第三十三話 手記 九
深い闇の水底で、淡い吐息を漏らしながら魔女は横たわっていた。骨が砕かれ、内臓も大きく損傷したであろう痛みに耐えながら、幾日も幾日もそのままで、じっと瞼を閉じている。
か細い月光と薄ら寒い陽の光が交互に差すのを幾度繰り返したのか、数えることすらしていない。自分がここに入れられてからどれほど時が経過しているのだろう。激しい空腹を訴えていた腹も今はしんと鳴り止んでいる。
何も口に入れなければ、いつか肉体も朽ち果てるだろう――そう、冗談交じりに口にしたこともあったが、まさか本当に試すときが来ようとは思いもしなかった。
水の一滴も口にしていない身体は、指先までもがからからに乾いていて、最早ぴくりとも動かすことができなかった。抜き取った臓器は全て再生しているはずなのに、身体の隅々まで空っぽになっている気さえする。
これほどの飢餓に陥ったことがかつてあっただろうか。記憶の彼方に埋もれた時代のどこかで飢餓刑を与えられたことがあった覚えがあるが、いつも途中で脱走することで死の淵から逃れていたのだ。逃げる手立ても、その気もない今、正直に言って耐えがたい苦痛である。
ふと、傍で何か小さな気配が動いたのを感じた。闇に紛れて目視し難いが、慣れ親しんだ気配である。
「どうして来たの」
声は酷く掠れていてまともな音にならなかったが、それでもこの小さな蜘蛛には通じたらしい。魔女のだらりと広げた手の先に何かが載せられた。柔らかくぬるりとした、細長い感触。ミミズだろうか。
「私、もう、何も食べないわ。これはあなたが食べなさい」
両腕を広げ、虚無の闇を見上げたまま魔女は呟いた。
蜘蛛の動きが止まる。どうして、なぜ、という意思を発しているのを何となく感じるが、魔女は何も口にするつもりはなかった。
「本当にもういいのよ。それより、みんなは大丈夫かしら。ここへ来ないということは、あなた、ちゃんと言いつけを守ってくれたのね」
最後に屋敷を出るとき、この蜘蛛にだけは頭の中で練っていた計画を告げていた。自分が捕らえられても誰も助けに来るなと、皆に伝える役目を蜘蛛に託していたのだ。
今でも毎日、頭上の穴にやってきて鉄格子ごしに様子を見に来る獣たちの気配は感じているが、それきり彼らも手を出そうとはしない。魔女の命令を忠実に守っているのだ。
「もう少し……もう少しなの……」
魔女は瞼を閉じた。
陶磁器のような眉間に皺を寄せ、闇へ心を泳がせる。そして、極限の飢餓に陥り空っぽになった己の肉体の隅々まで意識を這わせた。ほとんど活動を停止した肉体のその奥で、微かに蠢く力――自分を魔女たらしめる不思議な力――普段は凪のように沈黙しているそれが、静かになった身体の中で確かに息づいているのを鮮明に感じとる。
生まれついたとき、自分を産み落としたはずの母や父の姿はなかった。孤児として生き、この珍しい相貌と、獣たちと心を通わせる不思議な力を忌まれ、恐れられながら隠れ棲んだ。魔女と蔑まれ、罵られ、迫害を受けながらもこの力と共に生きてきたのだ。
自分が何者であるのか、その正体を知る手がかりはない。しかし、不可思議に渦巻く力が確かに自分の内に存在しているのがわかる。そして今こそ、その力を全て使い切る時がやってきたのだ。
「……お願い」
固く目を閉じたまま魔女は呟いた。
「私の手に触れていて」
微細な毛に覆われた細い脚が魔女の指先にそっと載せられた。吹けば飛ぶような軽い感触ではあるが、それが何よりも力強く感じて、魔女は目頭を熱くした。
身体の奥底に感じる力の息づかいに全身全霊を傾け、ゆっくりと引きずり出していく。荒く息を吐き出しながら、頬から頭を断ち切るように血の気を走らせ、一心不乱に意識を集中させた。
「ああ……」
ふつりと声が漏れ出る。
胃の底から、胸の内から、喉へ口へと何かがせり上がってくる。滾るように熱い怒濤のうねりが押し寄せてきて、色の抜けきった白い唇から勢いよく迸った。
