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【reverse 14 自由の翼、青森で渡す】

 早朝の青森港に、フェリーが着いた。


 空が、白み始めていた。


 潮の匂いがする。


 北海道の潮と、少し違う気がした。


 本州の匂いだ。



 アプリがRS50のエンジンをかけた。



「俺は先に行く。仕事が終わったら住所を送る」



 それだけ言って、行ってしまった。


 甲高い2stの音が、早朝の青森港に響いて、消えた。



 本田は一人でプレスカブに荷物を積み直した。


 タイミーで見つけたドラッグストアの品出しは、まだ時間がある。


 腹が減っていた。



 マクドナルド青森サンロード店へ向かった。


 朝マックを食べた。


 ホットコーヒーを飲んだ。


 北海道では毎朝セイコーマートかコンビニかキャンプ場の朝だった。


 マクドナルドで食べる朝は、久しぶりだ。


 なんとなく、南に戻ってきた実感があった。



   *



 時間になった。


 タイミーに指定されたドラッグストアへ向かった。



 初めてのタイミーバイトだ。


 ドラッグストアの前で、一度だけ深呼吸した。



 入った。


 店長らしき中年の男性が、本田を見た。


 ろくに挨拶もせず、売り場の方を向いたまま言った。



「コイツから仕事を習ってください」



 コイツ、と言われた方向に、若い女性がいた。


 本田と目が合った。


 女性が、軽く頭を下げた。



「ここの社員の花です。よろしくね」



 声が小さい。


 でも、笑おうとしている顔だった。



「本日お世話になる本田です。タイミーは初めてなんで、色々と教えてください」



「本田さんには簡単な品出しだけで結構なんで、この入荷した荷物を売り場に並べてください」



 花が案内してくれた。


 段ボールの中から商品を取り出して、棚に並べる作業だ。


 難しくはない。


 花が横で商品の位置を教えてくれる。


 丁寧だ。


 本田が間違えそうになると、先回りして教えてくれる。



 棚がほぼ完成しかけた時だった。



「花!」



 怒鳴り声が、売り場に響いた。


 店長だ。


 レジの方から、大股で歩いてくる。


 本田も花も、同時に肩をすくめた。



「そんなことタイミーにやらせとけ! 一人でできるだろ!」



 花の顔が、青くなった。


 一瞬で、表情が変わった。


 さっきまで本田に丁寧に教えていた顔が、別の顔になった。


 何かを我慢している顔だった。


 怖い、という顔だった。



「す、すいません!」



 花の声が、また小さくなった。


 さっきよりも、もっと小さかった。


 縮んでいた。



 花が本田に棚の残りを頼んで、別の場所へ歩いていった。


 その背中が、小さかった。


 本田は棚の前で、段ボールを持ったまま立っていた。



(なんだ、今のは)



 本田は作業を続けた。


 黙って、続けた。



   *



 バイトの時間が終わった。


 着替えて、出口へ向かった。


 バックヤードの前を通った時、声が聞こえてきた。


 店長の声だ。



「何度言ったらわかるんだ! あれくらい自分でやれ! お前がタイミーに頼るから仕事が増えるんだ!」



 花の声が、聞こえない。


 返事をしているはずなのに、聞こえないほど小さい。


 いや、聞こえないんじゃない。


 返事ができていないのかもしれない。



 本田は、バックヤードのドアの前で一度止まった。


 それから、大きく息を吸った。


 振り返って、明るい声を作った。



「店長、本日はありがとうございました! また機会がありましたら、よろしくお願いします!」



 バックヤードの中が、少し静かになった。


 店長が出てきた。


 戸惑った顔をしていた。


 さっきまで怒鳴っていた顔が、一瞬、行き場を失っていた。



「あぁ、ありがとう。またよろしく頼むよ」



 店長が、売り場の方へ消えていった。


 バックヤードに、花だけが残った。


 花が本田を見た。


 軽く、お辞儀をした。


 目が、少し潤んでいた。



 本田はドラッグストアを出た。



(日常を頑張ってる人は、大変だな)



