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蜘蛛の塔  作者: シュリ
Truth

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30/43

第三十話 蜘蛛の部屋

 夕食後、母は仕事のために自室へ籠もってしまった。三階へ行って黒い本を取ってこようかと思い立ったところで、メアリに呼び止められる。

「お嬢様、よろしければ、そろそろ文字のお勉強をなさいませんか」

 書物や用紙の束を抱え、にこやかに微笑む彼女に、リリーは目を輝かせた。

「いいの?」

「ええ。こちらでの生活にも慣れていらっしゃる頃だと思いますし、このあたりでそろそろ色々なことをお勉強なさいませんと」

 リリーの部屋には白く塗られた木製のテーブルと、慣れ親しんだ揺り椅子がある。椅子に腰かけ、メアリが書物や用紙をてきぱきと並べるのを見つめながらリリーは訊ねた。

「この羽根は何に使うの? 瓶もあるわ」

 目の前に茶色みがかった羽根がまっすぐ立てられている。その隣には手のひらほどの小さな瓶があり、黒い液体がなみなみと注がれているのが見えた。メアリは微笑みながらリリーの手を取り、羽根を優しく握らせる。

「この羽根で文字を書くのです」

「そうなの?」

 目を丸くして手の中の羽根を見る。訝しげに少し揺すってみると羽根がゆさゆさと左右に振れた。

「どう使うの……?」

「一緒にやってみましょうね」

 メアリに握られるまま、手は黒い瓶へと運ばれる。羽根の白い先が瓶の中へ差し入れられると、黒い液体がすっと吸い込まれ、滴り落ちるほど黒く染められた。

「汚れちゃったわ」

「それで良いのです」

 メアリはリリーの白い手を紙の上へ運び、羽根の先を軽く押しつけて動かした。薄く黄ばんだ紙の上に黒い線が引かれる。縦や横にいくつか組み合わせ、奇妙な模様を描いて見せた。

「できましたわ。これは、リリー、と読みます」

「これが、リリー……?」

 自分の手で描かれた模様をじっと見つめる。いくら眺めてみてもやはり言葉は浮かんでこなかった。

「はい、何度も書いて覚えましょう」

 紙の上にいくつもいくつも、同じ名前を書き連ねていく。リリーという自分の名前が書けるのを嬉しく思い、口元を綻ばせながら羽根ペンを握り、瓶と紙の間を往復させる。

「お上手ですわ。とても綺麗に書けていますね」

「よかったわ」

 メアリはリリーの手から羽根ペンを取り、新しい紙に、今度は全く違う線をいくつも引いた。それらは紙一面に並べられ、どれもが異なる形を取っていた。

「こちらが、全ての文字を並べたものです。先ほどお嬢様が練習なさったリリーという名前も、この文字から作られています。次はこれらをすべて覚えましょう」

 リリーの白い瞳が不安げに紙の上をすべる。

「これ、全部、文字なの……」

「はい。大丈夫ですわ、明日も明後日もお勉強は続きますから、ゆっくり覚えていきましょうね」

 黒い模様を深く見つめていると眩暈がしそうだった。果たしてすべて覚えられるのだろうか。メアリに言われるまま声に出し、羽根ペンで書き連ねていく。たどたどしくも一通り書き写し終えた頃には、目がどんよりと重く疲れていた。

「おや、いつの間にかこんなに時が経っていたのですね」

 窓の外を見やる。月がぽかりと高く昇っているのを目にして、メアリは優しく微笑んだ。

「お嬢様、よく頑張られましたね。本日はもう終わりにいたしましょう」

 メアリが去り、部屋に一人残される。メアリが置いていった書物や、文字を書き綴った紙をぼうっと眺めながら、リリーは背もたれにくたりと身体を預けていた。次いでふわりと欠伸をかみ殺す。座って手を動かしていただけなのにひどく疲れている。何かを学ぶのには全身のあらゆるところを使うのだ、とリリーは思った。

 メアリは今頃、屋敷じゅうを消灯して回っているのだろうか。椅子の上で思い切り身体を伸ばして、そろりと腰を浮かせる。音を立てぬようそっと扉を開き、廊下の端々に目をこらした。右側の母の部屋から伸びる細い光以外は人の気配がない。足を忍ばせて廊下へ出る。

 階段を上るのに息さえ殺していた。目的は黒い本である。初めはこんな風に隠すつもりもなかったのに――読み進めていくうちに、これは人目につかせてはいけない気がしていた。だが、黒い蜘蛛は別だ。彼とは何でも共有したいと思える。このところ独りで読むには心が苦しくなりそうな箇所が続いているので、むしろ頼りたかった。

 それに、黒の本自身もまるで誰にも読まれたくないと訴えているように思えるのだ。メアリや屋敷の者が近づくと消えてしまう。――そういえば、黒蜘蛛は手に取ることができていた。何故だろう?

