特別編:【ある少年から見た団地の異常な家族】
***今回は特別に、家族視点ではなく周囲にいた人の視点を書きました***
俺がいつも一緒に登下校している奴がいる。同じ団地の隣の階段で、クラスも一緒のやつだ。あいつは3人兄弟の長男で、下に妹が2人いる。
はっきり言って、あいつんちは異常だと思う。こんな子供の俺に何がわかるかって? 子供は大人が思っている以上に、周りの空気を肌で感じ取っているものだ。あいつんちは、どう見ても普通じゃなかった。
うちの母親もよく言っていた。あいつの母親が付き合っている、いわゆる「お茶飲み友達」は近所でも鼻つまみ者で、誰も相手にしていない。それなのに、あいつの母親はしょっちゅうその人とあいつんちでお茶飲みをしているらしい。「どうせ悪口大会と自慢大会だわよ。あそこの母親たちは本当にそれしかしない人たちだから」と、うちの母親もうんざりした顔で言っていた。
パート先でもあいつの母親はずいぶんと浮いているらしい。マウントを取ることが生きがいなのかというくらい人を下に見る性格で、自分の息子の自慢と次女の話しかしないそうだ。周囲のみんながしっかり者の長女を見て同情しているというのに、長女のことは悪口しか言わないらしい。
次女のほうは、あいつの母親から異常なまでに可愛がられていた。誰の目から見ても痛々しいほどで、もう小学校の低学年でそれなりに大きいのに、まるで幼児のように扱われている。
その次女自身も、正直言ってかなり性格が悪い。周りの男子からは「ボス」なんて呼ばれているけれど、ちょっとでも自分の意見に逆らうものなら口撃がすごくて、みんな面倒くさいから「はいはい」とやり過ごしている。少しでも口答えしようものなら、何倍にもなって返ってくるし、あの母親がすぐに出てくるからだ。
だからといって無視するわけにもいかない。そんなことをしようものなら、あの母親が何をするかわからないから、みんな必死で用心していた。子供だってそれくらいの処世術はわかる。親からも「あそには関わるな」と釘を刺されていたのだろう、うちも含めてみんなそうだった。
それから、あの父親だ。
父親は、俺たち団住まいの人間をどこかで見下している感じがした。自治会の集まりなどでも、俺たちの親に対して上から目線で、「自分は周りとは違う、できる人間だ」という態度を絶対に崩さない。結局は俺たちと同じように団地に住んでいるくせに、何様なんだかさっぱりわかったもんじゃなかった。
そして肝心の、いつも一緒にいるあいつについてだ。
いつも一緒にいるからといって、決して親友でも友達でもない。ただ隣の階段に住っていて、同じクラスというだけで一緒にいるだけだ。向こうも同じように思っていたはずだ。1人でいると「友達がいない」と思われるから、お互いに仕方なくつるんでいた。
あいつは外ヅラだけはいい。勉強もできるし、クラスの委員をやったりして先生の信頼もあり、みんなをまとめている「ふり」が上手かった。俺に言わせれば、まとめてるんじゃなくて「ただ流しているだけ」なんだけどね。まぁ、それでクラスがうまく回っているのだから、ある意味では正解なのかもしれないけれど……。
でも、親切なふりをしていながら、他人のことには一切関ろうとしない。その距離感の取り方のうまさはすごいなと、ある意味で感心していた。
それに、とにかく成績が異常に良かった。
あいつの父親が「将来は弁護士にする」と息巻いていて、勉強のプレッシャーが相当きつかったらしい。ある時、あいつがボソッと言っていたのを覚えている。
「うちの親父も母親も、あんな頭のおかしい人間だ。遺伝子を引き継いでいる俺が、頭いいわけないのに馬鹿じゃないか」
あいつの母親も「長男なんだからしっかりしなさい」といつも締め付けていた。以前、あいつがため息まじりに「ここは東京なのに、頭の中が田舎の古い価値観のままで馬鹿みたいだ。頭がおかしいんだよ、うちの親は」と呟いているのを聞いたことがある。俺は面倒くさいことに巻き込まれたくなくて、何も聞いていないふりをした。いつも冷めた目をしているあいつが、あんなふうに本音をこぼすのは珍しいなと思ったけれど。
ある日、教室にあいつの妹(長女の方)が習字道具を借りにやってきた。俺が間に入ってあいつに取り次いでやった。
あいつは妹から事情を聞くと、無言でこちらを振り返り、「めんどくさいなぁ。迷惑かけるなよな……まったく、貸さなかったら俺が周りからいろいろ言われるじゃないか」とブツブツ文句を言いながら習字道具を取ってきた。
いざ振り返ると、妹の姿はすでに消えていた。「まったく手間かけやがって、なんで俺があいつの教室まで行かなきゃいけないんだよ」と不機嫌そうに吐き捨てるあいつを見て、俺は面白半分で「一緒についていってやるよ」と声をかけた。あいつの妹がクラスからいじめられていて、担任からもターゲットにされているという噂を聞いていたからだ。
