第三十一話 手記 七
『いっそのこと、あの人の思うとおりに町へ堂々と出向いて、思い切り仕返ししてやろうかという黒い考えが心の底からふつふつと湧き出てくる。鴉に目玉を抉り取らせようか、蛇たちに首を締めさせようか、ねずみに全身を齧らせようか――ありもしない、魔女の『呪術』とやらの恐怖の前に、青ざめ怯える彼の顔を想像した。ざまみろ、と言いたくなるような清々しさを感じた。そして同時に、心の奥に鋭い痛みが走った。
悲痛に歪んだ彼の顔を思い浮かべると自分まで打ちのめされてしまう。気が遠くなるほど長い年月を生きてきたというのに、あんな若い男の言動一つに振り回されるなんて、なんて情けないのだろう。この不安定に揺れる心を鎮められないまま、時間だけが過ぎていく。
気を紛らわしたくて地下へ降りた。書物にそれほど興味がないのでこれまで訪れることはなかったが、床から天井までびっしりと並んだ書籍に囲まれたこの空間は、ほどよい薄闇とひやりとした空気に満ちていて、心を落ち着かせるのにちょうど良かった。
この情けない、頼りない私をみんなに見られたくなくて、部屋に戻らず地下に閉じこもった。壁の隙間から出入りできる小さな生き物たちだけはこっそり覗いていたようだけど、彼らは私の気分を察してか、何も言いはしなかった。
適当な書物を手に取りながら粗末な木の椅子で膝を抱える。そして持ち込んだ蝋燭が溶け切りそうになったとき、ついに私はひらめいてしまった。
次の瞬間には、私の頭の中で一つの壮大な計画が浮かび上がっていた。』
屋敷には複数の地下室が存在している。魔女はキッチンへ降り、石床に取り付けられた扉を開いた。たちまち闇から這い出た冷たい空気が肌を撫でる。後ろで待機している兎に燭台を手渡して暗闇の中へ降り立った。
かつて食材が保管されていたであろう棚や木箱などを避けながら、奥へと進んでいく。燭台の灯火を掲げ、その向こうを照らした。
無数に積まれた青白い肉体が、蝋燭の灯の輪の中にぼんやりと浮かび上がる。
「ありがとう」
魔女の声が暗闇に響く。
「これだけ集めるのは大変だったでしょう」
魔女は死体の山の傍まで来ると手近な棚に燭台を置き、死体の一つ一つを調べながらそっと床に降ろしていった。
白い身体が床に並べられていく。彼女は全ての死体に深く頭を垂れながら手のひらで触れ、隅々まで観察していた。
「見つけたわ」
緊張を含んだ声に、部屋の隅で待機していた獣たちが一斉に首をもたげる。次いで、鹿など中型の獣たちが傍に置いてあった横長の台をからからと押して、魔女の方へと運んでいった。
その死体は、台の上にそっと載せられた。青ざめ冷たく固くなってはいるが、蜜の流れるような金の髪を持つ美しい娘である。魔女は白い指先を伸ばし、固く閉じられた瞼をこじ開けて瞳の色を確かめた。
「もう一つ、台を持ってきて頂戴。道具もお願い」
鴉が飛んできて鈍く光る銀色のナイフを台に置いた。兎たちが自らの身の丈ほどもある硝子壺を運んできた。大勢連なった黒い蜘蛛たちが革袋を引きずりやってきて、蛇たちは頭に木箱を載せて運び込んだ。
準備が整うと、魔女は自ら台に乗り、隣の死体と同じように横たわった。ナイフを一本取り、瞼を閉じる。
「みんな、今からやることは、私のためなの」
できるだけ声を張り、明るく聞こえるよう努めた。獣たちは魔女を慕っており、時には命に逆らってでも魔女を助けようとするからだった。
「私はこれから、儀式をする。とっても大切な儀式よ。これをしないと、後で私が困るの。ただ、一時的とはいえとっても痛くて苦しいわ。だから例え私が苦痛のあまり激しく叫んでも、のたうち回っても、助けてほしいと訴えても……私のためと思って、止めないでいられる子だけがここに残りなさい。それが守れなさそうな子は、今すぐ地下室から出て行って頂戴」
瞼を閉じていても、彼らの気配の動きは手に取るように感じられる。石床を這う微かな音や羽ばたき、足音。それらが静まるまで待って、それからゆっくりと目を開けた。
地下室はしんと静まり返っていた。がらりとした空間に並べられた白い身体の群れと、陰々とまたたく蝋燭の灯、自分の息づかいしか存在しないように思えた。
やはりね。魔女は目を伏せた。銀のナイフを握りしめる手がみっともなく震えている。しかし、同時に深く安堵していた。
これで、邪魔されることはないわ。
ふと足裏に何かが擦れる頼りない感触がした。足下に目をやると黒い蜘蛛が一匹、魔女の足指に細長い脚でしがみつき、小さな黒い瞳でこちらを覗いている。
「……出ていかなかったの」
掠れた声で問う。
蜘蛛は意を決したようにそろそろと脚を這い、腹を伝い、魔女の胸元で彼女を見上げた。
「一緒に、居てくれるのね」
『この世で体験した拷問や処刑は数あるが、最も苦しくおぞましい処刑は、生きたまま皮膚を裂き、からだの全てを取り出すという非人道的なものだった。不死の身体を持つ私は終わらない苦痛の地獄の中を悶え苦しみ続けるしかなかった。そのおぞましい記憶は今でも思い出す度に身体が震え、吐き気を催す。それと同じ事を今、自らの手で成そうとしている。
私に同情し止めようとする獣たちを追い出しても、私自身の恐怖が決意を削いでしまう恐れがあった。むしろそちらの可能性の方が強い。だから、地下室に蜘蛛が残ってくれた時は心の底から安堵した。
ナイフを握りしめ、震える手を押さえながら腹を裂く。わけのわからない声を張り上げながら、猛り狂った獣のように叫びながら、手足をのたうち回らせながら、今にも消え入りそうな決意を握りしめて腹の奥へ腕を突っ込む。赤い鮮血が恐ろしい勢いでこぼれ出て、身体の脇に広げた革袋へ流れ落ちていく。
身体の中のものをトレーに並べる。それらは燭台の炎に照らされて毒々しいほど赤々と脈打っていた。気を失いそうな激痛に耐えたというのに、私の内臓はまだまだ残っている。
もう後には引けない、それなのに、これから続く恐ろしい苦痛への恐怖に手が止まる。赤くぬめった手指からナイフが滑り落ち、私の意思はほの暗くうち消えてしまいそうになった。このまま倒れ込んで、身体が回復するまで眠ってしまいたい。この痛みと恐怖に別れを告げ、何もかも手放して休んでしまいたい。……
腹の上に落ちたナイフに蜘蛛がよじ登り、六つ並んだ黒い瞳で真っ直ぐにこちらを見上げていた。まるで私のくずおれそうな心を見透かし、叱咤するように、小さな鋏角を動かして。
その時、朦朧とした脳裏にあの人の顔がよぎった。あの人の望み、憎たらしい妻、子供、屋敷のこと――私の絶望と悲しみ、燃えるような悔しさ、それらを全て思い出して、消えかけた心の灯火が火花を散らす。
今逃げたら、何も残らない。何にもならない。やるのよ。この苦しみを乗り越えなければ。
石壁に囲まれた暗闇に、自分のものとは思えぬ絶叫が響く。小さな蜘蛛に心身を支えられながら、私の身体の中身のすべてを、冷たく美しい死体に移していった。』