見えない力が猛烈な勢いで闇を駆け抜け、穴を囲む壁にぶち当たる。だがそれきり何の物音もしなかった。肩を浅く上下させる魔女の息づかいが闇の静寂に呑まれるばかりである。
「ああ。……なんてこと」
絶望に満ちた声で魔女は呟いた。
穴を取り囲む頑丈な石壁は、あろうことか、魔女の奥底に秘めた力を易々とかき消してしまったのだ。
かつて東の町が営んでいた鉱山で発見された、新種の鉱物である。あまりの頑丈さ故に魔女を捕らえる牢として壁に加工されたのだが、どういうわけか魔女の未知なる力を無力化する効力が秘められていた。
――いいわ、そういうことなら。
魔女はもう一度瞼を閉じた。深く息を吸い込み、湿った空気で肺を満たす。
その間、蜘蛛は全てを見ていた。愛する魔女が再び命を削り全ての力を放出していく様を、ただ呆然と見ているしかなかった。
それは穴の中の闇を駆け、壁の石に幾度とぶつかり遮断されながらも、いよいよ鉄格子を抜けて外へと飛び出した。
魔女の魂とも言えるその力は手始めに穴の傍で丸まっていた蛇やねずみ、兎といった魔女と親しい小動物へ入り込んだ。それでも勢いは収まらず、木々の枝に止まって辺りを監視していた鴉の中に飛び込み、森を闊歩する鹿に取り憑き、鼬に呑み込まれ、魔の森に息づく全ての生き物たちの生命に触れていった。
彼らは皆、目を見開いたまま硬直し、しばらく呼吸を止めていたが、やがて苦しげに身体を戦慄かせ、身もだえしながら己の身体に侵入する未知なる力に抵抗する。しかし魔女の力は衰えぬまま彼らの生命に取り込まれていった。
その夜、森に生きる獣たちの生態が大きく狂いだした。魔女の力を呑み込んだ彼らの身体はまばゆい金の光を帯びて、これまでにない特殊な能力を発現させたのである。
穴の底で魔女の傍にいた小さな黒蜘蛛は、ふと感じたただならぬ気配に身震いした。体中の聴毛が逆立ち、外で不測の事態が起こっていると、生物としての本能が彼に訴えかける。
魔女は深々と息を吐き出し、糸が切れたように脱力した。一体彼女が何をしたのか、不安に駆られた蜘蛛は彼女の頬を脚でつついた。
「こわがらないで」
魔女の優しい声が小さな蜘蛛を包み込む。
「今にわかるわ。私の力をみんなにあげたの。あなたにも……あげなくちゃね」
戸惑う蜘蛛の触肢に見えない力が触れる。熱く滾るような何かが、彼の口をこじ開けて迫り来る。
蜘蛛に声があったなら恐ろしい悲鳴を上げていたことだろう。彼はひっくり返ってのたうち回り、自らの生命へ強引に触れようとする力を押し返そうともんどり打った。
「大丈夫、大丈夫よ」
歌うように魔女は言う。
「私の計画を成就するために……みんなの力が必要なの」
蜘蛛は脚をぴくぴく震わせながら地に伏せていた。全身の感覚が麻痺していて、辺りの状況が掴めない。
ようやく正気を取り戻して、脚でしっかりと地を踏みしめたとき、彼はふと自らの身体に異変を感じた。おそるおそる脚に、触肢に、目を落とす。
小さな蜘蛛の身体は、闇の中でもまばゆいほどの金色に染まっていた。そして身体の内から湧き上がってくる異様な力の気配を感じ、その気のままに彼は糸を吐きだした。糸は蜜のような金に色づき、これまで感じたこともないような妖しい気配を纏っていた。
「かっこいいわよ」
魔女が微笑んだ。彼女の白い瞳に見つめられて、蜘蛛は変わり果てた自分の姿にますます戸惑いを覚えた。
「みんなも、あなたのようになっているわ」
その通りだった。
間もなくして、鉄格子の蓋が強引に外され、獣たちは穴を飛び降りて次々と魔女の元に集った。皆一様に身体を金色に染め、もの凄まじい気配を発している。そのあまりの変化に蜘蛛は面くらい、気の違えた獣たちが錯乱して魔女を食い殺しやしないか心配になった。しかしそれは杞憂に終わった。獣たちは魔女を取り囲むと一斉に脚を折り、恭しく頭を垂れたのである。
「みんな、わかったのね。ここへ来る時が――」
魔女の掠れた声が霧のように辺りに漂う。
「私はきっと、もう長くないわ。私の力をみんなにあげたから。だから、これは最後のお願い」
闇夜に浮かぶ白い唇が、ゆっくりと開かれる。
