エピソードⅠ【アホのナカダテ】(1)
それは本当にアホな行員だった。
中館翔平。三十三歳、独身。泉が森支店の営業課の係長だ。
泉が森支店は、A地方銀行の首都圏近郊の支店だ。花岡市にある。A銀行のなかでは中の上といった規模の支店である。
「アホのナカダテ」泉が森支店ではそう呼ばれた。昼休みの食堂ではその名がたびたびもれ聞こえてきたし、飲み会の席ともなれば、「おい、アホのナカダテ」、「―ったく、アホのナカダテは」皆が抵抗感なく口にした。
さすがに、営業室でそう呼ばれることはなかったかもしれないが、誰もが頭の中では、「ナカダテ」のアタマかケツに「アホの」を付加していたにちがいない。「アホノナカダテ」まるで本名のようだ。
本人も気にする様子はなかった。嫌悪感を抱いているようには見えなかったし、むしろ、まんざらでもないと思っているきらいすらあった。自分への親近感の表れ、とでも勝手に解釈していたのだろうか。
アホのナカダテが泉が森支店へ着任した当初からそう呼ばれていたわけではない。いつの頃からか、樹木から新芽が吹き出すようにそう呼ばれるようになっていた。
だが、そう呼ばれるようになってみると、妙にそれがしっくりくる。風貌のせいか、人柄によるものなのか。もしかしたら本人が勘ちがいしているかもしれないとおり、言葉の意味とは裏腹に、そこには親和性が漂っているのかもしれない。少なくとも、敵ではないと認知されているようには聞こえる。
アホのナカダテが泉が森支店へ赴任してしばらく経った頃、ナカダテの前任店でのポカが支店内に広まったことがあった。それが、アホ、アホとナカダテが連呼される発端になったのかもしれない。それは本当にアホなポカだった。
ナカダテの前任店は、A銀行のお膝元の支店だった。お膝元とは本店のある地域を指す。地方銀行では県庁所在地になる。アホのナカダテの能力からして彼が本店に所属するはずもないから、彼が在籍していたのは、本店に次ぐクラスの支店の、さらにその支店名に東、西、南、北の方角が冠された支店だった。本店の孫店だ。
高度成長時代の地域商店街の隆盛にともなって開設された衛星店舗だ。行員数も十名に満たない小規模店だ。その支店でナカダテは、一般行員から係長に昇進していた。平から役席への登用だ。
役席といっても係長は、かつては自動昇進の職位だった。一斉に誰でもなれる職位だ。
入行後八年も経って新入行員と同じ平というのもやる気を削ぎかねない。三十の大台に乗る年齢だ。独身ならば、結婚に関して周りがとやかく言い始める。そんな諸事情に配慮したのが係長職だ。比較的最近になって新設された職位で、A銀行でも、バブル経済崩壊ののち十年が過ぎた頃に設けられた。
徐々に自動昇進から選抜昇進へと移行していったが、入行後の八年間に大きな問題がなければ、ほぼ昇進は認められる。だから、昇進といっても喜びは中ぐらいといったところだ。給与も上がるには上がるが、昇進の難易度に応じた気持ち程度といったところだから、結局、喜びは中ぐらいだった。
地方銀行において最も注目される職位は、やはり支店長代理だ。
支店長代理といっても、支店長の次に偉いわけではない。支店長に次ぐ職位は副支店長だ。支店の規模が大きい課制店ならば副支店長の下に課長がいて、課長の下が支店長代理だ。課制店でなければ副支店長の下が支店長代理になる。支店長代理の下が係長だ。
支店長代理は役席としては下から二番目にすぎないのだが、地方銀行においては、係長から支店長代理への昇進がなんといっても重要だ。実質的な線引きの開始となるからだ。昇進者の数もぐっと制限される。昇給率も一番高い。支店長代理への昇進時期が、銀行員人生の出世競争に大きく影響する。
余談だが、支店長代理などの職位とは別に、主査とか主事とか副参事といった資格がある。資格は全部で八個だ。資格ごとにA、B、C、D、Eのランクがある。「職位」と、五ランクの八個の「資格」が組み合わされて、A銀行の全行員五千人が序列づけられる。
客観的に公正な評価のもとでの五千人の順位づけなど、絶対的に不可能に近い。人が最大の資源であり、一定の地域密度を保って支店を設置しなければならない地方銀行では、こうした複雑な人事評価システムが権力維持の手段として有効となる。客観性が見えないから、上の人間の好みでどうにでもなる。
さて、前任店でアホのナカダテが起こしたポカとは何か。それは、まったく聞いたこともないようなポカだった。
