第二十八話 手記 六
窓の桟に頬杖を付き、揺り椅子に揺られながらため息をつく。その表情は仄暗い憂いを帯びている。
「来ないわね」
じっと遠く彼方を見つめながら皮肉めいた笑みを滲ませた。
「忘れたのかしら。約束」
彼女の言葉に聴き入っているのは、あの臆病な蜘蛛である。彼女を気遣うようにその一挙手一投足を仰視しているのだ。
ポケットを探り、銀時計を取り出す。男から預かったものだ。約束通り妻と子供を差し出せば、一緒に返してやるはずだった。生き物たちが戦いを終わらせてから幾日経っただろうか。いい加減に来てもいい頃合いである。
「様子を見てもらいましょうか……」
魔女が呟くと、空から黒い影が素早く侵入してきて足元にするりと降り立った。
「ごめんなさいね、あの人のこと、見てきてもらえるかしら」
鴉はうなずき、窓の外から真っ直ぐ飛び出していった。遥か上空より大地を見下ろし、鋭い目で観察する。森を超え、町が見えてくると少しずつ下降していった。
町の一番奥にある小高い丘に音もなく降り立つ。目の前には堅牢な館が聳えている。ここに件の男が住んでいることは知っていた。この鴉は特に男をよく観察してきたからだ。
館の周りを少しうろつき、すっと羽ばたく。三階の端にある細長い窓のひさしに飛び乗った。
首を下へ突き出して、そっと覗き込む。開け放たれた窓の向こうに赤い絨毯の敷かれた部屋があり、男女がこちらに背を向けて座っているのが見えた。革張りのソファに腰掛け、茶でも飲んでいるのだろうか。魔女が一息つくとき同じように休息をとっていたのを思い出す。
鴉が鋭い目を向ける先で、二人は声を潜めて話していた。
「大丈夫だ。心配いらない。何度も言ったろう、その辺りはきちんと詰めて話して来たんだ」
「でも、相手は恐ろしい魔女なのでしょう。逆上したらどうなるか……」
「それも踏まえてきちんと対策してある。私を信じてくれないか」
男はそう言い聞かせて立ち上がった。
「ちょっと、打ち合わせてくるよ。君はゆっくり休んでいなさい」
「え、ええ……」
男が奥の扉の向こうへ姿を消した。鴉はまた羽ばたき、館の外をぐるりと一周する。そして、一階のある窓の前まで来るとするりと窓の桟に飛び移った。
長い廊下の真ん中で二人の男が立ち止まっている。革のごつい装備をした壮年の男に、領主が話しかけているところだった。
「そろそろだと思うんだ」
「ふむ。そうなると、こちらも覚悟をしておかねばなりませんな」
壮年の男は立派に生えそろった顎髭を触りつつうなずく。
「森周辺に兵たちを固めております。魔女が姿を現した時点で仕掛けを発動するよう命じておりますから、とにかく気を引き締めてかかるよう伝えましょう」
「そうしてくれ。それと、捕獲後のことだが。魔女は何らかの呪術によって不死であるらしい。どこかへ永遠に封じ込めておく必要があると思ってな、牢獄を私の方で極秘に用意しているところだが、一応把握しておいてくれ」
「かしこまりました」
領主は「頼んだぞ」と囁き、廊下の向こうへ足早に歩いていった。鴉も壁の外から後を追う。男は館を出て厩舎へ入っていった。手近な窓から首を突き出している栗毛の馬を連れ出す。
「距離はそうない。こいつで十分だ」
そう言って綱を引き、馬を走らせる。
鴉は目を細め、上空からその背を追う。馬は町から外れ、のどかな田園を走った。
陽が傾き、遠くに見える山々が小麦色に輝いている。川を越え、かつて東の町であった領域へと入っていく。
鴉の黒く濡れた瞳に崩れかけた町の情景が映る。戦争のときに比べいくらか復興し、人々も少しばかり移住している様子が見られるが、まだまだがらりとわびしい景色が広がっていた。その中を男はどんどん突き進んでいき、やがて東の町の果てにある小高い山の麓でようやく脚を止めた。
そこには山となした瓦礫の塊と、急ごしらえで敷かれた線路、トロッコが並べられ、屈強な男たちが汗をぬぐいながら忙しなく行き交っていた。
領主は手近な男に近づき声をかける。
「どうだ、進み具合は」
「へえ、領主様、順調でさ」
男は逞しい腕でごつごつした麻の袋を担いでいる。その中へ無造作に手を突っ込み、薄緑色の鈍く光る石を取り出して見せた。
「奥へ行けば行くほど、ごろごろ転がっていやすぜ」
「なるほど。今後もいろいろと調べておかねばならないな」
「それで、こいつをどうお使いになるんでさ」
領主は口端を吊り上げた。
「なに。ちょっと加工すれば、えらく頑丈になることがわかったからね。罪人を捕らえておくのにうってつけだと思っているんだ」
「ふうむ。石自体はすぐ砕けちまうから一体何の役に立つのかと思っていやしたが……なるほど、そんな面白いやつだったんですねえ」
「そういうことだ。さあ、今週の報告書をいただいておこうか」
「へえ、あちらに」
男が指した先に、木箱が乱雑に積まれている。よく見るとその中に細身の少年が埋もれるようにして座っている。
領主は近づき、そっとかがみこんだ。
「君。今週の報告書をお願いできるかな」
少年は地べたに座り込んでぼろぼろになった書物を広げていたが、目の前の人物が町の領主であるのを見て取ると慌てて立ち上がり、大げさなほど背筋を正す。
「はい、これですっ」
少年は薄汚れた手で分厚い紙束を差し出す。
「確かに受け取った。では」
男は立ち去り、再び馬へと飛び乗った。
鴉は瓦礫の山に両足をつけてその光景を見下ろしていた。一部始終を目に焼き付けると翼を羽ばたかせ、黄昏の空へ飛び去った。





