ラルフ
それからまた、ひと月。
私は定期的にエディを呼び寄せ、身の回りの仕事をさせた。
勿論、たっぷりの罵詈雑言を用意して。
最初の頃、エディの瞳には戸惑いが溢れていた。
私が放った言葉の意味を図りかねていたのだろう。
そして私にいじめられ、ぼろぼろになって、ため息をつかれ、肩を怒らせて、帰る。
その繰り返し。
変わってきたのは月の中頃だ。
仕事の合間に身だしなみを整え、私が放つ言葉にもすぐには反応を示さなくなった。ぐっと堪え、謝罪することを覚えた。
1日の終わりに、私がため息をつかず、代わりに、まだまだね、と言葉をかけると、一瞬目を見開き固まったのが、なんだかおもしろかった。
月の終わり頃。振る舞いが段々と様になってきた。
素早く身だしなみを整える術を覚え、所作が全体的に落ち着いてきた。どんな罵詈雑言も、申し訳ありませんと受け流せるようになった。
そのくせ、一日の終わりに「今の気持ちはどう?」と聞くと、あの日と変わらぬ真っすぐな憎悪を宿した瞳で、「お願いだから死んでくれと思っています」と生意気な口を利く。
それが愉快で、少し笑ってしまう。
全てが順調だった。
ほんの少しだけ、いつもより楽しい日々だった。
そう、あの日までは。
本当ならば、エディについてはあと半月ほど、様子を見る予定だった。
滅多にいない人材だったし、彼の気性を鑑みるに焦りは禁物だと思ったからだ。
けれど、そういうわけにはいかなくなった。
だから私は、エディを呼び出し、いつも通りに仕事をさせた。
「……」
1日が終わる。エディは今日もよく耐えた。
満点、とはいかないまでも、合格点には達している。
そう、判断することにした。
両手でもてあそんでいた扇をぱちりと閉じる。
そうしてもの言いたげな表情を浮かべるエディを、ひたりと見据えた。
「喜びなさい、出来損ないの子ネズミさん。おまえに明日から仕事を与えましょう」
「!」
驚きの表情を浮かべるエディに、にこりと微笑んで見せる。
「おまえには私の近くで仕事をしてもらうわ。今日やったことを毎日すれば良いの、簡単よね?」
そう言うと、眉がぴくりと動く。エディの未熟なところだ。
嗚呼本当に、もう少し時間があればよかったのに。
「それに慣れたら、書類仕事。私の支度の手伝い。そして、部屋の外でのお付き。一通りこなしてもらうわ。そうした方が、後々指示を出しやすいでしょう?」
「……?」
「一刻も早く、仕事に慣れて頂戴ね。人手が足りないのよ」
「……今日のあんたは、変だ」
「そうかしら?」
目敏いなあ、と思う。それとも私の振る舞いがまだ、至らないのだろうか。
いや間違いなく、そうなのだろう。私の未熟なところだ。恥ずべきことだ。
今日、エディに少し厳しく接してしまった自覚はある。
心が動揺して、いけないとわかっているのにどうしようもなかった。
そんな私に対して今、彼の瞳に浮かぶのは困惑だ。
彼の瞳に憎悪以外を見るのは、滅多にないことなのに。
「今日、ラルフさんが居なかった。呼びに来たのは、あんたの近くにいる、そう、クロエさんだった」
「……」
心の中で、残念、と呟く。
今日呼びに行かせたのはメニエだった。クロエとメニエはよく似ていて、長く一緒に居る人で無いと見分けがつかない。
例えばそう、ラルフのような。
「人手が足りないって、なんだ」
「……ラルフは未熟だったということよ」
扇を開いて、真っすぐな瞳、その視線を遮る。
「あの子の所為で、人手が足りないの。困ったことだわ」
そうして私は、エディを部屋に下がらせた。
静かな夜だった。
寝室には私一人。ここには最低限の掃除以外、他人を入れたことは無い。
部屋は、がらんとしている。
寝台と文机、小さな本棚以外、何も無い。
その文机に腰かけ、私はしばらくぼんやりしていた。
今日、使用人が死んだ。
それ自体は珍しくもないことだ。この狂った王宮では毎日のように人が死ぬ。
嗚呼、けれど、久しぶりだったのだ。
今日、死んだのは私の使用人だった。
名をラルフという。
彼は今居る者の中では一番付き合いが長かった、一番最初に、私が、私の意志で私付きにした使用人だった。
文机の引き出しから、小さな箱を取り出す。
鍵付きの、美しい文箱だ。
蓋の側面にはくぼみがあり、そこに鍵を嵌め、時計回りに回すと鍵が開く。