 青森の秋の空の下を、プレスカブで走りながら思った。


 一年前の自分を、思い出した。


 毎朝、暗い時間に起きて、住宅街を回って、昼間は部屋で眠って、また暗い時間に起きる。


 誰にも怒鳴られなかった。


 でも、誰とも話さなかった。


 どちらが辛いかは、わからない。



 先程の花の顔が、頭から離れなかった。


 店長に怒鳴られた時の、あの顔。


 縮んだ背中。


 消えそうな声。



 あれは、一年前の自分だ。


 形は違うが、同じだ。


 何かに押しつぶされて、でも逃げられなくて、毎日同じ場所に立ち続けている。


 原付キャノンボールランに出ていなければ、自分もああなっていたかもしれない。


 いや、もっとひどい姿になっていたかもしれない。



 夕方、アプリから住所が届いた。



   *



 ウィークリーホテルチトセ。


 外観を見た時、本田は少し心配になった。



「ここってビジネスホテルですか? タイミーバイト分が吹っ飛びますよ?」



「そんなわけないだろ。ここは少し特殊なホテルだ。ライダーハウス並の料金だから安心しろ」



 中に入った。


 フロントがある。


 でも、人がいない。


 カウンターの上に、ルームキーがずらりと並んでいる。


 それぞれのキーに、小さなメモが貼られている。


 本田のキーを探すと、すぐに見つかった。


 本田、と書かれたメモが貼られたキーが、そこにあった。



「ここは人件費をかけないで料金を究極に抑えてる。タオルやノベルティがオプションだから、素泊まりならライダーハウスよりも安い」



「それは凄い! 駅そばなのにライダーハウス並の料金ですか! あ、だから函館でバイトせずに青森なんですね! 宿泊費が函館よりも安いから!」



「そういうことだ。日本各地にはこんな宿がかなり多い。そんな宿に限って、ネットには出てこない。これも原付で街をじっくり見ながら走った恩恵だな」



 本田は、その言葉を聞きながら鹿児島の住宅街を思い出していた。


 新聞配達で毎朝走っていた、あの道。


 毎日、同じ町内を、何百回と走っていた。


 でも、あの町内に何があるか、何一つ知らなかった。


 店の名前も知らない。


 路地の先がどこに繋がっているかも知らない。


 毎日走っていたのに、何も見ていなかった。


 顔を上げていなかった。



(我が町に、こんな宿はあるんだろうか)



