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【reverse 13 函館、最後の夜】

 朝。


 リリーに連れられて、函館市水産物地方卸売市場へ来た。



 入った瞬間に、圧倒された。



 ブリだ。


 ブリが、溢れかえっている。


 漁船が横付けになっていて、函港と書かれた作業服の男たちが、ブリを次々と積み下ろしている。


 一匹一匹が大きい。


 それが、何百匹と並んでいる。


 床が、魚で埋まっている。


 男たちの声と、魚が床を叩く音と、フォークリフトのエンジン音が混ざって、市場全体が唸っている。



 競りが始まった。


 セリ人が、早口で数字を読み上げている。


 買い手たちが、手を挙げる。


 あっという間に値段が決まって、ブリが次の場所へ動いていく。



 本田は、その光景を黙って見ていた。


 函館にこんな場所があったのか。


 夜景とイカと海鮮丼の街だと思っていた函館に、早朝からこれだけの人間が動いている。


 昨日、北洋資料館で見た写真の函館が、今もここに生きていた。



   *



 市場の二階に上がった。


 魚いち亭という食堂だ。



 リリーがメニューを開いた。


 本田とアプリに向けた。



「ほらね? ここ、クジラの料理があるでしょ?」



 本田とアプリが迷わず頼んだ。



「鯨竜田揚定食で」



「同じく」



 リリーが日替わり定食を頼んだ。


 それから追加で言った。



「イカ刺しも三人分お願いします」



   *



 イカ刺しが、すぐに来た。


 透き通っている。


 切り身が、皿の上に並んでいる。


 氷の上に乗っている。


 美しい。



 本田が醤油皿にイカを置いた。


 醤油をつけようとした。



 イカの切り身が、動いた。



「リリーさん! こいつ生きてます!」



「当たり前だよ。函館のイカ刺しは生きたまま食べるんだもん。ビビってないで食べてみてよ!」



 本田が恐る恐る口に入れた。



(なんだこれは)