あの担任もおかしいと有名だった。奥さんと離婚してからちょっと精神的にバランスを崩したらしいと、母親たちの間で噂されていた。以前にも何度かクラスを崩壊させていて、今回は一人の生徒をターゲットにすることでクラスの結束を保っているのだろうと、親たちがヒソヒソ話していたのだ。どんな感じなのか野次馬根性で見に行ったが、すでに妹の姿はなく、あいつは長女のクラスの男子に「これ、渡しといてくれ」と習字道具を押し付けて自分の教室に戻っていった。
そして放課後、俺が「お前の妹、いじめられてるらしいじゃん」と声をかけると、ちょうど廊下にその妹の姿が見えた。あいつもきっと目撃していたはずだ。
それなのにあいつは、
「あいつはね、お母さんといつも言ってるんだけど、目黒川のドブ川をどんぶらこどんぶらこと流れてきたんだよ。だからばい菌なのかもな。しかも、いつかお金持ちの優しい親が迎えに来るなんて馬鹿なことを言い返してくるんだ。そんな親がいるわけないじゃんね」
なんて、薄笑いを浮かべて話し出した。いくらなんでも、この家族は狂っている――そう肌寒く感じた瞬間だった。
その直後、妹が走り去っていく姿が見えた。それを見たあいつは、ようやく面倒くさそうに廊下に出ていき、妹が落とした習字道具を拾い上げると「ちゃんと返せよな……」とボソボソ呟いた。
俺は正直、「それだけかよ」と思った。追いかけもしないし、これっぽっちも興味がなさそうだった。なら、さっきあんな冷たい言葉を吐いたのは何だったのか、本当に理解できなかった。
あの家族は、あの長女に対していつもおかしな言動を繰り返していた。まるで長女を身代わりのターゲットにすることで、家中の危うい平穏を何とか保っているような、そんな歪んだ空気を感じた。学校のあの担任がやっていることと、全く同じ構造に見えた。家族の誰もが、長女を犠牲にすることで自分たちの正気を保っている――そんな気味悪さがあった。
帰り道、自分たちの団地の近くまで来ると、前方に長女の姿が見えた。あいつから「ちゃんと返せよ」と言われていたのだろう。だけど俺は、なぜか気まずくて、思わずニヤニヤと笑い笑みのようなものが漏れてしまった。
笑いたかったわけじゃない。ただ、その場の気まずさと、どう反応していいかわからない感情のせいで、引きつった笑いになってしまったのだ。
長女と視線が合った。あの子は何も感じていないような、すりガラスの向こう側を見ているような目をしていた。けれど、不思議と涙目はしていなかった。あの目は、子供心に忘れられない。
中学になり、クラスも離れ、高校も別々になった。あいつとは一切関わりがなくなったが、我が家の情報通の母親が、時々仕入れてくる噂を話してくれた。
高校を卒業すると、あいつは地方の大学へ進学したらしい。そして長女の方は、まだ高校生なのに「自分で自立する」と言い出し、奨学金とアルバイトで家を出て生活を始めたそうだ。
その話を聞いたとき、うちの母親はこう言っていた。
「よかったわねぇ、あの子もようやくあの地獄から抜け出せたんだわ。私、ずっと思ってたのよ。早くあの家から逃げなって。周りの人間も誰も直接は助けてあげられなかったけど、みんな『早く逃げろ』って祈るような気持ちで見ていたんだから。あの毒親たちから離れられて本当に本当によかったわ……。長男も大学で逃げ出せてよかったわよね。もう一人の妹は、あそこまで母親にベッタリ執着されちゃって、本人も性格が歪んじゃってるからどうしようもないけどね。
……そういえばあそこの母親、いつも『私たちの家族は理想の家族よ』なんて自慢していたけれど、そんな『理想の家族』なんて、どこにも存在してなかったのね」
母親のその言葉通り、あいつの家は完全に狂っていた。
あの母親は、息子が有名大学に進学したことをいいことに、周囲にずっと自慢話を言いふらしていたらしい。「自分が仕送りのためにどれだけ苦労してやりくりしているか」を生々しく語り、息子が大学を卒業して戻ってきたら、今までの苦労を盛大にねぎらってくれると本気で信じ込み、それすらも自分の自慢の種にしていたそうだ。
そして、いざ大学卒業の時期になった。
しかし、あいつが実家に帰ってきた気配は一向になかった。近所の噂話では、「どうやらあいつはそのまま行方不明になって、二度と戻らないらしい」という話が流れた。
それなのに、あの母親は「海外赴任しているから、なかなか日本に帰ってこないのよ」と、しばらくは強がって嘘を言い続けていたらしい。だが、その虚勢を張るのにも疲れ果てたのか、いつの間にか、あの異常な一家は団地から姿を消していた。
たまに、あの長男や長女は今頃どうしているのだろうと思い出すこともある。
だけど、あの日々を思い出すだけでもぞっとする。あの家族とは二度と、どんな形でも関わりたくない。
「理想の家族」なんて幻影はどこにもない。俺は俺の、穏やかで平穏なテリトリーの中で、自分の人生をしっかりと生きている。あの異常な一家の記憶は、もう遠い昔に、心の奥底の彼方へと追いやってしまったのだから。