私は首にかけていた装飾品を外した。銀製で瞳に紫色の宝石が嵌まった小鳥の、綺麗で可愛らしい首飾り。
マギーが、親友であるベアトリクス――私の母に贈ったもの。
私の手元に残る数少ない母の遺品が、この文箱と首飾りだった。
小さな音がして、鍵が開く。
蓋を開け、少し黄ばんだ紙の束の下、隠すように保管していた、1冊の手帳を取り出す。
頑丈な革に小花模様が刻印されたカバー、それを開くと、淡い紫の紙面に書き記された文字が目に飛び込んでくる。
それらは一昔前に王宮で使用された飾り文字で、簡単には解読できないようになっていた。
ふ、と息を吐きながら、最初の頁を撫でる。
書いてあるのは、いつだって同じ人の名だ――マルギット・コーネラ=ハルシェイン。
「……マギー」
嗚呼、マギー。今日もまた一人、そちらへ行ってしまったわ。
そう心の中で呟きながら、ぱらぱらと頁をめくる。
手帳はそれなりの厚さがあるけれど、既に半分は文字で埋まってしまっている。
ようやく新しい頁を見つけ、私はゆっくりとペンを取った。
――ラルフ。ナクル村出身。茶髪に茶色の瞳。ひょろりとした体形。享年、18。
そうして、書く。ゆっくり、思い出しながら、丁寧に。
ラルフは穏やかな性格だけどそそっかしく、極めて運の悪い少年だった。
初めて出会った時、彼は急いで荷物を運んでいるところだった。
急いでいたため注意力が足りず、角を曲がる際目の前に人が居たことに気づかずぶつかりひっくり返り、その反動で手に持っていた花瓶の水を、ぶつかった相手――つまり、王族である私――のドレスにそれはもう見事にひっかけた。
わざとではないことは彼の顔色で知れたが、まあなんと運の悪い子だ、これは近いうちに命を落とすに違いないと危ぶみ、それなりの罰を受けさせた後に、私の臣下に引き入れたのだ。
元々真面目な性質のラルフは、よく働いてくれた。極力私の部屋周りの仕事をさせていたから、最初の時のような不運の可能性からは遠ざけることができたし、その分少しだけ深い仕事を任せることができるようにもなった。
数字が得意だったから、事務処理には重宝していたのだ。……嗚呼、それなのに。
最近、私付きの使用人が数人辞めた。
元々、王宮で長く働く者は少ない。当り前だ、気まぐれに命が奪われる悪の巣窟で誰が長く働こうと思うものか。
けれど腐っても王宮だ、他の仕事よりは給料が高い。
だから、ここに来るほとんどの者が、そうする他ない様々な事情を抱えてやってくる。
そうして目標額に達すると、逃げるように皆辞めていくのだ。
それについては特に何も思わない。というより、当然だと納得する気持ちの方が大きい。
けれど人手が足りなくなって困るのは事実だ。
だから、私はラルフに言いつけた。
今居る使用人の中から、適当に誰か見繕うように、と。
いつもは、ジョンに直接言うのだ。けれどその時は忙しく、使用人区画に行く時間が取れなかった。
それに穏やかで面倒見の良いラルフが、使用人たちに慕われているのも知っていた。
あのエディでさえ、彼を信頼していた。
だから、丁度良いと思って、彼に頼んでしまったのだ。
彼は張り切った。私が直接頼んだことだから。
そう、「頼むわね」と、私がついぽろりと言ってしまったから。
いけないと思った時には、もう彼の顔は輝き、「お任せください!」と叫んだ後だった。
第6王女は傲岸不遜、人に命令することはあれども頼みごとをするなど以ての外。
けれど、いつも緊張しきった顔のラルフがこんなに明るい表情を見せたのだから、たまには良いかもしれない、と。そう思ってしまった。
だから、新たに人が増え、ラルフが張り切って仕事をする様子を、楽しみにしていたのに。
彼は死んだ。私付きとして新たに選んだ3名を、手ずから案内していた最中に。
いつもは他に任せていたことを、今回は殿下に頼まれたことだからと、部屋の外、王宮の案内までもラルフは買って出てしまった。
そうした最中に、王族に――あの王太子と第3王女に、出会ってしまったのだ。
ラルフは新人の目の前で、嬲り殺された。
3名のうち1名は発狂し、1名は逃げ出したところを切り付けられ重傷。もう1人は何とか無事だったが、しばらくは口も利けないほど心の傷は深いという。
結果的に、益々使用人不足は加速した。嗚呼本当にままならない。嗚呼、嗚呼――どう、して。
どうすればよかった?
