39話「轍(わだち)」
防虫スプレーを抱えて、蒼が走ってくる。
「蓮、忘れてるよ」
蓮は装備の点検を止めて、腕を上げた。
「かけてくれ」
引き金を引く音。
袖口から肘まで、細かい霧が広がる。
蒼は両手でスプレーを構え、真剣な顔で狙いを定めている。
「ここにも」
蓮が首元を指す。
蒼が背伸びをして吹きかけた。
「ここも」
背中に手が回らない。
蓮が膝を折り、上半身を落とす。
蒼が肩の後ろから腰まで、丁寧に往復させた。
「耳」
耳の後ろに一吹き。
「顔」
蒼の手が止まった。
「目に入るよ」
蓮は目を閉じ、顔を上げた。
蒼が手のひらに吹きつけ、その手で頬を挟むように塗る。
冷たい液が、こめかみまで伸びていく。
「かけすぎです」
千鶴が布巾を握って呆れた声を出す。
蓮は目を閉じたまま動かない。
「ゾンビには素手で突っ込むくせによ」
銀二が壁にもたれて笑っている。
「蚊のほうが嫌いだ」
目を開けた蓮が、そう返した。
銀二の笑いが一段大きくなる。
笹川は自分でスプレーを取り、袖と首筋に軽く吹きかけて済ませた。
「土産に酒でも貰ってこいや」
「交渉に行くだけですから」
笹川が肩をすくめる。
蓮が装備を担ぎ直した。
留め具を確かめる音が二度。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
蓮が背を向けた。
笹川が続く。
シャッターの下をくぐる二つの背中が、朝の光に呑まれて見えなくなった。
蒼の手にはスプレーが残っている。
「ねえ、今日なにする」
銀二の方を向いて聞いた。
「知るかよ」
蒼が銀二の腕にぶら下がる。
銀二は振り払わない。
何度か揺らされてから、思いついたように口を開いた。
「冷凍庫、まだ食えるもん残ってんだろ。揚げるだけの芋とか唐揚げとか、まだ大量にあるって聞いたぜ。たまには揚げ物でガッツリいこうや」
蒼の目が大きくなった。
「揚げ物」
守屋が眉を寄せる。
「後始末が大変なんですよ。体に悪いものをわざわざ食べなくても」
「たまにはいいだろ。ジャンクフードってのは心のおやつなんだよ」
蒼が守屋の裾を引っ張る。
守屋が腕を組む。
返事はない。
市役所の駐車場にジムニーを停め、蓮はサングラスをかけた。
正門の脇に人が集まっている。
三十人か、もう少しか。
中央に立った誰かが何かを話していて、拍手が起きた。
「あれ、この前のデモの人たちですかね」
笹川が首を伸ばす。
「さあな」
声は届くが、言葉までは聞き取れない。
庁舎の入口で、袋を抱えた職員とすれ違う。
誰も足を止めない。
誰もあの人だかりを見ていない。
二階の会議室に通された。
桐山は先に来ていた。
机の上に、A4の紙が三枚、端を揃えて並べてある。
灰皿には吸い殻が四本立っている。
桐山は新しい一本をくわえ、ライターを二度鳴らしてから火をつけた。
深く吸って、天井に向けて吐く。
「四日かかった」
笹川が座る。
蓮は立ったままだった。
桐山が紙を押し出す。
「大阪までのルートだ。湾岸線は落ちてる。橋脚が三本やられてて、迂回もできん。北回りは先月まで通れたが、それ以降は知らん。人を出す余裕がなくてな。二枚目は私見だ、あてにしすぎるな」
灰皿の縁で、指先が二度叩かれた。
「三枚目が搬送履歴だ。副首都行きの名簿に一件、年齢の合うのがある」
「名前は」
「イニシャルと年齢と、受け入れ区分だけだ。医療枠になってる」
短くなった一本を灰皿に押しつけ、すぐに次を抜き出す。
「医療枠」
「患者か、そうでなきゃ医療従事者だ」
紙の上から、桐山の指が離れた。
「写しだ。持っていけ」
笹川が三枚を封筒に入れる。
「スカイリンクの方は」
「上が渋ってる。端末は二台しかない上に、一台は使えなくなってる」
笹川の顔が上がった。
