第三十四話 手記 終
しん、と冷たい静寂が辺りに満ちる。蜘蛛は凝然と立ちすくんでいた。
「聞こえなかったの?」
戸惑う蜘蛛に追い打ちをかけるように彼女が告げる。
「私を食べてと言ったのよ」
なぜ――?
動揺のあまり彼の慣れない巨体がぐらりと傾ぐ。いや、動揺ばかりではない。事態を呑み込めない焦りと、信じ難い言葉への怒りがない交ぜになり、わけもわからず魔女の身体に縋りついた。
「そうよ、そのまま、私に牙を立てなさい。そうすれば、あなたはもっと強くなるから」
魔女の言葉にはっとして、慌ててその場から身を引いた。
彼女は空腹と疲労のあまり錯乱しているのだ。蜘蛛はそう考えて、咄嗟に身体を縮めると、穴の壁を這って天井の鉄格子の向こうへと姿をくらませた。その姿を目で追いながら、魔女は深くため息をついた。
――何を躊躇することがあるの。
そう、心の中で彼に叱咤して。
一方蜘蛛は、森を這い回って必死に餌を集めていた。なんとかして魔女の正気を取り戻したかったのだ。身体を巨大化し、以前魔女が好んでいた木の実や蜜の花を採り、口に放り込んで再び地中深くへ戻る。
彼が差し出した供物を魔女は拒んだ。微かに首を振り、彼にいたわりの目を向ける。
「ごめんなさい。これは私が選んだこと。それに今更何を口にしても、この身体は朽ち果てるだけよ。こうして声を出すのも、やっとなの。あと一晩もすれば、冷たくなっていることでしょう」
――なぜそこまでして、あの男のために命まで削らなければならない。
蜘蛛にとって魔女の頑なな決意は到底理解できるものではなかった。その唇で一言命じてくれたら、どんなことだってやってのけるのに。あいつの妻も子もまとめてこの毒牙にかけてやるのに。
どうしようもなく悲しくて、蜘蛛は魔女の身体につっぷした。ふさふさとした体毛の感触を胸に受け、魔女は心地よさそうに瞼を閉じる。
「馬鹿だと思うでしょう。私もつくづく自分に呆れるわ。でも、自分の心の底にある欲望に背を向けるのは、もうやめることにしたの。確かにあの人は憎い。私を愚弄して、貶めて、利用するだけ利用して……。いつか復讐してやるって、そう強く思ったわ。だけど同時に、あの人の望みを叶えてあげたいって、そんな気持ちがうずまいて消えないの。初めてなのよ、誰かを欲しいと思ったのは。自分のものにしたいとか、喜ばれたいとか、そう、たぶん、愛というものを、この歳になって初めて知ったのだわ」
もっとも、愛を知らずに生きてきたから、世間一般の認識とはかけ離れた歪な感情かもしれない。それでも、復讐心と愛という相反する欲望を叶えようと、今回の計画に乗り出したのだ。
「私は欲張りなのよ。どうしようもなく。あの人の望み通り捕まって、屋敷も何もかもみんな差し上げる。だけど、いつかわからない遠い未来に――私は再び蘇って、あの人の子孫から何もかも奪ってやる、わ……っ」
言い終わらぬうちに激しく咳き込んだ。ひゅうひゅうと断続的に荒い呼吸を繰り返す。蜘蛛はただ魔女を見下ろしておろおろとするだけだった。魔女の力を分け与えられても所詮は蜘蛛、彼女の身体の衰弱に為す術も無い。
「そんな悲しい顔をしないで頂戴。それより、私が本当に死んじゃう前に、早く、私を食べなさい」
嫌だ。蜘蛛は首を振った。魔女は悲しげに眉を寄せる。
「どうして? これは、私に尽くしてくれたあなたへの気持ちなのよ。今やあなたのお仲間も金色に染まって新たな力を手にしたでしょう、だけどあなたは更に私を食べることで、きっと他の子よりも強くなれるのよ。そうしたら、もうあなたを臆病者と揶揄する者はいなくなる。決して独りじゃなくなるわ」