 あったのかもしれない。


 ただ、気づいていなかっただけで。


 本田はこの旅に出て初めて、地元に帰りたくなった。


 帰ったら、プレスカブで走り直したい。


 ちゃんと顔を上げて、ちゃんと見ながら走りたい。



 部屋に入った。


 広い。


 シングルルームとは思えない広さだ。


 隣のアプリの部屋をノックした。


 出てきたアプリの部屋も、同じくらい広かった。



「こんなことで驚くな。これから南下していくと、もっと凄い宿もあるからな」



 アプリが言った。


 本田は自分の部屋に戻った。


 風呂に入った。


 広い風呂だった。


 なぜか、笑えてきた。


 タイミーで稼いだ金で、広い風呂に入っている。


 北海道の川で体を洗っていた日から、ずいぶん遠くに来た。



   *



 夜。


 ホテルの近くに、エンデバーという喫茶店を見つけた。



 入った瞬間に、本田は気に入った。


 レトロな内装だ。


 木の椅子。


 くすんだ照明。


 壁に、古い映画のポスターが貼ってある。



 テーブルを見た。


 テーブルゲーム機だ。


 テーブルの天板がモニターになっていて、実際にゲームが動いている。


 本田が生まれる前からあるようなゲームが、今も動いている。



「まだ動くんですね」



「そういう店だ」



 アプリが、ゲームを一瞥して言った。



 カツカレーを頼んだ。


 来た。


 旨かった。


 なぜかわからないが、旨かった。


 レトロな喫茶店のカツカレーは、ファミレスとも定食屋とも違う味がする。


 この店にしかない味だ。



 食べ終えて、コーヒーを飲みながらスマホを開いた。


 タイミーのアプリで、次の仕事を探した。



「あ、またここのバイトで募集が出てるな……でも店長が怖かったんですよ……」



「まあ、タイミー組は人間扱いされないからな」



「いや、僕らには厳しくないんですけど、社員さんに酷い態度で……」



「まあ、そんな奴もいる。気にするな。俺たちは四、五日したらいなくなる」



「そうですね……それじゃ僕はまたここにします」



 本田は、再びドラッグストアに申し込んだ。


 テーブルの上のゲームが、誰も操作していないのに一人で動いていた。



   *



 翌日。


 ドラッグストアに来た。


 案の定だった。



「花! さっきの発注、数字が違うだろ! なんで確認しないんだ!」



 朝から、怒鳴り声が響いていた。


 花が、レジの前で縮んでいた。


 昨日と同じ光景だ。


 いや、昨日より声が大きい。



「す、すいません……今すぐ直します……」



 花の声が、また消えそうだった。


 顔を上げられていない。


 視線が、床に向いている。


 足元だけを見ている。



 本田は品出しの作業をしながら、その光景を横目で見ていた。


 もう慣れた。


 慣れたが、見るたびに嫌な気分になる。


 でも、口を出せる立場ではない。


 自分は今日だけのタイミーバイトだ。


 淡々と、棚に商品を並べた。



 午前中、花が怒鳴られたのは三回だった。


 本田は数えていた。


 数えていたことに、途中で気づいた。


 数えてしまうほど、あの怒鳴り声が耳に残っていた。



 バイトの時間が終わった。


 出口へ向かった。



「花さん、お疲れ様です」



 ちょうど仕事を終えたらしい花が、一緒に出口へ向かっていた。


 声をかけると、少しだけ表情が柔らかくなった。



「今日もありがとう、本田さん。私、車だから送ろうか?」



 本田は駐輪場を指さした。


 プレスカブが、止まっている。



「僕はあれで来ましたから」



 花が、プレスカブを見た。


 ナンバープレートを見た。


 鹿児島。



「本田さん、鹿児島から来たの!?」



「はい。一昨日まで北海道一周してたんですよ」



「スクーターで? 嘘でしょ?」



「ハハハ、僕も自分で信じられないですよ」



 花が、プレスカブとナンバープレートと本田を、交互に見た。



「本田さんっていくつ?」



「旅中に十八になりました!」



「は? 学校は?」



「辞めました」



「は?」



 花が固まった。


 本田は少し笑った。



「旅するために辞めたわけじゃないですよ。僕はウジウジしてたから、学校では誰からも相手されなくて、毎日辛くて、気づいたら引きこもりになってて辞めました。それから住み込みで新聞配達で働いてたんですけど……」



 本田はスマホを取り出した。


 ロリのTwitterを開いた。


 あの時のツイートだ。


 原付キャノンボールランに出場する、と書いたロリのツイートだ。



「これを見て、新聞配達も辞めたんです。見た翌日には仕事を辞めて、アパートを借りて、原付キャノンボールランの面接を受けてました。ハハハ……」



 今度は原付キャノンボールランのHPを開いた。


 アクセスカウンター。


 参加者一覧。


 アプリの名前が、優勝者の欄にある。



 花が、スマホを受け取った。


 何度も、見た。


 ロリのツイートとHPを、交互に見た。


 顔が、少しずつ変わっていった。


 さっきまでの、縮んだ顔ではない。


 何かを読んでいる顔だ。


 何かを感じ取っている顔だ。



「これから時間ありますか?」



「まあ、あとはホテルに帰るだけなんで……」



「キャノンボールのこと、聞かせてください! 夕飯奢ります!」



「えっ? 良いんですか?」



   *



 DAIHATSUムーヴラテの後ろを、プレスカブでついていった。


 和風レストランまるまつ、という看板があった。


 本田はアプリにLINEを送った。


 帰りが遅くなります、と。



 席についた。


 注文を終えると、花が前のめりになった。



「両親は知ってるの?」



「一応……レースには親の同意書が必要だったんで……」



「お金は?」



「新聞配達をしてたんで、昼間はほとんど寝てて使う暇がなくて……」



「いつから旅してるの?」



「キャノンボールがスタートしたのは九月の頭です」



「もう一ヶ月以上も!?」



「はい。まだまだ地元には帰りませんけどね」



「地元に帰ってからどうするの? 仕事とか」



「まだ何も考えてません」



「何も?」



「はい、だっていつ地元に帰れるかわかりませんからね。考えられませんよ」



 花が、少し間を置いた。



「そ、そうだよね……でも、それって不安じゃない?」



 本田は考えた。


 不安か。


 かつては不安だった。


 毎日が不安だった。


 将来が見えなくて、今も見えなくて、全部が怖かった。



「今はタイミーで働けてるんで、新聞配達してた頃よりも将来への不安はなくなりました! むしろやりたいこととか、行ってみたい場所とか、増えちゃいました! 原付って、僕にとっての自由の翼なんです。キャノンボールに出て、本当に良かったと思ってます!」



 花が、テーブルの上で両手を握り合わせた。


 本田を、じっと見た。



「わ、私も……」



 声が、震えていた。


 ドラッグストアで怒鳴られた時とは、違う震えだ。


 あの時は怖くて震えていた。


 今は、何か別のものが溢れそうになっている震えだ。



「……私も、自由になれるかな?」



 本田は、その顔を見た。


 一年前の自分が、何かを尋ねている顔のようだった。


 引きこもっていた頃の自分が、まだ何かを求めている顔のようだった。



 本田は胸を張った。


 言い切った。



「もちろん! 原付とは、そういう乗り物です!」



 花が、テーブルに手を置いた。


 立ち上がった。


 大きな声で言った。



「そうだね! 私も明日で仕事辞めてくる!」



「えーーー! それは決断が早すぎますよ!!」



 本田が立ち上がりかけた。


 花がドリンクバーへ大股で歩いていった。


 カルピスウォーターを持ってきた。


 一気に飲んだ。



 本田は席に座ったまま、冷めきったコーヒーを見ていた。


 顔が、青ざめていた。


 自分が言い切ったことで、誰かが何かを決断してしまった。


 それが嬉しいようでもあり、怖いようでもあった。



 花がカルピスウォーターを飲み終えた。


 スッキリとした顔をしていた。


 縮んでいたあの背中が、さっきより少しだけ大きく見えた。


 さっきまでと、同じ人間とは思えなかった。



(まずいことになったかもしれない……)



 本田はコーヒーを飲んだ。


 冷たかった。


 それでも、飲んだ。



 テーブルの向こうで、花が空のカップを置いて、何かを考えていた。


 その顔は、怯えていなかった。


 久しぶりに、怯えていない花の顔だった。

DAIHATSUムーヴラテ


型式 L560S

最高出力 58ps / 7,600rpm

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