1-10 遺された者たちの肖像、母の決断
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
河津三郎が奥野の露と消えた、まさにその翌日のことだ。三郎の妻は、激しい陣痛に襲われていた。夫を失った絶望、鳴り止まぬ慟哭。そんな極限状態の中での出産を、周囲は固唾をのんで見守っていた。
やがて、産室から力強い産声が響いた。産まれたのは、健やかな男児であった。しかし、我が子を抱いた母の瞳に宿っていたのは、喜びではなく、底知れぬ哀しみだった。
「……ああ、なんという不幸な子でしょう」
彼女は、まだ目も開かぬ我が子の頬を撫でながら、力なく呟いた。
「せめて、あと数日早く産まれていれば、父上の顔を見ることができたものを。蜉蝣という虫は、朝に産まれ、夕方には死ぬといいます。父を知らずに産まれたお前の命も、それと同じくらい儚く、頼りないものに思えてなりません」
彼女は決意していた。
夫の供養のために髪を切り、尼となって寺の麓に引き籠もることを。仏に花を捧げ、水を汲み、一生を亡き夫の菩提を弔うことに捧げようと考えていたのだ。だが、そうなれば、乳飲み子を抱えていくことはできない。
「お前を連れていくことは叶いません。……恨んではいけませんよ」
悲嘆のあまり、彼女は産まれたばかりの我が子を「捨てよう」とまで思い詰めていた。絶望は、時に慈しみ深い母の心さえも凍りつかせる。
その窮地を救ったのは、亡き三郎の弟、伊東九郎祐清であった。祐清夫妻には、長年子供がいなかった。兄の死、そして憔悴しきった義姉の様子を聞き及んだ祐清の妻は、急ぎ館へと駆けつけた。
「義姉上、お待ちください! 産まれたばかりの幼子を捨てようなどと、正気ですか」
祐清の妻は、捨てられようとしていた赤子を抱き上げ、強く抱きしめた。
「亡き兄上の形見を捨てるなど、仏罰が当たります。……悲しい思い出も、この子が成長する節目ごとに、兄上を思い出すよすがとなるはずです。男の子ではありませんか。……どうか、私に預けてください。私たちが責任を持って育て上げ、伊東の家の形見といたします」
母は力なく頷いた。
「……今の私には、この子を育てる力はありません。貴女様がそう仰ってくださるのなら……」
こうして、三郎の三男は祐清の養子となった。幼名は御房。彼は、父の顔を知らぬまま、叔父の元で育てられることになったのである。
時が流れるのは早い。夫の四十九日が過ぎ、忌明けの百日が近づいていた。三郎の妻は、今度こそ世俗を捨てようと、尼になるための袈裟や衣を用意していた。彼女にとって、それが亡き夫への唯一の誠意だったのだ。だが、その計画を阻む者がいた。
舅であり、この一族の絶対権力者、伊東入道祐親である。祐親は人を使わし、彼女に厳しい言葉を突きつけた。
「……姿を変えて尼になるだと? ふざけるな。三郎が遺した子供たちはどうするつもりだ。老いさらばえた祖父や祖母に押し付けるつもりか? それは到底許されん」
祐親の論理は冷徹だった。
「三郎は死んだが、幼い孫たちは大勢いる。わしはあの子たちを三郎の形見として、何不自由なく育てたいと思っている。母親であるお前が身をやつして遠くへ行ってしまえば、わしたちがあの子たちに会うことすら難しくなるではないか」
祐親は、彼女を尼にさせるどころか、すでに「次」の道を決めていた。
「相模の国に、曾我太郎という者がいる。わしとも縁のある男だ。彼は最近、長年連れ添った妻を亡くし、嘆きの中にいるという。……そこへ嫁げ。曾我の地ならわしの目も届く。子供たちも連れていけばよい」
祐親は彼女に、尼になる隙すら与えなかった。監視をつけ、厳しく守らせ、彼女の「自由」を奪ったのである。
伊東祐親は、すぐさま曾我太郎――曾我 祐信に書状を送った。妻を失っていた祐信にとって、英雄・河津三郎の未亡人を妻に迎える話は、願ってもない申し出だった。
「おお、それはありがたい。すぐにお迎えに上がりましょう!」
祐信は喜び、自ら伊東の地へとやってきた。三郎の妻は、あまりの展開の速さに、ただ呆然とするしかなかった。
(夫を殺した仇を討つこともできず、姿を隠して祈ることも許されず、別の男の元へ嫁がされる……。これほど屈辱的なことがありましょうか)
かつての中国の伝説でも、夫のために牢獄に繋がれた王女や、夫を失い異民族の地で耐え忍んだ蔡琰のような、不本意な運命を辿った女性たちの話がある。彼女は、今の自分をその悲劇のヒロインたちに重ね、人知れず涙を流した。