魔女の言葉に、蜘蛛は激しい憤りを感じていた。蜘蛛はそんなことを望んではいなかった。ただ愛する魔女とずっと屋敷で暮らしていられればそれで良かったのだ。同種族から虐められようと、蔑まれようと、そんなことはどうでもいいことだった。
もしも自分に涙があれば、きっと滝のようにあふれ出ていることだろう。かつて魔女があの男のために流したように。いや、その何倍も激しくむせび泣いたに違いない。
蜘蛛に人間のような感情表現のないことが悔やまれた。この気持ちを伝えたいのに。溢れんばかりの彼女への愛を知ってほしいのに。
蜘蛛の腹からするすると金色の糸が伸びて、魔女の身体に柔らかく触れた。白磁のような肌に溶け入るようにそっと這い、優しく絡められていく。その時、魔女は閉じていた瞼を開け、真白の瞳を震わせた。
「まあ……」
感嘆の声を漏らし、自分に覆い被さる蜘蛛を見上げる。そして、こけた頬にうすらとえくぼをたたえた。
「ありがとう。そんな風に思っていてくれたのね」
魔女は息を吐き、わずかに指先を動かして、手のひらに絡まる糸に触れた。
「この糸、あなたの考えがだだ漏れよ。全部伝わってくるわ」
魔女の力は蜘蛛に思わぬ能力を与えていた。意思が金の糸に乗って、触れた相手に流れ込んでしまうようだ。戸惑う蜘蛛の姿にクスッと笑って、魔女は口を開いた。
「あなたがそれほど私を愛してくれるなら、一層お願いするわ。私の身体はどうせ、放っておけば朽ちていくだけ。それならせめて、あなたの役に立って消えていきたいの」
誰かの生き様に痕を残して死に絶える。以前ならそんなこと、望んでも決して叶うはずのない夢だったのに。
「無様な最期だったけれど、それでもあなたの中で私は生き続けられる。私の生には意味があったと、そう証明できる。だからお願い、私を愛してくれるなら、どうか、私を――」
言葉を紡ぐごとにその声はしわがれ、掠れて、やがてふつりと途切れた。目は開かれ意識はある様子だが、とうとう喉を震わす力さえ失われてしまったのだ。
霧の立ち込めたような白い瞳が、神秘的な光を湛えて蜘蛛を見上げていた。かつて自分を肩に載せ、手のひらに載せ、優しく歌ってくれた時のような、慈愛に満ちた瞳であった。この瞳だ、この瞳に見つめられて、これまで彼女の味方にならなかった生き物はいない。蜘蛛だけではない、蛇や蛙やねずみや兎や、猫や鴉――屋敷に集う全ての生き物は、みんな魔女の虜だった。そして蜘蛛は、その中でもひと際彼女を愛していたのだ。
その神秘的な白い瞳の奥で、今にも消えそうな命の灯火が陰々とまたたいている。
蜘蛛はその巨体をゆっくりと地に伏せた。そっと優しく、愛おしむように魔女の身体を組み敷いて、その首筋に牙を突き立てた。
ぶつり、と皮膚を突き破る感触がした。生温かい血が溢れ出て蜘蛛の触肢を濡らす。魔女の口から低い吐息が漏れる。苦痛を感じているのだろうか、それとも、長い長い人生に終幕を降ろす安堵のため息なのだろうか。
蜘蛛は心の中で泣きながら、愛する人の体液を啜った。金の糸は魔女の身体にますますしっかりと絡みつき、溢れるばかりの彼の愛情を、思慕の心を魔女に訴え続けていた。
*
遠のく意識の濁流に沈みながら、魔女はぼんやりと一人の男の顔を思い浮かべていた。捕食される痛みと、男に対する切ない胸の痛みが混じり合い、混濁して、わけがわからないまま、流れ込んでくる愛の意識を受けながら沈み続けた。やがて意識を手放したとき、その頬には微かな笑みが浮かんでいた。
青い月の光も届かぬ、深い闇の水底で、一つの命が尽きていった。恐ろしい愛憎の計画を世に残して。