 旨みが、ある。


 普通のイカとは、密度が違う。


 甘みが来て、そのあとに旨みが広がって、噛むたびにイカの味が濃くなっていく。


 これがイカか、と思った。


 今まで食べてきたイカは何だったのか、と思った。



 アプリも食べていた。


 何も言わなかった。


 でも、箸が止まらなかった。



 二人とも、あっという間に食べ終えた。



 やがて、鯨竜田揚定食が来た。


 黒っぽい揚げ物が、皿に並んでいる。


 一口食べた。



 不思議な食べ物だった。


 鶏肉でも豚肉でも牛肉でもない。


 肉の食感だが、肉の味ではない。


 魚の味でもない。


 クジラは、その間のどこかにある。


 旨いのか不味いのか、最初はよくわからなかった。


 食べているうちに、なんとなくわかってくる。


 嫌いじゃない。


 でも、もう一度食べたいかと言われると、答えに詰まる。



「ね? 微妙でしょ?」



 リリーが言った。



「は、はい……」



「私は大晦日は蕎麦が良いなって、ずっと思ってたんだよね。だから函館でもクジラ汁はだんだん無くなってきてるんだよ」



「でも、不味くはないですよ?」



「でも、好物にはならないでしょ?」



「確かに……」



「あ、でもクジラのベーコンなら美味しいよ!」



「ベーコン?」



「ここの市場で売ってるから、食べたら行ってみる?」



   *



 一階に下りた。


 クジラベーコンを売っている店があった。


 試食を一切れもらった。


 口に入れた。



「めちゃくちゃ美味い!」



 本田の声が、市場に響いた。


 店主が笑顔になった。


 もっと食えと勧めてきた。


 本田もアプリも、遠慮なく試食を重ねた。


 竜田揚げが微妙だった反動で、ベーコンの旨さが余計に際立つ。


 クジラとベーコンの組み合わせが、こんなに相性が良いとは思わなかった。



 市場を後にした。


 リリーが次の場所へ案内した。



   *



 北斗市に入った。



 バイクを止めた。


 砂浜へ降りた。



 プライベートビーチだった。


 誰もいない。


 砂浜が、三人の貸し切りだ。


 波が、静かに打ち寄せている。


 砂が白い。



 そして、海の向こうに、函館山があった。



 山全体が、海の上に浮かんでいるように見えた。


 函館山を、こんなに正面から、こんなにきれいに見られる場所があるとは知らなかった。


 市内から見る函館山とは、全然違う。


 海を隔てて見る函館山は、大きくて、重くて、美しかった。


 その山の麓に、函館の街がある。


 今まで自分たちがいた街が、あの山の下にある。



 砂浜の端に、一軒のカフェが建っていた。


 coffee room float。


 このビーチに、一軒だけ。


 他には何もない砂浜に、そのカフェだけが建っている。



 リリーが迷わず入った。


 二人もついていった。



 窓際の席に座った。


 窓の外に、函館山が見える。


 海が広がっている。


 その水面に、函館山が映り込んでいる。


 空と海と山だけが、窓いっぱいに広がっている。



 コーヒーとコーヒーゼリーが来た。


 三人で、窓の景色を見ながら飲んだ。



 しばらく誰も話さなかった。


 この景色の前では、言葉が要らない。



 やがてリリーが口を開いた。



「函館を出るのはいつになりますか? 私はもう準備万端ですよ」



 アプリがコーヒーを置いた。



「リリーは後から青森で合流しろ。俺と本田は一足先に、明日の早朝にでも青森に入る」



「えっ? また私だけ置いてかれるの?」



「俺と本田は青森で少しだけバイトする。リリーもするか?」



 リリーが少し考えた。



「あ、遠慮します……」



「リリーさんは函館でゆっくりしていてください」



 本田が言った。



「四、五日タイミーで稼いだら、今度こそ秋田県まで走りますから。せっかくのkawasakiボルティをミーハーさんに見せなくちゃですもんね」



 リリーが、窓の外の函館山を見た。



「わかった。函館で待ってるね」



「はい。必ず合流します」



 三人が、窓の向こうの景色を見た。


 海の上に、函館山が浮かんでいる。


 コーヒーゼリーが、テーブルの上に揺れていた。



 アプリがスマホを取り出した。


 フェリーの予約。


 青森での宿の予約。


 黙々と入力している。



 本田は窓の外を見ていた。


 深夜のフェリーに乗れば、明日の早朝には青森だ。


 北海道が終わる。


 長い北海道が、終わる。



 函館に入ってきた時のことを思い出した。


 稚内から南へ向かって、ずっと走ってきた。


 サロマ湖。


 知床。


 十勝スピードウェイ。


 夕張。


 栗山。


 奥尻島。


 そして函館。



 北海道は、でかかった。


 でも、走りきった。



「行くか」



 アプリが立ち上がった。



   *



 ライムライトに戻った。


 ご主人に告げた。



「今夜の深夜便のフェリーで出ます。深夜には旅立ちますので」



「気をつけてね。また来なよ」



「はい。また来ます」



 荷造りを始めた。


 テントを畳んだ。


 工具を入れた。


 着替えを詰めた。


 何度も繰り返してきた動作だ。


 手が、勝手に動く。



 荷造りを終えた時、本田のスマホにLINEが来た。


 リリーだ。



『函館を出る前に夕飯を3人で食べましょ!』



 住所が送られてきた。


 本田がアプリに見せた。


 アプリが頷いた。



 タクシーを呼んだ。



   *



 到着した場所は、夜カフェだった。


 haru-na-tei。


 外観は、落ち着いた木の看板に、柔らかい灯りだ。



 中に入った。



 店内の中央に、バイクが一台、飾られていた。


 真っ白なバイクだ。


 KAWASAKI 250TR。


 白い車体が、店内の灯りを受けて輝いている。


 カフェの空間に、バイクが一台あるだけで、部屋全体の雰囲気が変わっていた。



 美しい女性が、カウンターに立っていた。


 ハルナさん、とリリーが紹介した。


 この店の店主だ。


 そして、あの250TRの持ち主だ。



「リリーがいつもお世話になってます」



 ハルナさんが言った。


 笑顔が、店内の灯りに合っていた。



 四人で席についた。


 リリーが話し始めた。



「実はこの人の影響でバイクを始めたんですよ。この250TRにひと目惚れして、似たようなバイクを探したらボルティが出てきて」



「それなら最初から250TRを買えばよかったのに!」



「その時はボルティがハルナさんと同じバイクだと思い込んでたから仕方なかったんですもん!」



「まあ、確かに形は似てますけど……」



 本田がアプリに尋ねた。



「アプリさん、どうしてメーカーが違うのに似たようなバイクがあるんですか? カブだってヤマハのメイトにそっくりじゃないですか」



 アプリがビールを置いた。



「パクリと言えばパクリだが、あれはフレーム構造を真似するから似てしまうだけだと思えばいい。わかりやすく言うと、スクーターが全部同じフォルムなのは、フレーム構造が同じだからだ。フレーム構造はエンジンの位置やシートのポジションを決める骨組みだから、似てくるのは仕方ない。人間だって骨格が同じだから、頭があって手があって足があるだろ」



