第十八話 家路
柔らかな日差しの中、屋敷を出るメアリの姿があった。手にはまとめられたロープを持ち、簡素な青いドレスを着て優雅に歩いていく。流れる風になびく黒髪は羽ばたく鴉のようにも見える。
メアリは森の入り口に入り、うなずいた。
「予定通りですね」
金色の瞳が向けられた先。木立にぽかりと開いた出入り口に、二匹の猫が座っている。精巧に作られた置物のようにまっすぐ鎮座し、細い金色の瞳孔を光らせて辺りをくまなく見張っている。
メアリはそのまま真っ直ぐ進み、地面から顔を出した『塔』の前で立ち止まる。そっと覗き込むと、真下に少女の姿を確認して思わず微笑む。
「まあ……さぞ、楽しみに待っておられたのですね」
独りごちて、手にしたロープをはらりと垂らす。『塔』の薄闇の中へと真っ直ぐに降ろしていく。端に括り付けた杭で固定すると、メアリはロープに掴まりするすると降りていった。
メアリが『塔』へ消えていくのを、じっと見ていた気配がある。滑らかな金の鱗。長くうねる細い身体。金の蛇である。彼らは、森の様相が一部様変わりしたことを察知して、この場所を発見した。
見れば、眩しいほど開けた森の出口が見える。
蛇たちは互いに目配せし、するすると近づいていった。
途端に、彼らの動きが止まる。目の前に立ちふさがり、こちらを睨む獣の姿があった。出口の両脇を固めた彼らは、ここを通すまいとグルグル唸っている。
蛇と猫は互いに睨み合った。
柔らかい木漏れ日が差す中で、少女は揺り椅子にもたれて眠っていた。黒蜘蛛の単眼が一斉にメアリに向けられる。
「お迎えにあがりました」
メアリは屈み、そっと肩に手をやった。
「お嬢様」
何度か優しく揺さぶると、少女は目を開けた。少し眩しげに瞬き、自分を覗き込む乳母の姿に気がつく。
「メアリ……」
「終わりましたよ、全て。さあ、参りましょう」
色白のなめらかな手が差し伸べられる。
「あ、待って。この椅子を」
「それなら、蜘蛛が持ってきてくれることでしょう」
ね、とメアリが振り返る。
少女が腰を上げて不在となった揺り椅子に、黒蜘蛛は糸を巻き付けていた。元よりそのつもりだった。少女にとって、この椅子は何よりの心の拠り所であることを知っているからだ。
「まずは私と蜘蛛が上へ参ります。先日の要領でお嬢様を引き上げますから、少しお待ちくださいね」
少女が頷く。
メアリは器用にロープを上っていく。蜘蛛は巻き付けた椅子ごとするすると上へ行ってしまった。
前回と同様、待っている少女の目の前に糸が垂らされる。身体が固定され、真っ直ぐに引き上げられていく。
地上に顔を出した時、あまりの眩しさに目を開けていられなかった。
あの夜見た光景とは様変わりしているように思えた。別の場所へたどり着いたのではないかと思うほど、辺りの様子は違う物に見えたのだ。
鮮やかな緑の木立と、艶やかに色づいた草花。柔らかなそよ風は森の芳醇な香りを乗せて流れていく。雄大、自然、命、そういった言葉が頭の中をよぎっていく。
「今日は良い天気です」
少女に手を貸し、地面に立たせながらメアリが言う。
「私たち鴉も蜘蛛たち同様、陽を浴びれば無事では済まないのですが、私はこうして擬態している間は身を守ることができます。その蜘蛛は、何もせずとも平気なようですが……」
蜘蛛は椅子を背負い込み、こちらをじっと見た。何でもありませんよとメアリは首を振る。
「さあ、お嬢様。一緒にお屋敷へ参りますよ」
「あの、本当に、お母様は」
不安げに少女が口にすると、メアリは人差し指を唇に当て、悪戯っぽく笑った。
「どうぞお楽しみに。全て我々が綺麗に取りはからいましたから」
少女の顔が期待に綻ぶ。その様子を、黒蜘蛛は複雑な気持ちで眺めていた。