「お屋敷をあの男に貸したわ。だけどそれは期限付き。あなたたちには、時がきたら屋敷を取り戻してほしいの」
魔女は語った。
あの夜、地下室から皆を追い出した後、自らの血肉を費やし、死体を使って美しい人形を作ったこと。それがゆくゆくは現領主の跡取りを誘惑し、妻となるであろうこと。
「生まれた赤子は当然私の魂の一部を継いでいる。そしていつか、私の魂を完全に受け継いだ本物の魔女が誕生することでしょう。もし産まれたら……鴉」
と呼びかけると、ばたばたと数羽の鴉が金色の翼をはためかせた。
「あなたたちは擬態の力を持っているわね。それを使って屋敷に潜入し、その子の世話をしなさい。おそらく忌むべき魔女が産まれれば、屋敷の者は不気味がってここへ同じように封じ込めることでしょうが、そうなればある程度成長するまで世話を続けて、途中で手放しなさい。もしその子が野を這う見知らぬ獣に囓られでもしたら、その時は魔女ではないと見捨てて、次の子供を待つのよ」
カア、と一声鳴く。彼らは自身に定められた役割を胸に刻みつけた。
「他の子たちも同じよ。産まれた子が全ての生き物を味方につけて完全に魔女となれば、どうか私と思って尽くして頂戴。そして共に屋敷を奪い返し、領主から妻も財も、その命までも、何もかも取り上げておしまいなさい」
魔女に命じられるまま獣たちが去ると、穴の中に再び静寂が戻った。小さな蜘蛛はそろりと近寄り魔女の傍らに佇んでいた。
「あなたは本当に、ずっとここにいるのね。……そんなに私が好き?」
からかうような笑みを含ませてはいるが、耐えがたい苦痛が吐息に滲み出ている。
蜘蛛は魔女の身体に這い上がり、浅く呼吸する胸の上でじっと魔女を見つめた。白磁のような頬はげっそりとこけ落ち、首にはくっきりと骨が浮いていて、見ていて胸が痛くなるほど弱り切っていた。蜘蛛の憂心を知ってか知らずか、彼女は続ける。
「あなたは、初めて見たときから独りぼっちだったわね。まあ蜘蛛なんて、元々群れない生き物なのでしょうけど。それにしても、まるで周りからはじかれているみたいに、いつも独りきりだったわ」
魔女の見抜いたとおり、この小さな蜘蛛は同じ種族から虐げられていた。それは彼に度胸がなく、餌一つも満足に狩ることができない臆病者であったからである。
「でもね、私は知っている。あなたはとっても優しい子。私がみんなに言えない悲しみを抱えたとき、みっともなく恐怖を抱いたとき、いつもあなたは傍にいて、私と共にいてくれたわ」
人間の町へ降り立つときも、男に裏切られて嘆き悲しんだときも、いつもこの小さな蜘蛛は魔女の心に耳を澄ませ、傍に付き従っていた。
「あなたは優しすぎる。だから生き物を狩ることができない。不器用で、情が深くて、確かに少しばかり臆病かもしれないけれど、あなたがあの人に牙を剥いてくれたこと、私は一生忘れないわ。……」
愛する魔女の唇から淡々と褒められて、蜘蛛は今にも天に昇りそうだった。その小さな身体に収まりきらないほどの感情が波打ち、思わず身体を伸ばす。脚が伸び、腹部が肥大して、視界が思わぬ高さになる。
いきなり巨大化した自身の身体に驚き戸惑い、蜘蛛は慌てて魔女を見下ろした。蜘蛛に覆い被さられて、彼女は瞳孔のない白い目を数回瞬き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、なんて頼もしい、強そうな蜘蛛なのかしら。外に出たら、水たまりに映してその身体を見てご覧なさいな」
おっかなびっくり、蜘蛛は太く長い触肢を揺らした。そっと伸ばして、おずおずと魔女の髪に触れる。白い絹糸のような美しい髪だった。何も口にしていないのでやせ細ってはいるが、こうして見ているとなんて神秘的で、美しい、儚い少女の姿をしているのだろう。
「あなたにはとても感謝しているわ。とても……。だから、最後にご褒美をあげたいの。ほんのお礼に」
魔女は両手を広げた恰好のまま目を閉じた。
「私を食べなさい」