「なるほど!」



 本田とリリーとハルナさんが、三人同時に言った。


 アプリが少し目を丸くした。


 三人に同時に言われたのが、意外だったらしい。



 ハルナさんが笑った。



「あの250TR、もう十年以上乗ってるんですよ。飽きないんですよね、不思議と」



「なんでだと思いますか?」



 本田が聞いた。



「毎回、違う景色を見せてくれるからかなぁ。同じ道を走っても、季節が違えば全然違う。乗ってる自分も変わってるし」



 本田は、その言葉を聞いた。


 同じ道を走っても、季節が違えば全然違う。


 アプリが何度も北海道を走る理由も、きっとそれだ。


 同じ道が、同じ景色を見せてくれることは、一度もない。


 それだから、何度でも走れる。



 料理が来た。


 函館の最後の夜に、四人で食べた。


 バイクの話をした。


 旅の話をした。


 北海道の話をした。



 ハルナさんが、函館の夜景が見えるポイントを教えてくれた。


 リリーが、来年の春に走りたいルートを話した。


 アプリが、スコットランドのツーリングの話をした。


 本田は、全部聞いていた。


 この四人が一つのテーブルを囲んでいるのは、全部バイクのせいだと思った。


 バイクが、人と人を繋ぐ。


 行ったことのない場所へ行かせて、会ったことのない人に会わせる。



 時計が、零時に近づいた。



「そろそろ行きます」



 本田が立ち上がった。


 アプリも立ち上がった。



 リリーが二人を見た。


 少し、寂しそうだった。



「函館で待ってます。絶対に合流してくださいよ」



「はい。必ず」



「アプリさんも……まあ、よろしくお願いします」



「あぁ」



 ハルナさんが、ドアのところまで見送りに来た。



「良い旅を」



「ありがとうございます。ハルナさんの250TR、いつか走る姿を見てみたいです」



「見たければ、また函館に来てね」



 本田は頷いた。


 また来る。


 函館には、また来る理由が増え続けている。



 タクシーを呼んだ。


 タクシーが来た。


 本田とアプリが乗り込んだ。



 リリーが、外で手を振っていた。


 ハルナさんも、その横で笑っていた。



 タクシーが走り出した。


 後ろの窓から、二人が小さくなっていった。


 やがて、見えなくなった。



   *



 ライムライトに戻った。


 荷物をバイクに積んだ。


 ガレージのシャッターを開けた。


 函館の深夜の空気が入ってきた。


 冷たい。


 潮の匂いがする。



 フェリーターミナルへ向かった。


 二台が、深夜の函館の道を走った。


 街灯が、濡れたアスファルトに映っている。


 人が少ない。


 静かだ。



 フェリーターミナルに着いた。


 手続きをした。


 乗船した。


 バイクを甲板に固定した。



 出港した。


 函館の灯りが、遠ざかっていった。


 港の灯り。


 山の上の灯り。


 函館山の稜線に沿って、灯りが並んでいる。


 あの灯りの下に、ライムライトがある。


 Cafe CHI'sがある。


 中道食堂がある。


 haru-na-teiがある。


 北洋資料館がある。


 五稜郭がある。



 本田は甲板から、その灯りを見ていた。


 アプリが隣に立っていた。


 二人とも、何も言わなかった。



 函館山が、海の上に浮かんでいた。


 昼間、北斗市のビーチから見た山と、同じ山だ。


 でも、夜は夜の顔をしている。


 山の輪郭が、星空に溶けていく。



 灯りが、少しずつ小さくなった。



 本田は、船内に入った。


 毛布を被った。


 目を閉じた。



 青森に着いたら、バイトをする。


 Uberをやってみる。


 お金を貯めて、秋田へ向かう。


 ミーハーに会いに行く。



 旅は、まだ続く。


 津軽海峡を越えて、また続く。



 波の音を聞きながら、本田は眠った。


 函館の灯りが、遠い波の向こうにあった。

kawasaki 250TR


型式 JBK-BJ250F

最高出力 19ps / 6,000rpm

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