どうすれば、ラルフは、使用人たちは、これまで居なくなった人たちは、死なずに済んだ?
ぐるぐると、常に渦巻く疑問。嘆き。
無力な己に対する、どうしようもないほど激しい、怒り。
あの時。無理矢理にでも、時間を作ればよかった?
ラルフに頼まなければよかった?
うっかり「頼むわね」なんて、言わなければよかった?
それとも、嗚呼、すべては、私が――私たち王族が居なければ、こんなことには。
考えても詮無いことだ。起こってしまったことは変えられない。
起こり得ない、どうすることもできない「もしも」を考えてぐるぐる悩んで立ち止まるよりも、前を向く方がずっと建設的。
そんなことは分かっているのに、自問自答は留まることを知らず、この感情を抑える術など見つからない。
こんな、時。彼女が生きている時ならば。彼女の懐に飛び込み、思うまま泣き腫らすことができた。でも居ない。
もう、第二の母は、居ない。
ぽたりと雫が降ってきて、インクが滲む。
我に返り、瞼を強く閉じ、雫を拭う。
涙を流す権利は、私には無い。
私だって王族の一員で、国民全員にとって私は、加害者側だ。
王宮で命を落とした者、その殆どは、家族に知らされることなく、故郷に帰ることなく、人知れず運ばれ、処理されていく。
命ある時は名があり、意思があり、家族があり、どこかで誰かと繋がっていた筈の彼ら彼女らは、命を無くした瞬間、只のモノになる。
誰もが生きるのに精いっぱいで、既に生が無いモノに対して気を払える余裕は誰にも無い。だから、墓など存在しないし、いつどこで誰が死んだなんて、いちいち誰も覚えて居りはしない。
それを責められる筈は無いし、こんな状況では当然だと思う。
でも、だから、せめて。覚えておこう、と思った。
マギーをはじめとする、私の使用人たち。その家族。
私とは直接関わりがなくとも、ジョンやクロエたちの口から、もしくは風の噂で聞こえてきた、もう既に居ない、無数の人々の名を。
その、人生の軌跡を。出来得る限り。
そうして出来上がったのが、この手帳だ。
人の頭には限界がある。だから、文字に書き起こした。
母の遺品の中にあった、白紙の美しい手帳の中に。
今は廃れた、美しい飾り文字を用いて。もう居ない人々の、記録を。
これは墓だ。
悼まれ偲ばれることも無いまま消えた人々への、これが精一杯の、私の餞だ。
ペンを置き、じっと文字を見つめる。
――ラルフ。有難う。ごめんなさい。
――あなたという命を、あなたという存在を。決して、無駄にはしないから。
もう一度、ぎゅっと瞼を瞑り。そうして、丁寧に手帳を閉じる。
手帳を文箱に戻し、ゆっくりと立ち上がる。
もうこれ以上、失うわけにはいかない。
決意を新たに、私は明日へと思いを馳せた。