係長になって移譲される権限は、単純事務の検印と店舗管理だ。権限が委譲されるというよりは、単に責務が拡大するだけだ。店舗管理に関しては、甲種重要鍵である店舗通用口扉鍵や金庫中扉鍵を肌身離さず持ち歩かなければならない。甲種の甲とは甲、乙、丙の甲だ。最も重要との位置付けだ。
甲種重要鍵は自宅にも持ち帰る。慣れないうちは、飲み会がある日などちょっとした緊張ものだ。甲種重要鍵の紛失は人事懲罰委員会への付議事項だ。将来の昇進にも大幅なマイナスで影響する。
といっても、役席ほやほやのナカダテが甲種重要鍵を紛失したわけではない。鍵以上に重要な金庫外扉のダイヤル符号表を金庫内に収納しただけだ。
分厚い超合金の金庫外扉はダイヤル錠だ。パカっと小さなふたを開け、左右二つあるダイヤルの暗証番号をそれぞれ回してロックを解除する。ダイヤルには0~99の目盛りが刻まれている。ダイヤルの六個の暗証番号を記載したのがダイヤル符号表だ。それをナカダテは最も安全な場所に保管しただけだった。
金庫外扉のダイヤル番号は、支店長が交代したら変更する規定になっている。
ナカダテの前任店の支店長が交代となった。新しい支店長が着任した週の金曜日の夕刻だった。ナカダテが担当役席として、業者の金庫ダイヤル番号の変更作業に立ち会っていた。
本部指示にもとづき、変更作業終了後にダイヤル番号が記載された指示書は廃棄した。ダイヤル番号をメモなどで持ち歩くのは厳禁だ。最高の機密事項だからだ。
新しいダイヤル符合表は金庫内の最も機密性の高いAランクキャビネットに保管する。同時に、万が一の場合に備えて僚店の金庫に符合表の副表を預ける。僚店とは一番近い支店だ。副表は控えだ。
翌週月曜日の始業時刻になった。鍵当番の役席が金庫ダイヤルを回し始めた。甲種重要鍵は、支店長以外の役席が二週間交替で持ち歩く当番制だ。
「ん?」
カチッ、というダイヤルの合致音がしない。再度チャレンジする。
「ん?」
やっぱりダメだ。そういえば先週、支店長交代によるダイヤル変更作業があったな、とその役席は思い出す。
「中館係長! 新しい金庫ダイヤル番号は?」
金庫扉の前から、営業室の反対側にあるナカダテの席に向かって大声で尋ねた。
「金庫内に保管しました」
チッ、という役席の舌打ちが聞こえる。
「──じゃなくて、番号はいくつ?」
「番号はいくつって?」
「おまえ、メモってないの?」
「メモは厳禁でしょう!」
「──それは建前に決まっているだろうが。誰が二桁の六個の番号を二通りも覚えられるんだよ! どこかに控えてないのかよ?」
「控えてません!」
支店内が騒々しくなってきた。自分の頭のうえを大声で飛び交うふたりの役席の会話に、支店長もイライラし始めていた。
支店長は必死に冷静を装っていた。支店長たる者、部下からの正式な報告を受けるまで動いてはならない。行員の会話にいちいち反応していては、支店長の沽券に関わる。
支店長の内心を察知した鍵当番の役席が、支店長の席に飛んできた。
「支店長、大変です!」
あくまでも支店長は悠然と構えている。
「どうした?」
「金庫が開きません!」
「新しいダイヤル符合表の副表を僚店からファックスしてもらえばいいだろう」
事のなりゆきは支店長も了知している。
「……それが、まだ僚店には預けていないと思います」
ナカダテが僚店へ行ってきた記憶が、その役席にはなかった。
「な?」
とナカダテに確認を求めると、
「はい!」
明快な答えが返ってきた。
「じゃ、どこにあるんだ?」
支店長が声を荒らげた。
「金庫内のAランクキャビの中です!」
ふたたび、ナカダテが明快に答えた。
「なにー?」
支店長は口から泡でも吹き出しそうになりながら、身体をのけ反らした。
金庫外扉のダイヤル番号は、銀行において最大の機密事項だ。事務管理部も乱数表によって番号を選定し、控えも一切保管しない。業者も紙ベースでの保持は厳禁と強く言い渡されている。どうする?
残る手段はナカダテの記憶だ。「最初は36と58……85だったかな?」一番目の数字もおぼつかない。次元がちがいすぎる。
奥の手は、金庫をぶち破る!
ということで、解体業者が急きょ呼び出され、金庫室のコンクリートの側壁をぶち抜く事態になった。
その支店はもちろん、本部においても、終日、前後左右東西南北もわからないほどの騒ぎとなった。
不思議と翌日には、夜通し荒れ狂った台風が太平洋上へ抜けた朝のように、騒ぎは収まっていた。
誰もおとがめを受けなかった。すでにその支店の廃止が決まっており、半年後には、金庫室側壁の補修跡もろとも、店舗自体がきれいさっぱり消滅する運命だったからだ。