だが、彼女が曾我へ行くことを決意したのは、自分のためではない。「五歳の一万」と「三歳の箱王」、二人の息子の命を守るためだった。頼りない幼子たちが、荒波のような乱世を生き抜くためには、後ろ盾となる「父」が必要なのだ。
たとえそれが、血の繋がらぬ育ての父であったとしても。
「……行きましょう、一万、箱王。これからは、あの方を父と思うのです」
彼女は怨みを胸の奥底に秘め、幼い二人を連れて、伊豆の館を後にした。曾我の地へと向かう道中、彼女は何度も振り返り、亡き三郎が眠る奥野の山々を見つめていたという。
相模の国、曾我の地。ここが、兄弟の新たな故郷となった。彼らは育ての父、曾我祐信の姓を継ぎ、歴史にその名を刻む「曾我十郎」、「曾我五郎」へと成長していくことになる。
新しい父、新しい家。表面的には、平和な日常が戻ったかのように見えた。しかし、五歳の一万の心から、あの日の決意が消えることはなかった。
「……お父さん。僕は忘れていないよ」
母の膝の上で、静かに牙を研ぐ少年たち。彼らが曾我の姓を背負い、やがて日本中を震え上がらせる復讐の炎を燃やすまで――。
物語の歯車は、曾我の静かな田園風景の中で、音もなく回り続けていた。
曾我物語 巻第一 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔御房が生まるる事〕
其の次の日、女房、産をぞしたりける。此の程の歎きに、産は如何と思ひしに、つつが無く男子にてぞ有りける。母申しけるは、「己は、果報少なき者かな。今少しとく生まれて、などや父をも見ざりける。蜉蝣と言ふ虫こそ、朝に生まれ、夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。童も、尼に成り、山々寺々の麓に閉ぢ籠り、花をつみ水をくみ、仏にそなへ奉り、汝が父の孝養にせんと思へば、身には添へざるぞ。努々 恨むべからず」とて、やがて捨てむとせし所に、河津の三郎が弟、伊東九郎祐清と言ふ者有り。一人も子を持たざりければ、此の事を聞き、女房急ぎ来たりて、「誠や、今の幼い人を捨てんと仰せらるる、如何でか然る事有るべきぞ。なき人の形見にも、罪深かるべし。又、善悪の事も、其れを節と思へば、折々に思ひ出だすに成る物を。しかも、男子にて坐しませば、童にたび給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん」と言ひければ、「此の身の有様にて、身に添ふる事、思ひもよらず候ふ。然様に思し召さば」とて、とらせけり。やがて、心安き乳母を付けて、養育す。名をば、御房とぞ言ひける。
〔女房、曾我へ移る事〕
然る程に、忌は八十日、産は三十日にも成りにけり。百か日にあたらん時、必ず尼になりぬべしとて、袈裟衣を用意しけるを、伊東入道伝へ聞きて、人して申しけるは、「誠や、姿をかへんとし給ふなり。子供をば、誰に育めとて、然様には思ひ給ふぞ。おい衰へたる祖父・祖母を頼み給ふかや。其れ、更に適ふべからず。三郎無ければとて、幼き者共数多あれば、露程も愚かならず、偏に祐重が形見とこそ思ひ奉れ。如何なる有様にても、身をやつさずして、幼き者共を。然れば、今更に、うとき方へ坐しまさば、我も人も、見奉る事も適ふまじ。相模の国曾我の太郎と申すは、入道にも所縁有る者にて候ふ。折節、此の程、年頃の妻女におくれて、歎き未だはれ遣らず候ふと承り候ふ。其れへ遣り奉るべし。自ら、心をも慰み給へ。入道があたりなれば、隔ての心はあらず」と、こまごまに言ひて、やがて、人を付け、厳しく守りければ、尼に成るべき隙も無し。即ち、入道、曾我の太郎がもとへ、此の由を詳しく文に書きて、遣はしければ、祐信、文を披見して、大きに喜び、やがて、使ひと打ちつれ、伊東へこして、子供諸共に向かへ取りて、帰りけり。いつしか、斯かる振舞ひは、返す返すも口惜しけれども、心ならざる事なれば、恨みながらも、月日をぞ送りける。是を以て、昔を思ふに、せいぢよは、夫の為に、禁獄にとめられ、はくゑいは、夫におくれ、夷の住み処になれしも、心ならざる恨めしさ、今更、思ひ知られたり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