「使えないって、どういう壊れ方ですか。給電ユニットだけ死んでるなら、たぶん直りますよ。あれ、要は箱ですし」
桐山は煙を吐いた。
「……沢田が触ってる。うちで一番使える技術屋だ」
笹川が口を開きかけて、やめた。
「じゃあ、こっちが繋ぐときに用件だけ乗せてもらう形でもいいです。定時で繋いでますよね」
「一日二回だ」
「島の海上保安部か、そこと繋がる先に一本。内容は生存確認だけです。返事は次に来たときで構いません」
桐山が手帳に書き留める。
書き終えてから、顔を上げた。
「あんた、ずいぶん喋るな」
「よく言われます」
窓の外で、また拍手が起きる。
今度は少し長い。
「あれ、盛況ですね」
笹川が窓の方を見る。
「炊き出しだ」
桐山は椅子の背にもたれた。
窓の方は見ない。
煙が天井へ流れていく。
「デモの連中だ。この前、柵に取りついてた。うちの備蓄じゃない。あっちが集めてきた分でやってる」
それきりだった。
笹川が窓に近づいた。
人だかりの外れに、長槍を持った男が一人立っている。
列にも輪にも入らず、壁を背にして、鍋の湯気の向こうを眺めている。
誰も並ばせず、誰も追い払わない。
石突きが、アスファルトを叩いていた。
ガン、ガン、と一定の間隔で。
列の後ろの何人かが振り返る。
一人が眉をひそめ、連れに何か言った。
蜂谷は見返しもしない。
音の間隔は変わらなかった。
「蜂谷さんだ」
「見張りに立たせてる」
下で、また拍手が起きる。
蜂谷は拍手をしない。
石突きの音だけが、途切れずに続いている。
桐山が原本を揃え直し、引き出しに入れて鍵をかける。
「そのタバコ、モールに在庫ありますよ」
笹川が灰皿を指した。
「けっこう残ってるはずです。誰も吸わないので。その吸い方じゃ、どのみち足りないでしょ。次に来るとき持ってきますよ」
桐山の手が止まる。
「……いいのか」
「置いてても減らないですし」
桐山は答えなかった。
吸いかけの一本を灰皿に押しつける。
新しいのは抜かない。
立ち上がりかけた蓮に、桐山が言った。
「妙な話を聞いた」
笹川が振り返る。
「島の病院を一人で落とした男がいるらしい。中の連中を皆殺しにして、物資だけ持っていったと」
部屋が静かになった。
「流れ者が何人か、同じ話をしてる。バイクの連中から聞いたそうだ」
空になった手が、灰皿の縁にある。
「背丈が三メートルあるとか、そういう話だ」
「そうですか」
笹川が短く答える。
蓮は封筒を受け取り、脇に挟んだ。
「行く」
それだけ言って、部屋を出た。
階段を下りながら、笹川が封筒を小脇に挟み直す。
「あの噂、流してるのバイクの連中ですよ。島の話が、海を渡って勝手にここまで来るわけないですもん」
「だろうな」
踊り場で笹川が立ち止まる。
「訂正しないんですね」
蓮はそのまま、笹川の横を抜けていく。
靴音が数段ぶん下りたところで、声だけが返ってきた。
「俺だとは言ってない」
「相変わらずだなあ」
外に出ると、拍手の音がまだ続いていた。
防災センターのモニターの一枚に、鉄棒を担いだ男が映っていた。
柵の内側を、縁に沿って歩いている。
朝と昼と夕方、毎日同じ道順だった。
三歩に一度、足を止めて、隙間から外を覗く。
東側のカメラで、その影がしゃがみ込んだ。
動かない。
垂水は椅子を引き寄せた。
やがて立ち上がり、駐車場の出口の方を長く見てから、こちらへ戻ってくる。
扉が開いた。
モヒカンの手が脇腹に行きかけて、途中で止まる。
「外に轍がある。二本、細い。バイクだろうな」
「この辺、たまに通るぞ」
「柵沿いに一周してる。南の搬入口の前で一度止まって、また出ていってる。今朝だ。北の角の土も掘れてた」
垂水がモニターに目を戻す。
どのカメラにも、柵と、その向こうのアスファルトしか映っていない。
「何か持ってかれたか」
「外に何か置いてるか」
「……置いてねえ。全部中だ」
