インク壺と羽ペン
小さな店主が日の出とともに起きて、小さな箒で床を掃いて、それから小さな雑巾で床を拭き終わると丁度お店を開く時間になる。
もちろん、お店を開く前に身だしなみを整えることも忘れない。
肉球の付いた猫のような手で顔を洗うのは大変なので、絞った布で顔を拭く。頭の天辺に付いた丸い耳も、ポコンとした丸いお腹もちゃんと拭く。
「今日はセンセが来る日」
先生は「明日あたり行くからね」と言っていた。扉も壁も届く範囲は全部拭いた。草もむしったばかりだ。
だから、トキぞうは先生をすぐに出迎えられるように、扉の前の石段に座った。もちろん扉には「開店中」の札を下げることも忘れない。
今日も良い天気だ。昨日の楽しいお出掛けを思い出して、良い気分で左右に揺れながら鼻歌を歌っていると、車輪がガラガラ回る音が聞こえた。
今日もお出掛け日和だから、誰かお出掛けしているのだろう。
じゃりじゃり、と砂利を踏みしめる音も聞こえる。
それから、「なんだ、この汚らしい人形は!? 邪魔だ!」という大声が聞こえてトキぞうの体はぽーん、と宙に浮き5メートル先でどさりと落ちた。
「あんな薄気味悪い人形を店先に置くなど、死んでも趣味の悪い婆さんだな!」
「さようでございますな」
「薄汚い店がますます薄汚く見えるわ! しかし、婆さんが死んだとは。せいせいしたわい!」
「まことに、さようでございますな」
そう笑いながら誰かが店に入って行く音が倒れるトキぞうの耳に聞こえた。
むくりと起き上がったトキぞうはお店の外側をキョロキョロと見回した。確かにお店は狭く、古いせいで汚く見える。お金が溜まったら、綺麗にしよう、と決心した。
でも、おばあちゃんを悪く言うのは許せない。なんとか立ち上がると、ふらふらしながらも男たちの後に続いて店に入った。
男たちは無遠慮に店の中を歩き回り、勝手に品物を手に取ってはああでもない、こうでもないと騒いでいる。それからしばらくしてから男は一つの品を手に取ると大喜びし始めた。
「これだ! これが欲しかったんだ! あの婆、儂には売らんと抜かしおって」
「まことに、綺麗な品でございますなぁ」
「ああ、他はどうでも良いガラクタばかりだ。他の奴らは騙されているだけに決まっておるわい」
男が手に持っているのは、青い磁器のインク壺だ。
繊細で小さな青い花がインク壺の縁をバランス良く飾っている。たしかにお店の中では一番見栄えよく、芸術的にも優れている品だ。
男は見た目に似合わず丁寧な手付きで、それを手に取るとしげしげと眺めた。
「何やら書いておるが、読めた文字ではないな」
全ての商品にはトキぞう自ら書いた値札が下げられている。それを見た男は一瞥すると鼻を鳴らした。おばあちゃんにも先生にも「ちゃんと読めるよ」と太鼓判を押されたのに、この男には読めないらしく、「そうでございますな」と周りの男たちも追従している。少したってからトキぞうは合点がいったように頷いた。
そういえば、世の中には文字の読めない人もたくさんいるんだった。それは読めない人が悪いわけではないのだから、教えてあげなさい、とおばあちゃんに言われたことを思い出した。
「それ、金貨三枚、て書いてる」
トキぞうが、値段を教えてあげると男達はトキぞうへ振り返った。眉を顰めてトキぞうを見る男たちにトキぞうはもう一度言った。
「それ、金貨三枚」
「なんだ貴様は? 儂は行政官だぞ」
男はそう言い放ったが、トキぞうには行政官が何か分からないし、それが一体なんだというのだろう。
「ぼく、店主のトキぞう」
「儂は行政官と言っておるだろうが!」
そう怒鳴った男は、インク壺をハンカチに包むと懐にしまおうとした。
行政官のことはさっぱり分からないが、お金を払わないで持っていくような輩をなんというか知っている。
「ドロボウ!」
トキぞうが大声で言うと、男たちは顔を真っ赤にした。
「行政官だと言っているのが聞こえないのか! お前たち愚民が生きていられるのは、儂らが政を行っているからだぞ!」
トキぞうには分からない単語が出てきたが、一つ分かったことがある。
「まつりごと? ……祭り、まだだよ。なに言ってんの?」