 三階の書斎へたどり着き、奥へと踏み込んでいく。相変わらず書籍の山が散乱しているが、慣れた足取りで避けていく。やはり引き出しの底に眠っていた本を掴み取ると、気配に注意しながら静かに自室へ戻っていった。

 階段を下り、廊下を曲がり、自分の部屋に入りかけたところで、ぴくりと動きを止めた。注意深く耳をそばだてる。静寂に満ちた暗闇の中で微かな物音を聞き取った。

 細いもので壁を引っ掻くような繊細な音である。それはどうも隣の部屋から聞こえてくるようだった。空き部屋だったが、メアリの言ったとおりに蜘蛛が居場所を移してくれたのだろうか。部屋を暗くしているのか隙間から明かりは見えず、居るのかどうかはわからない。

 息を吸い、意を決して手を扉に近づける。

 なるべく音を響かせぬようにしながらこんこんと戸を叩く。しばらく待ってみるが反応はない。首を傾げて再度叩くが、まるで誰もいないかのようにしんと静まり返っている。

 聞き違いだろうか、と思ったが、自分の耳が確実に物音を捉えた感触を思い出し、そんなはずはないと首を振る。そして、ある事に思い当たった。

 ――そうだわ、扉を叩く合図は人間のもの。蜘蛛にはきっとわからない。

 自分の考えに改めて納得し、今度は鈍い金色の取っ手に手をかける。心臓の鼓動が急かすように速くなる。躊躇いつつも、扉を小さく開き、隙間を作って中を覗き見た。そしてはっと息を呑んだ。

 開け放された窓の外に青白い月が浮かび、霧のような光がふりそそいでいる。風にそよいでいるのはレースのカーテンと見紛うほどの繊細な糸束で、天井からしな垂れ、また壁や床にも張られて、月の光を受けながらきらきらと細い光が瞬いていた。

 目を見張るほどの幻想的な空間だが、見えるのはそれきりである。不安に駆られながら見渡す限りの糸の滝に目を凝らし、消え入りそうな声で呼ぶ。

「……どこにいるの」

 さあ、と風が吹き込み白い髪を撫でる。糸束が繊細に揺れ動き、窓から離れた奥深くで何かが一瞬きらめいた。それが黒く丸い瞳だと気がついたときには、目の前に巨大な黒い影が聳え立っていた。

「あ」

 慌てて居住まいを正し、一歩下がる。片足を廊下に出したまま、リリーは申し訳なさそうに目を上げた。

「勝手に入ってごめんなさい」

 衝動的に訪ねてしまったが、気を悪くしていないだろうか。

「部屋は、どう……? 居心地、悪くないかしら」

 声が焦ったように上ずるのが自分でもわかった。

 蜘蛛は相変わらず返事をしないのでただ沈黙が流れた。聞こえるのは自分の息づかいと、糸束が風にすれあう淡い音だけだった。

「あ、あのね、もし良かったら」

 胸の前で、ぎゅ、と抱きしめた黒い本を見せる。

「続きを一緒に読んでもらえないかしら……」

 リリーの言葉が途切れると、蜘蛛はくるりと踵を返して部屋の奥へ戻るそぶりを見せた。少し進んでから黒い巨体をこちらへ向けて、手招きするように触肢を動かす。

 誘われているのかしら。ゆっくりと足を踏み入れ、扉を閉めた。天井から垂れこめる糸をくぐり抜けながら、蜘蛛の後に続く。奥には見覚えのある糸の寝床があった。

「わあ……」

 糸の網が幾重にも張られたベッドと、天井からこぼれ落ちるように降り注ぐ糸のカーテン。その白く透き通った糸の連なりは整然と編まれたレースそのものであり、豪奢な天蓋を成している。リリーは絵本で見たお姫様のベッドを思い起こした。

 メアリたちが用意してくれた自室のベッドもそれはそれは大きく立派で、寝心地も良く大変気に入っているが、目の前のこの寝床は例えようもないほど美しく、神秘的であった。

 不思議だった。この部屋はリリーの自室と広さは変わらない。空き部屋だった頃はがらりとした殺風景な、ただの真四角の空間だったのに。

 なんて素敵な部屋……

 そう口に出したいのに、呆気にとられて声が出てこない。

 蜘蛛の、六つ並んだ瞳の全てと目が合った。ベッドには小さな少女がちょうど一人座れるくらいの隙間が空いている。吸い込まれるようにそっと腰を下ろした。

 毛むくじゃらの温かな身体に半分埋もれた時、自分の身体が夜風に冷えていたことに気づいて身体を微かにふるわせた。察してくれたのか、蜘蛛の身体がわずかに動き、彼女の身体を包み込むように姿勢を変える。

 少女の蝋のように白く細い指が、黒い本の表紙を開く。魔女の語る過去へと意識を注いでいく。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 一気読みしたあとの賢者モードで気がついたのですが、森の入口が見えなくなるほど強力な鉱石を加工したものなのにメアリは塔に通って少女のお世話ができていたところが矛盾してるんじゃないかな? …
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