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第29話 早く行こうよエデン

約束の日。


エデンはいつものように歴史教師の前で静かに本を開いていた。

もっとも、文字はほとんど頭に入っていない。


(……そろそろだな)


エデンは本を閉じ、あくまでも何気ない自然な動作で席を立った。


「少し、外の空気を吸ってきてもよろしいですか」


歴史教師はページをめくる手を止めず、

「ええ、どうぞ」とだけ答えた。


引き止める気配も、疑う気配もまったくみられない。彼は最初からエデンの行動に、いっさい興味がないように思えた。


エデンは軽く頭を下げ、静かに部屋を出る。


そして、辺りに人影がないことを確認すると、庭の片隅に隠していた荷物を引っ張り出した。


古い布袋には、短剣と、こっそり手に入れたランタン、貴族と言う事がバレないように身にまとう汚れた布。


さらに、母譲りの黒髪が目立たないように帽子を深くかぶる。


(今日ばかりは、誰にも見つかるわけにはいかない)


エデンは人目を避けながら駆け足で約束の場所へ向かった。






「おい、こっちだ」


背後から声がして、エデンの肩が思わず跳ね上がった。


振り返ってみると、茂みの合間からノエルの黒い頭がひょっこりと覗いていた。


「なんだ、ノエルか……びっくりしたじゃないか」


「ごめんよ。でも、この地区じゃ黒髪は目立つだろ。だから隠れて待ってたんだ」


「ああそういうことか、それならば私も帽子を被ってきた。今日ばかりは誰かに見つかるわけにはいかないからな」


ノエルは見慣れないエデンの帽子を見て、ふっと笑った。


「やっぱり、考えることは同じだね――」


二人とも、この日をどれだけ楽しみにしていたことか――


顔を見合わすと、二人の足はまっすぐ茂みの奥へと進んだ。


「ここからは近いのか?」


「すぐそこ」


その場所は、エデンの屋敷からさほど離れていない。


何の変哲もない茂みの奥――草むらに埋もれるようにしてエデンが言っていた鉄の蓋が姿を現した。


「ここだよ」


ノエルが得意げに胸を張る。


すると、さっそくエデンは蓋に手をかけ、まず持ち上げようとした。


――だが、びくともしない。


「これって……むちゃくちゃ重たいじゃないか。ノエルはこの蓋を一人で持ち上げたのか?」


「えっ……いや、その……持ち上げられなかったから、ちょっとだけずらして中を覗いたって言うか……」


ノエルは蓋の端を指で示した。


「ほら、ここ。ここに指をかけてずらせば、横にけっこう動くんだよ」


エデンは呆れたように眉を寄せた。


「それだけで“抜け穴”と言ったのか?」


「だって! ほら、見てよ!」


ノエルは蓋の端に指をかけると、エデンに説明した通りその重たい蓋を少しだけずらしてみせた。

ガリガリ……と鈍い音がして、蓋がほんの少しだけ動く。


その隙間から、暗い穴の底へ続く階段が見えた。


「ほら! ちゃんと階段があるだろ。この先が通路になってるんだよ」


エデンは、ノエルに言われるまま隙間を覗き込むと、確かに石段が続いているのが確認できる。


「……本当だ。これは確かに抜け穴かもしれない――」


「でしょ!」


ノエルは嬉しそうに笑う。


一方でエデンは、その重厚な蓋を見つめ静かに言った。


「これは――やっぱり二人で力を合わせなければ無理だな――」


「うん。じゃあ、せーので持ち上げようか――」


そして二人は、蓋の両端に手をかけると「せーの!」の掛け声と同時に渾身の力を入れた。


蓋がゆっくりと持ち上がる。


穴の奥から吹き上がった冷たい空気が、ノエルとエデン二人の頬を撫でた。






階段を降りると、そこは狭い石造りの通路だった。

天井は低く、子どもが二人並んで歩くには少し窮屈だ。


「先に僕が行くよ。言いだしっぺは僕だから」


不安を振り払うようにノエルは胸を張って一歩踏み出した。


「……エデン、ついてきてる?」


暗闇の中、用意したランタンは頼りなく前方を照らす。しかし後方は返ってくる声だけが頼りだ。


「もちろんだとも」


エデンの声は少しだけ震えていた。もちろんノエルだって平気なわけではない。


二人が潜っているのは得体のしれない地下通路だ。もしかしたら、途中に落とし穴があったり、分かれ道があって二人がはぐれてしまう可能性だってある。


だがしかし――


通路は思ったほど複雑ではなかった。

曲がり角もなく、ただまっすぐに続いている。もちろん落とし穴だってない。


「……なんだ、もっと迷路みたいになってると思ったのに」


ノエルが言うと


「うむ。拍子抜けだな」


エデンがそうこたえる。


少し歩くと、前方の暗闇にほんのりと明かりが差し込んでいるのが見えた。


「……エデン、見て! 光だ!」


二人の胸が一気に高鳴る。


出口には、もう一枚の鉄の蓋があった。上の隙間から、外の光が細く差し込んでいる。


「……ねぇ、エデン。出口だよ」


「とりあえず蓋を少しだけ持ち上げてみよう」


「うん!」


二人は蓋の端に手をかける。


「せーの!」


ズズズ……と音を立てて蓋がわずかに持ち上がった。




――その隙間から二人が見た景色は――


流れる水のきらめきと、石造りの水路。その脇には柳が揺れ、風にそよいでいる。


そして、水路の先には二人が今まで見たこともない建物が並んでいた。


木造の柱、反り返った瓦屋根。行き交う人々は見慣れぬ夏国様式の衣をまとっていた。



「……これが……夏国様式の街並み……?」


エデンは思わず、そうつぶやき――ノエルは目を丸くして息を呑んだ。


「すごい……本当に……塀の外って、こんな世界なんだ……」


二人は蓋の隙間から身を寄せ合うようにして外を覗き込む。


塀の中の整然としたエーデル様式とはまったく違う世界。 混ざり合う色も、音も、匂いも、二人にとってすべてが初めてだった。


ノエルが小さく呟いた。


「……早く行こうよ、エデン」


エデンはしばらく黙って街を見つめていた。

あの教師から聞いた世界が今、現実となって目の前にある。


「……うむ。行こう、ノエル」


二人はそっと蓋を押し上げ、憧れの外の世界へと足を踏み出した。


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