ノス村の祭りは、初夏と冬に入る前に行われる。祭りにはまだ季節が早いので、トキぞうは教えてあげた。祭りの日は村の広場に皆集まり、森や畑を皆で歌いながら回り、動物たち精霊たちの恵みに感謝して、歌って踊って、彼らに楽しんでもらうのだ。もちろん美味しい料理もかかせない。そして、その日だけは夜更かししても叱られないのだ。
そんなトキぞうの言葉に男はさらに怒りを爆発させた。
「これだから、田舎者は……しかも、ここの村は税を払っておらぬではないか。お前らこそドロボウではないか!」
この前ティトがそんなことを言っていた気がする。
昔ノス村は国で起こったとても面倒なことを快く引き受け、そのため王様に特別に免除されている、と言っていた。
税を払わなくても良いくらいの面倒であり、それは正当な取引だと認識している。
「だって……!」
そのことを言おうとして、トキぞうはあることに気付いた。
あんなに立派な服を着て、すごい帽子を被ってたくさん指輪を付けてるのに、金貨三枚は払えない。
「はっ、おじさん、貧乏なんだ!」
トキぞうは急に男が可哀想になってきた。
そういう人がいることも、おばあちゃんに教わっていた。
――世の中には色んな人がいるんだよ。それが世の中なんだからね、トキぞう
このおじさんは多分、その色んな人――立派な服と指輪にお金を掛けてるから貧乏なんだ、とトキぞうは理解した。
「し、失敬な……! 貴様らといっしょにするな!」
男に怒鳴られても、きっとご飯が食べられなくて怒りっぽくなっているだけだ、ということも分かった。
「お金払えない……可哀想……それ、あげる」
「ぐぬぬぬぬ……おい! 金を出せ」
男が大声を出すとお供が懐から袋を取り出した。男は無造作に袋に手を突っ込むと金貨を手にいっぱい握って出した。握った手から溢れるほどの金貨だ。あれで、おじさんの食費何年分だろう。
「おじさん、ご飯、食べられなくなる!」
金貨一枚で四人家族が一月暮らせる。
トキぞうが首を横に振って両手を伸ばして止めようとすると、男は金貨を床に放り投げた。
金貨はキラキラと光りながら床に散らばり、転がり、棚の下に潜り込んでしまったものまでいる。
「あ、金貨が!」
慌ててしゃがんで金貨を拾うトキぞうを見て、男は不愉快な笑い声を上げながらトキぞうを蹴り上げた。トキぞうは転がり金貨が再び床に散らばっていく。
「はっはっは! 卑しい奴はそうやって地べたに這いつくばってるのが似合いだ!」
何が卑しいのかトキぞうには理解できないが、よろよろと立ち上がったトキぞうは再び金貨を拾い男に差し出した。
これがないと、この男はきっと暫くご飯が食べられなくなってしまう。
「この! 不愉快な、気味の悪い奴め!」
憐みの籠った黒い瞳に腹が立ったのか、男はまたトキぞうを蹴り上げた。それでもトキぞうは金貨を広っておじさんに返そうとしては蹴られる。何度か繰り返して、だいぶトキぞうがよろよろになると飽きたのか、鼻を鳴らして蹴るのをようやく止めた。
金貨は全部拾うと十六枚もあった。多い分を返そうとするが男は、「それっぽち」と尊大な態度で鼻で笑っている。
金貨十三枚の価値があるものを必死で思い浮かべた。
勇者セット――聖なる剣、聖なる盾、鎧兜は変動相場で今は大した値が付かない。魔法使いセットも僧侶セットも右に同じだ。
「じゃ……羽ペン、付ける」
ようやく羽ペンを思い出し、よろよろしながらも急いで羽ペンの箱を棚から持ってきた。羽ペンならインク壺とセットにすると丁度良い。箱を開けると真黒い羽のペンが行儀よく鎮座している。決して売れなさそうな品物を抱合せにするわけではない。
トキぞうは、ふらふらしながらもインク壺に傷がつかないように丁寧に布に包んでから箱詰して、羽ペンの箱と一緒に男に出した。
「また……来ないで」
本当は、「また来てください」と言いたかったのだが、貧乏な人にそんなに無理はさせられない。
「二度と来るか!」
男が捨て台詞を吐くとトキぞうはホッと胸をなでおろした。男は舌打ちをしながらお供に箱を持たせて、扉を蹴破らんばかりの勢いで出て行った。
そして、お客をちゃんと見送ったトキぞうはその場にパタンと倒れてしまった。