第3話 出走への決意
その夜。
茶の間の縁側越しに、蓮とゴンタは夕食の時間を迎えていた。
「はぁ……なんで俺が特売もやし啜ってんのに、お前はそんな高価な特選竹を美味そうに食ってんだよ」
蓮が塩コショウだけで炒めたもやしを口に運ぶ横で、ゴンタは源爺にもらった極上竹の残りをバリバリと貪り食っている。
不公平な食卓に蓮がぼやいた直後だった。
ゴンタがふらりと立ち上がったかと思うと、振り向きざまに高圧ゴムボールのようなお腹を蓮の脇腹にぶつけてきた。
「グハッ!?」
ただのスキンシップのつもりかもしれないが、野生の弾力を伴った強烈な腹アタックは、蓮の肋骨に鈍い衝撃を与えた。
「い、痛ぇ……!また湿布が増える……」
蓮が畳の上で悶絶し、部屋中に湿布の匂いが充満する中、玄関の戸がガラリと開いた。
「ちょっと蓮、書類の申請終わらせてきたわよ」
手提げカバンを持った真奈美が、呆れ顔で茶の間に上がってくる。
「真奈美、助かった。恩に着るよ」
「感謝するのは後ね。いいこと、特例ライセンスが下りたってことは、あんたの厩舎は完全に稼働状態と見なされたわ。つまり、第二種免許の更新料五十万の支払い期限は待ったなしよ」
真奈美は蓮の目の前に、容赦なく赤い督促状を突きつけた。
「更新料が払えなくて免許剥奪になれば、ゴンタは野良化扱いになって罰金五百万。あんた、自己破産どころの騒ぎじゃなくなるわよ」
「んな事、分かってるけどよ~」
「まさかとは思うけど、この子をレースで勝たせようとか思ってないわよね。絶対にムリだから止めときなさい」
真奈美の容赦ない発言に、蓮はごくりと唾を飲み込んだ。
「それも、分かってるけどよ~。……こいつのお腹の弾力は、絶対武器になると思うんだよな~」
蓮がゴンタを見ると、当のゴンタは食べ終わった竹の皮を布団代わりにし、腹を上に向けて大いびきをかき始めていた。
真奈美が呆れ顔で帰っていき、夜もすっかり更けた頃。
蓮は厩舎のアルミサッシの引き戸を、ゴンタが通れる幅だけ静かに開けておいた。
(いくらついてきたとはいえ、もとは山で自由に暮らしていた野生だ。閉じ込めておくのは違うよな……)
「……山に帰りたくなったら、いつでも帰っていいからな」
外の冷たい夜風が入り込む引き戸に向かって、蓮はそっと声をかけた。
だが、当のゴンタに山へ戻る気など毛頭なかった。
(風が入ってきて少し涼しいな。飯も出てくるし、悪くない縄張りだ)
ゴンタは三歳児並みの知能で勝手に納得すると、すのこの上でドカッと全体重を預け直し、完全にここを「自分の住処」と認定した。
そして、開け放たれた引き戸に丸出しの太鼓腹を向けたまま、家全体を揺るがすような特大のいびきを響かせ始めたのだ。
「……完全に居座る気満々じゃないか」
これなら心配して損したと、蓮は苦笑いした。
だが、安堵の息を吐き出した瞬間、茶の間のちゃぶ台の上に置かれた赤い封筒が視界に入った。――第二種興行飼育免許の更新料、五十万円。
――地元の信用金庫からの返済分、十万円。
支払い期限はすぐそこまで迫っている。
特売もやしを啜るだけの生活では、どう逆立ちしたって工面できる額じゃない。
おまけに真奈美の言った通り、特例ライセンスが下りて厩舎が稼働状態と見なされた以上、もう後戻りはできないのだ。
払えなければ免許剥奪、そしてゴンタは野良化扱いで罰金五百万円コースだ。
(……待てよ)
蓮は、すのこの上で無防備に丸出しになっているゴンタの太鼓腹をじっと見つめた。
さっき真奈美の巻き尺を弾き飛ばし、自身の脇腹に激痛を走らせた、あの異常なまでの反発力。
エリート種のような愛嬌や計算されたファンサなんてこれっぽっちもないが、あの軽トラのタイヤ並みの弾力と頑丈さは、間違いなく並の個体にはない規格外の武器だ。
(真奈美は絶対にムリだって言った。……けど、あいつをレースに出走させて勝たせる以外に、俺たちが生き残る道はない)
もちろん、調教もされていない野生種を走らせるなんて無茶苦茶だし、ギャンブル同然だ。
だが、厩舎が潰れて路頭に迷うか、こいつの腹の弾力に全財産と人生を賭けてみるか――選択肢は最初から二つに一つしかなかった。
「……おい、ゴンタ」
蓮は寝息を立てる茶褐色の毛玉に歩み寄り、その分厚い腹を軽くポンと叩いた。
跳ね返ってくるゴムのような重い手応えに、自然と口元が吊り上がる。
「ハハ……笑っちゃうよな。破産寸前のボロ厩舎が、拾った野生種にすがるなんてよ。……でもさ、やってみる価値はあると思わないか?その化け物じみた腹、使い方ひとつで……とんでもない風穴あけられるかもよ」
寝言のように「プギュ……」と気の抜けた鼻息が返ってくる。
通じているのかいないのかは分からない。
それでも蓮の胸の奥で、燻りかけていたトレーナーとしての闘志が、確かにパチパチと火の粉を上げ始めていた。
借金まみれの崖っぷちトレーナーと、人間に媚びる気ゼロの野生ポッコリオン。
生き残りを懸けたローカル未勝利戦、そしてその先にある国内最高峰の舞台『ジャパンポッコリオンダービー』制覇を目指す、泥臭くも果てしない下剋上の日々が、いま幕を開けた。




