第二十九話 余韻
『戻ってきた鴉から事のあらましを聞き、私の心は深い深い闇の空虚に陥った。彼は私との約束を破るばかりか、しびれを切らして復讐に来ると考え備えているというのだ。そんな考えは私の中に毛頭ないというのに。
そう簡単に約束を守ってもらえるとは思っていなかったが、それでもほんの一握りの淡い期待が胸の奥にあったのは事実だ。それを、いとも簡単に踏みつぶされてしまった。
獣たちを部屋から追い出して、私は独り泣き暮れる。心が少女に帰ったようだった。
遙か遠い昔――とうに打ち棄てた時代の記憶であるが、あの頃は人間の言動にいちいち心を揺り動かされ、傷つき涙していたものだ。しかしあれから気の遠くなるほどの季節を巡ってきた。今更、たかが人間一人に裏切られたからといって心を乱すことなど、あってはならないというのに。
私の心は今、真っ二つに引き裂かれようとしている。あの男に裏切られた口惜しい気持ち。そして、彼の望みに耳を傾けたいというどうにもならない本能的な欲求である。理性では彼の手ひどい仕打ちに激高しているが、心の奥底に相反する思いを抱いているのだ。現に、私は静観を決め込んでいた人間のもめ事に力を行使してしまった。彼がたった一度願っただけで私の気高い魂はいとも簡単に折れてしまったのだ。
当たり前の孤独の中で、それを苦とも悲とも思わぬよう生きてきたのに、ただ一度あの手に触れ、その温かさを知ったとき――これを知る前にはもう戻れないのだと悟った。
孤独は、暗くて冷たくて、ひどく寂しいものだと改めて思い知った。
彼は今、私を欲しがっている。私の身柄を拘束し、その命を握り、屋敷を奪おうと企てている。それを聞いたとき、理性とは別のところで、私の心が動いていた。彼の望みに耳を傾けたいというばかばかしいほど愚かな心が――
それを今になって自覚し、私は今途方に暮れている。「魔女」としての誇り高い魂と純粋な本能との激しい争いを諫めることは、到底できそうにない』
文字の最後は滲んで見えなかった。リリーの白い瞳は薄らと赤く充血し、大粒の涙が浮かんでいた。続きを早く読みたいのに、出そうとする声が震えて出てこない。
きぃ、と扉の軋む音がした。はっと顔を上げると扉の隙間からメアリの金色の瞳が覗いている。
「お嬢様、こんなところにいらしたのですか」
一歩進んで、怪訝な顔つきで部屋を見渡す。床や壁一面の黒ずんだ糸に目をやり、その奥でくっついている蜘蛛と少女の姿を捉える。
「そろそろご入浴ですよ」
「もう、そんな時間なの」
慌ててごしごしと目を擦りながらリリーが立ち上がる。案の定、右手に持っていた黒い本は忽然と姿を消していた。
「はい。さあ、すぐにご支度を――」
「あのね、メアリ。わたしの部屋の隣、空いているでしょう。そこに彼を棲まわせても構わないかしら」
「はい?」
メアリの目が一瞬、鋭く光った気がした。部屋の陰と半ば同化している黒い巨体をじっと眺める。
「……お嬢様が、そうお望みでしたら。ですが――」
「だって、この部屋埃っぽいわ。じめじめしているし、暗いし……」
「蜘蛛は元々そういう環境で生きるものですよ」
メアリの言葉に、そうなの? と振り返る。蜘蛛は微動だにしない。
「じゃあ、わたしの隣の部屋は、居心地悪いの……?」
大きな白い瞳で迫られ、困窮した蜘蛛の六つの眼が一斉にメアリに向けられた。
――ここを動く気はない。そう伝えてもらえないか。
メアリの頭の中に、蜘蛛の意思が伝わってくる。彼女は微かに首を傾げた。
――なぜ? お嬢様がそう望んでいるのに。
――これ以上、彼女の視界に自分がいれば、彼女はまた餌になろうとするかもしれない。もう塔でのことや、蜘蛛のことは忘れてもらいたい。
彼の切実な訴えに、確かに、とメアリは納得しかける。しかし、小さな白い少女の真剣なまなざしを見ると、必ずしもそうとは言えない気がした。
メアリは目尻を下げ、口元に優しい微笑を浮かべた。
「お嬢様、その者は、部屋を移すことに異論はないようですよ。すぐに用意をさせましょう」
「本当!? 良かった」
ほっとしたように胸をなで下ろし、綻ぶ花のように笑うリリー。蜘蛛は焦ったように再度メアリを凝視したが、彼女は見ないふりをした。
「じゃあお隣の部屋、お掃除しておくわね。お風呂に入るのはその後にするわ」
「いけません。掃除は使用人にやらせますから、お嬢様はどうぞ浴室へ」
メアリは部屋へずんずん入ってきて、やや強引にリリーの手を取った。
「え、でも、これはわたしの我が儘なのよ」
「ここではお嬢様のご意向が全てですから、我が儘などありはしませんよ」
それなら掃除も『ご意向』なのだけど――
という呟きを呑み込みながら、リリーは大人しく従った。メアリはその背を押して促しながら、ふいと部屋の中を振り返る。
――もう、この方の中にあの頃の思いはない。あなたも忘れて、この方の望むように動いたらどうか?
そう、意思を送り込みながら、金色の目を優しく細めた。
浴室でたっぷりと汗を流した後、広間で夜の食卓を囲んだ。例によって食べきれないほどの料理の皿が並び、それらを少しずつ口に運びながら、リリーは口を開く。
「お母さま、メアリ、提案があるのだけど」
二人はフォークを口に運びながらこちらを見た。
「どうなさいました」
「あの、蜘蛛も、一緒に食事をしたら、だめかしら」
メアリは小さく咀嚼しながら視線を宙へ泳がせる。
「そうですわねえ……彼の食事風景はいささか、この食卓には不似合いかと思いますが」
「そうなの?」
驚いたように目を見開くリリーに、母親もうなずく。
「彼はこんな風に、ナイフやフォークを使わないでしょう」
「ええと……」
『塔』での出来事を思い出す。大きな蛇を丸呑みした蜘蛛。あの後は、図鑑などで見たとおりに牙を突き立てて体液を啜ったのだろうか。いずれにせよ自分たちの食事方法と大きく異なるのは明白だった。
「そう、かもしれないけど、でも……」
言いながらうつむく。蜘蛛はたった一人で仲間たちから離れ、この屋敷に来てくれているのだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。寂しくはないだろうか、という不安がよぎるのだ。そんなリリーの気持ちを見透かしたようにメアリは口を開く。
「彼なら大丈夫ですわ。そもそも蜘蛛という生き物は元来独りで狩りをし、食する生き物です。誰かと食卓を囲むなど性に合わないでしょう」
「……うん」
それでも、いつかどこかで美味しいものを一緒に食べたいなあという思いは消えなかった。





