで独りぼっちだった流人は、気づけば数万の大軍を率いる「東国の王」へと変貌を遂げていた。
そして――。
頼朝は、ついに自らの本拠地、鎌倉の地へと入り、旗を掲げた。
頼朝の勢いに、都の平家は震え上がった。度々討手を差し向けるも、ある者は鳥の羽音を敵の奇襲と勘違いして逃げ出し、ある者は戦う前に馬から落ちる。
これはもはや、単なる兵力の差ではない。「天命」が、平家を捨てて源氏へと移った証拠であった。
かつて周の文王が、雪降る夜に賢者の予言を得て天下を獲ったように。頼朝の歩む道もまた、目に見えない力に導かれているかのように拓けていった。
「……平家よ、聞くがいい。春の夜の夢は、もう終わりだ」
伊豆の山中で子を殺され、涙を飲んだあの夜から数年。潜龍・源頼朝は、いま、鎌倉の地から日本を塗り替えるための咆哮を上げる。
曾我物語 巻第二 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔頼朝謀叛の事〕
然る程に、誠に謀叛の事有り。例へば、さんぬる平治元年、右衛門督藤原の信頼卿、左馬頭源の義朝を語らひて、梟悪をくはたつ。然れば、清盛、是を追罰し、件の族を配流せしより此の方、源氏退散して、平家繁昌す。然れば、朝恩に誇りて、叡慮を悩まし奉る事、古今にたぐひ無し。剰へ、其の身、一人師範にあらずして、忝くも、太政大臣の位を汚す。かくの如く、近衛の大将、左右に兄弟相並ぶ事、凡人において、先例に無しと雖も、始めて此の義を破る。又、仏餉の田苑を止め、神明の国郡をくつ返し、我が朝六十余州の内、三十余国は、彼の一族領す。又、三公九卿の位、月卿雲客の官職、大略此の一門ふさぐ。斯様のおごりの余りにや、さしたる科も無きに、臣下卿相、多く罪科に行ひ、剰へ、法皇を鳥羽殿に押し込め奉り、天下を我が儘にする。つらつら、旧記を思へば、楊国忠が叡慮に背き、安禄山が朝章を乱りし悪行も、かくの如くの事は無し。人臣皇事を奪はざる外は、これ体の悪行、異国にも未だ先例を聞かず。況や、我が朝においてをや。かかりければ、後白河院の第二の皇子高倉宮を、源三位入道頼政、謀叛をすすめ奉る。治承四年四月二十四日の暁、諸国の源氏に院宣を下さる。御使ひは、十郎蔵人行家なり。同じき五月八日に、行家、伊豆の国に着き、兵衛佐殿に院宣を告げ奉る。院宣の案を書き、やがて常陸の国に下り、志太の三郎先生義憲に此の由をふれ、信濃の国に下り、木曾義仲にも見せけり。
〔兼隆が打たるる事〕
是に依つて、国々(くにぐに)の源氏、謀叛をくはたて、思ひ思ひに案をめぐらす所に、頼朝早く、平家の侍に、和泉の判官兼隆、当国山木が館に有りけるを、同じく八月十七日の夜、時政父子を始めとして、佐々木の四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景信以下の郎従等を差し遣はして、打ち取り畢んぬ。是ぞ、合戦の始めなりける。此処に、相模の国の住人大庭の三郎景親、平家の重恩を報ぜん為に、当国石橋山に追ひ掛け、散々(さんざん)に戦ふ。是のみならず、武蔵・上野の兵共、我劣らじと馳せ向かひて、防ぎ戦ふ。其の中に、畠山の重忠は、父重能・叔父有重、折節、平家の勘当にて、京都に召し置かるる最中なれば、其の科をもはらし、国土の狼藉をも鎮めんと向かひけるが、三浦党、頼朝の謀叛に与力せんとて、馳せ向かひけるが、鎌倉の由比と言ふ所にて行き合ひ、散々(さんざん)に戦ひけるが、重忠打ち落とされて、希有の命いきて、武州に帰りけり。其の後、江戸・葛西を始めとして、武蔵の国の者共、一千余騎、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦ひければ、三浦打ち負けて、今は、大介一人になりにけり。年九十余になりけるが、子孫に向かひて申しけるは、「兵衛佐殿の浮沈、今に有り。己等一人も、死に残りたらば、見つぎ奉れ」と申しおいて、腹切り畢んぬ。さても、伊東の入道は、もとより佐殿に意趣深き者なりければ、一合戦と馳せ向かひけるが、頼みし畠山打ち落とされぬと聞きて、伊豆の御山より帰りにけり。佐殿、無勢たるに依つて、心は猛く思はれけれ共、此の合戦適ふべしとは見えざりける。然れども、土肥の二郎、岡崎の悪四郎、佐々木の四郎、命を惜しまず、戦ひける其の隙に、佐殿逃れ給ひて、杉山に入り給ひぬ。北条の三郎宗時、佐那田の与一も打たれけり。佐殿、七騎に打ちなされ、大童に成りて、大木の中に隠れ、其の暁、山を忍び出で、安房の国りうさきへ渡り給ふとて、海上にて、三浦の人々(ひとびと)、和田の小太郎義盛に行き合ひて、船共を漕ぎ寄せ、互ひに合戦の次第を語る。義盛は、衣笠の軍に、大介打たれし事共語りければ、土肥・岡崎は又、石橋山の合戦に、与一が打たれし事共を語り、互ひに鎧の袖をぞ濡らしける。さて、安房の国に渡り、其れより上総に越え、千葉介を相具して、次第に攻め上り給ひて、相模の国鎌倉の館にぞつき給ひける。是よりして、武士共、関東に帰伏せざるは無かりけり。然れば、平家驚き騒ぎ、度々(たびたび)討手を向かはすと雖も、或いは鳥の羽音を聞きて、退く者も有り、又は、戦場にこらへずして、鞭にて打ち落とさるるも有り。是、普通の儀にあらず、只天命の致す所也。昔、周の文王、いしんちうを打たんとせしに、東天に雲さえて、雪のふる事、一丈余也。五車馬に乗る人、門外に来たりて、其の事を示ししかば、文王、勝つ事をえたり。かるが故に、逆臣、程無くはいしやうして、天下、即ち穏やかなり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