森の出口が見えると、少女は「あっ」と声をあげた。
二匹の黒猫がすまし顔で座っている。よく目をこらすと、口をもごもごと動かしているようだった。
「かわいい……」
少女は思わず駆け寄り、そのもふもふとした毛並みに手を伸ばした。触れる直前でしばし思いとどまり、猫の丸い金の瞳を遠慮がちに覗く。
この目。なんとなくどこかで見たことがある気がする。
「猫をご覧になったのは、初めてですか」
後ろからのんびり追いついたメアリが尋ねた。
「ああ、これが猫というのね。初めてよ……」
猫は口をもごもご動かしながら、少女の伸ばした指先に額を擦り付けた。
「わあ……ふわふわだわ。なんて気持ちがいいの、それに温かい」
少女は夢中になって撫でまわす。猫は心地よさそうにごろごろと喉を鳴らした。
「なんてかわいいのかしら……連れていってはいけないの?」
メアリは困ったように眉尻を下げた。
「……猫たちの家は、この森にあるようですわ。お望みなら、どこかで猫を買って参りますから」
名残惜しそうに少女がその場を離れると、二匹の猫はメアリに向かってうなずいた。
もごもご動く口端から、見慣れた金の尾の先が少しだけ覗いている。
木立の隙間から一歩踏み出る。少女の白い身体に朝陽が照りつけ、明るく輝かせた。
少女は眩しそうに目を細めて立ち止まる。
「目を開けていられないわ」
「まあ」
メアリはくすくす笑う。
「そのうち慣れますわ。さあ、私の手を」
二人は手を取り、足元に流れる小さな川を渡った。その後ろを蜘蛛もついて行く。
広々とした丘に、ざあ、と風が流れ、傾いだ草花が大きく揺れる。さわさわと囁くような草木の音が耳を掠めていく。
目が痛いほど眩しいけれど、何もかもが心地良い、と思った。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、足下の草が柔らかく裸足を撫でる。気持ちがよくて、嬉しくて、一つ一つを踏みしめながら歩いた。
白い壁と赤茶の屋根の建物が少しずつ近づいてくる。周囲をぐるりと囲む花壇や、その一角にずらりと並んだ銀色のじょうろまでが見えてくると、少女の顔がいよいよ緊張に強張った。期待と不安がない交ぜになり、口元をきゅっと引き結ばせる。
背中に何かがつんと触れた。振り返ると、蜘蛛が触肢を伸ばしていた。少女の心の波を感じ取ったのだろうか。優しく背中を押すように、脚の先で軽くつんつんと突いてくれる。
「大丈夫。平気よ。……ありがとう」
自分には、蜘蛛もメアリもついている。怖気づくことは何もない。そう思い起こし、少女はまっすぐ前を見据える。
少女とメアリと蜘蛛は、屋敷の前で立ち止まった。見上げるほど大きく重厚な扉が目の前にそびえ立っている。
「では、呼び鈴を鳴らしましょう」
メアリが手を伸ばし、ひもを引いた。
沈黙。
少女にとって永遠とも思える一瞬だった。生唾を飲み込み、聞こえてくる音、見えるもの全てに注意を向ける。
やがて、扉がゆっくりと動き出した。ぎぎぎ、と錆びついたような音と共に、少しずつ開かれていく。
メアリが左側へ身体を避けた。開かれた先の光景が露わになる。
金色の髪の女性が立っていた。美しい微笑みをたたえ、両手を広げて。
少女の唇が震える。掠れた声で、ゆっくりと問う。
「お、母、さま……?」
夢で何度もその背を追いかけ、ついに見られなかった母の顔。その顔は、自分に向かって優しく笑いかけていた。
「おかえりなさい、我が子よ」
ほっそりとした腕が、少女の身体を力強く抱きしめる。
「お母、さま……」
少女の腕は戸惑ったように垂れ下がったままだったが、やがておずおずとその背に回される。
母と娘は抱き合ったまま、しばし時を忘れていた。





