廃都バベル、目覚め
「冷たっ!?」
激しい衝撃と、鼻腔を突き刺す強烈な水の冷たさで、私は意識を強制的に覚醒させた。
激しく咳き込みながら顔を上げると、視界を埋め尽くしたのは大気をも震わせる爆音と、白く泡立つ巨大な水の壁だった。
滝。いや、違う。
それはコンクリートの巨大な建造物の裂け目から、牙を剥くように大量に溢れ出している、狂ったような人工の排水滝だった。
「なによこれ……、意味わかんない……」
全身ずぶ濡れになりながら、私は悲鳴を上げる身体をどうにか動かして、這うようにして水飛沫の届かないコンクリートの床へとよじ登った。
冷え切った自分の両手を見る。
いつもなら、片時も離さず抱えているはずの愛用のノートPCは、どこにもない。カバンすらない。
完全に、身一つだった。
「……待って。私、さっきまで、アフリカのあの不便な村にいたはずじゃない」
パニックになりそうな頭を必死に押さえつけ、記憶の糸を手繰り寄せる。
東京のIT企業で、黒い画面にコードを打ち込み、心を摩耗させていた日々。
そんな私の部屋の窓を「カオル、ここに遊びに来いよ。面白い土がある」と、時差を無視した電話で叩き起こしてくれたのが、環境コンサルタントの幼馴染、カイだった。
仕事で遠くに行ってしまったアイツが少しだけ心配で、有給休暇を取って「ただの冷やかしよ」と遠いアフリカの村まで会いに行った。
村の夕暮れ、再会して「相変わらず泥まみれね」と笑い合った、まさにその直後――村全体を包んだ、あの不気味な閃光。
そこまでは覚えている。なのに、なんで私はこんな薄暗いコンクリートの塊の中にいるの?
その時、私の左腕がバチバチと不気味に発光した。
見ると、前腕に黒く鈍い光を放つ金属製の端末が、まるで皮膚の一部にでもなったかのように、強引に留めされていた。
端末の表層ディスプレイに赤黒いノイズ混じりの文字が浮かび上がり、脳内に直接、高圧的で無機質な機械音声が流れ込んでくる。
『――被験者カオル。意識の回復を確認。これより、都市再構築ステージにおけるタスクを開始します。速やかに指示に従ってください。拒絶、あるいは遅延した場合は、システムより即座にペナルティを――』
「……はあ?」
高圧的な機械音声を聞いた瞬間、恐怖よりも先に、技術者としての不快感が胃の底からセリ上がり、私の口から飛び出していた。
「なによ、このクソ仕様のUI。オブジェクトの設計思想が三流以下。音声合成のサンプリングレートも低すぎるし、誰が書いたのよ、このスパゲッティコード。……仕様書からやり直してきなさい!」
ポケットから自分のスマートフォンを引っ張り出す。だが、画面は完全に圏外。端末のBluetoothも、有線接続のポートすら見当たらない。私の手元には、この世界のシステムを解析するためのツールが、何一つとして存在しなかった。
「ツールがない……。ふざけた真似して 一般人を拉致しやがって……」
冷や汗が背筋を伝う。それ以上に、恐ろしさが一気に押し寄せてきた。
「――カイ!? カイ、どこにいるのよ!!」
私は冷たいコンクリートの床を這い、滝の水飛沫のなか、暗闇が広がる周囲を必死に叫びながら探し回った。近くに倒れていないか。あの光に巻き込まれて、どこかで怪我をしていないか。
だが、どれだけ声を枯らしてコンクリートの壁を叩いても、返ってくるのは不気味な排水の爆音だけだった。完全に、一人だった。
絶望で膝が震え、涙が溢れそうになったその時、私の焦りに呼応するように、左腕の黒い端末が小さく震動を返した。
赤黒いノイズまみれの画面に、エラーコードとともに、不気味なシステムログが一行だけスクロールしていく。
【エラー:広域通信プロトコル未接続 ―― ステージ4:『バベル地区』ローカルモードで起動中】
【未接続キャスト一覧:ステージ1・カイ(生存確認/通信圏外)】
「……カイ?」
画面に灯ったその二文字を、私は掠れた声で呟いた。
同じ場所にはいない。どこか、気の遠くなるほど遠い別の場所にアイツは飛ばされている。だけど――生きてる。
「生きてるのね、あのアホ……」
ドッと緊張が解け、私はコンクリートの影に深く背中を預けた。
視線を上げると、そこには剥き出しの鉄骨、チカチカと不規則に明滅を繰り返す街灯が広がっていた。電力供給が滞り、メンテナンスを放棄され、じわじわと確実な死に向かって腐食しつつある、コンクリートと鉄の巨大な人工都市。
(太陽の光が、どこにも見えない。ここは……地下か)
端末が吐き出した『バベル』という名前の通り、それは天に届こうとして失敗した文明の成れの果てのような、薄気味悪い檻のグラフィック。
アイツ――カイなら今頃、別の場所で、やっぱりこのコンクリートの下にある土の匂いでも嗅いで「分析から始めよう」なんて言っているのだろうか。
姿は見えない。どこにいるかも分からない。だけど、アイツがこの世界のどこかで絶対に諦めずに生きているという確信だけが、今、私の凍えそうな心の唯一の拠り所になった。
「待ってなさいよ、私の農業バカ」
私は自分の両手を強く握り締めた。キーボードもPCもない、ただの無力なエンジニア。
だけど、この世界のクソみたいなシステムを解読するツールさえ揃えたら、跡形もなくバグらせて、二人分の人生の違約金をそっちの運営から絶対にもぎ取ってやる。
暗闇のなか、私はまだ見ぬアイツの不屈の背中を追いかけるように、静かに、だけど冷たく闘志の火を灯した。