「取るもんがねえのに、来たのか」
モヒカンは答えなかった。
垂水が椅子の背にもたれる。
「そういや昨日の夜、遠くでバイクの音がしてた」
「何時ごろだ」
「そこまで見てねえよ」
「次から書いとけ」
「面倒くせえな」
「面倒なのが一番死なない」
「蓮さんに言うか」
「帰ってきたらな」
シャッターをくぐると、油の匂いが押し寄せてきた。
フードコートの鍋が三つ、音を立てている。
金網の上に、芋と唐揚げとコロッケが山になっていた。
「うわ、すごい匂い」
笹川が鼻を上げる。
蒼が走っていって、笹川の腕を引いた。
「早く来ないと銀二が全部食べる」
「まだ一個も食ってねえよ」
「一個食べた」
「あれは味見だ」
笹川が皿を受け取り、立ったまま芋を口に入れた。
目を閉じて、長く噛んでいる。
「これ、やばいですね」
「でしょう」
守屋が得意そうに菜箸を回した。
「油、どれくらい使いました」
「一斗缶の半分くらいです」
「まだありますよ」
千鶴が答える。
蓮は装備を降ろし、封筒を千鶴に渡した。
「市役所の紙だ。しまっておいてくれ」
「はい」
サングラスを外して、ポケットに入れる。
蒼が皿を差し出した。
「はい」
蓮は受け取り、テーブルに置いた。
椅子には座らない。
奥の棚からジムビームを出して、蓋を開ける。
鍋の音と、蒼の声と、銀二の笑い声が続いている。
通路の端に、モヒカンが立っていた。
蓮がその前を通りかかる。
「話がある」
「後にしろ」
「今がいい」
蓮が足を止めた。
「外に轍があった。今朝だ」
蓮はボトルを口元まで運んで、止めた。
そのまま動かない。
「それだけか」
モヒカンが言う。
蓮はボトルをあおった。
一口で、喉が三度動く。
「お前らは残れ」
「は」
「明日から、俺と笹川が出るときはお前と銀二が残る」
モヒカンが眉を寄せた。
「何を守ればいい。人か、物か、それとも柵か。守るもんによって立つ場所が変わる。それと、俺の巡回の時間割を組み直すが、あんたが決めるなら合わせる」
「好きにしろ」
蓮が歩き出す。
鍋の前で銀二が振り返った。
「おい、なんだって」
「残れとよ」
「誰が」
「俺とお前だ」
銀二が菜箸を置いた。
「なんで俺が留守番なんだよ。ゾンビ出たら誰が行くと思ってんだ。俺だろ。留守番なんざ垂水のおっさんがモニター見てりゃ足りるだろ」
「俺は聞いた。理由は言わなかった」
「聞き方が悪いんだよ」
「じゃあお前が聞け」
銀二が顔を上げる。
蓮はテーブルの端に立ち、ボトルを傾けている。
銀二は菜箸を取り上げ、鍋に向き直った。
足元で、短い鳴き声がした。
バルカが椅子の下から出てくる。
鳴いたのは蓮にではない。
二つ向こうのテーブルで、菱沼が膝を叩いていた。
蓮は奥の棚から、蓋つきの容器を一つ出した。
朝のうちに茹でておいた鶏だった。
指で細かくほぐして、床に置く。
バルカが戻ってくる。
鼻先を近づけて、少しずつ食べ始めた。
食べ終える。
口の周りを舐めて、蓮の足の先を一度嗅いだ。
それから菱沼の方へ歩いていって、膝に飛び乗った。
菱沼が背中を撫でている。
バルカは目を細めて、そこから動かない。
蓮は容器の蓋を閉め、指先をナプキンで拭った。
塩を取り、ポテトの上で何度も振る。
一味唐辛子も、同じだけ振った。
皿の上が、白と赤でまだらになる。
箸で一本つまみ、噛んで、ボトルを傾ける。
また一本。
皿の上のポテトが、少しずつ減っていく。
ポケットから、マルチビタミンの瓶を出す。
二粒を手のひらに落とし、ジムビームで流し込んだ。
『欠乏の兆候は出ていない。数値は三か月前から動いていない。何も摂らなくても、だ』
耳の奥で声がする。
『では、なぜ飲む』
「必要だ」
『数値の上では、必要ない』
「俺には必要だ」
蓮は瓶をポケットに戻した。
キーロンは、それ以上何も言わない。




